University of Virginia Library

紺掻沙汰

同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覺上人頸にかけ、鎌田兵衞が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年の比取出して、たてまつりけるは實の左馬頭の首にはあらず。謀反をすゝめ奉らんためのはかりごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起し、世を討取て、一向父の頭と信ぜられける處へ又尋出してくだりけり。是は年來義朝の不便にして召使はれける紺掻の男、年來獄門に懸られて後世弔ふ人も無りし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申給はり取おろして、兵衞佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。もし世に出でて尋ねらるゝ事もこそあれとて東山圓覺寺といふ所に、深う納めて置きたりけるを、文覺聞出して、彼紺掻男共に、相具して下りけるとかや。今日既に鎌倉へ著くと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。其より色の姿に成て、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請取り給ふぞ哀なる。是を見る大名小名、皆涙を流さずと云事なし。せき巖の峻しきを伐掃て、新なる道場を造り、父の御爲と供養して、勝長壽院と號せらる。公家にもか樣の事を哀と思食て、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。勅使は左大辨兼忠とぞ聞えし。頼朝卿武勇の名譽長ぜるによて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖靈、贈官贈位に及けるこそ目出たけれ。