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1. 一

 朝、食堂でスウプを一さじ、すつと吸つてお母さまが、

「あ。」

 と幽かな叫び聲をお擧げになつた。

「髮の毛?」

 スウプに何か、イヤなものでも入つてゐたのかしら、と思つた。

「いいえ。」

 お母さまは、何事も無かつたやうに、またひらりと一さじ、スウプをお口に流 し込み、すましてお顏を横に向け、お勝手の窓の、滿開の山櫻に視線を送り、さうし てお顏を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあひだに滑り 込ませた。ヒラリ、といふ形容は、お母さまの場合、決して誇張ではない。婦人雜誌 などに出てゐるお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違つていらつしやる。 弟の直治がいつか、お酒を飮みながら、姉の私に向つてかう言つた事がある。

「爵位があるから、貴族だといふわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天 爵といふものを持つてゐる立派な貴族のひともあるし、おれたちのやうに爵位だけは 持つてゐても、貴族どころか、賤民にちかいのもゐる。岩島なんてのは(と直治の學 友の伯爵のお名前を擧げて)あんなのは、まつたく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、 もつとげびてる感じぢやねえか。こなひだも、柳井(と、やはり弟の學友で、子爵の 次男のかたのお名前を擧げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしよう、タキシイドなん か着て、なんだつてまた、タキシイドなんかを着て來る必要があるんだ、それはまあ いいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルといふ不可思議な言 葉をつかつたのには、げつとなつた。氣取るといふ事は、上品といふ事と、ぜんぜん 無關係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあつた ものだけれども、じつさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいつたやう なものなんだ。しんの貴族はあんな岩島みたいな下手な氣取りかたなんか、しやしな いよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらゐのものだらう。あ れは、ほんものだよ。かなはねえところがある。」

 スウプのいただきかたにしても、私たちならお皿の上にすこしうつむき、さ う してスプウンを横に持つてスウプを掬ひ、スプウンを横にしたまま口元に運んでいた だくのだけれども、お母さまは左手のお指を輕くテーブルの縁にかけて、上體をかが める事も無く、お顏をしやんと擧げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさ つと掬つて、それから、燕のやうに、とでも形容したいくらゐに輕く鮮やかにスプウ ンをお口と直角になるやうに持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあひ だに流し込むのである。さうして、無心さうにあちこち傍見などなさりながら、ひら りひらりと、まるで小さな翼のやうにスプウンをあつかひ、スウプを一滴もおこぼし になる事も無いし、吸ふ音もお皿の音もちつともお立てにならぬのだ。それは所謂正 式禮法にかなつたいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可 愛らしく、それこそほんものみたいに見える。また、事實、お飮物は、うつむいてス プウンの横から吸ふよりは、ゆつたり上半身を起して、スプウンの尖端からお口に流 し込むやうにしていただいたはうが、不思議なくらいにおいしいものだ。けれども私 は直治の言ふやうな高等御乞食なのだから、お母さまのやうにあんなに輕く無雜作に スプウンをあやつる事が出來ず、仕方なく、あきらめてお皿の上にうつむき、所謂正 式禮法どほりの陰氣ないただき方をしてゐるのである。

 スウプに限らず、お母さまのお食事のいただき方は、頗る禮法にはづれてゐる。 お肉が出ると、ナイフとフオクで、さつさと全部小さく切りわけてしまつて、それか らナイフを捨て、フオクを右手に持ちかへ、その一きれ一きれをフオクに刺してゆつ くり樂しさうに召し上つていらつしやる。また、骨つきのチキンなど、私たちがお皿 を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心してゐる時、お母さまは、平氣でひよい と指先で骨のところをつまんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらつし やる。そんな野蠻な仕草も、お母さまが、なさると、可愛らしいばかりか、へんにエ ロチックにさへ見えるのだから、さすがにほんものは違つたものである。骨つきのチ キンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお菜のハムやソセージなども、ひよい と指先でつまんで召し上る事さへ時たまある。

「おむすびが、どうしておいしいのだか、知つてゐますか。あれはね、人間の指 で握りしめて作るからですよ。」

 とおつしやつた事もある。

 本當に、手でたべたら、おいしいだらうな、と私も思ふ事があるけれど、私の やうな高等御乞食が、下手に眞似してそれをやつたら、それこそほんものの乞食の圖 になつてしまひさうな氣もするので我慢してゐる。

 弟の直治でさへ、ママにはかなはねえ、と言つてゐるが、つくづく私も、お母 さまの眞似は困難で、絶望みたいなものをさへ感じる事がある。いつか、西片町のお うちの奧庭で、秋のはじめの月のいい夜であつたが、私はお母さまと二人でお池の端 のあづまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお仕度がどうち がふか、など笑ひながら話合つてゐるうちに、お母さまは、つとお立ちになつて、あ づまやの傍の萩のしげみの奧へおはひりになり、それから、萩の白い花のあひだから、 もつとあざやかに白いお顏をお出しになつて、少し笑つて、

「かず子や、お母さまがいま何をなさつてゐるか、あててごらん。」

 とおつしやつた。

「お花を折つていらつしやる。」

 と申し上げたら、小さい聲を擧げてお笑ひになり、

「おしつこよ。」

 とおつしやつた。

 ちつともしやがんでいらつしやらないのには驚いたが、けれども、私などには とても眞似られない、しんから可愛らしい感じがあつた。

 けさのスウプの事から、ずゐぶん脱線しちやつたけれど、こなひだ或る本で讀 んで、ルヰ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平氣 でおしつこをしてゐたといふ事を知り、その無心さが、本當に可愛らしく、私のお母 さまなども、そのやうなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなからうかと考へ た。

 さて、けさは、スウプを一さじお吸ひになつて、あ、と小さい聲をお擧げにな つたので、髮の毛? とおたづねすると、いいえ、とお答へになる。

「鹽辛かつたかしら。」

 けさのスウプは、こなひだアメリカから配給になつた罐詰のグリンピイスを裏 ごしして、私がポタージュみたいに作つたもので、もともとお料理には自信が無いの で、お母さまに、いいえ、と言はれても、なほも、はらはらしてさうたづねた。

「お上手に出來ました。」

 お母さまは、まじめにさう言ひ、スウプをすまして、それからお海苔で包んだ おむすびを手でつまんでおあがりになつた。

 私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなか がすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがた いぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお箸を突込み、ぐしやぐしやにこはして、 それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプ ウンみたいに、お箸をお口と直角にして、まるで小鳥に餌をやるやうな工合ひにお口 に押し込み、のろのろといただいてゐるうちに、お母さまはもうお食事を全部すまし てしまつて、そつとお立ちになり、朝日の當つてゐる壁にお背中をもたせかけ、しば らく默つて私のお食事の仕方を見ていらして、

「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるやうにならなけれ ば。」

 とおつしやつた。

「お母さまは? おいしの?」

「そりやもう、私はもう病人ぢやないもの」

「かず子だつて、病人ぢやないわ。」

「だめだめ。」

 お母さまは、淋しさうに笑つて首を振つた。

 私は五年前に、肺病といふ事になつて、寢込んだ事があつたけれども、あれは、 わがまま病だつたといふ事を私は知つてゐる。けれども、お母さまのこなひだの御病 氣は、あれこそ本當に心配な、哀しい御病氣だつた。だのに、お母さまは、私の事ば かり心配していらつしやる。

「あ。」

 と私が言つた。

「なに?」

 とこんどは、お母さまのはうでたづねる。

 顏を見合せ、何か、すつかりわかり合つたものを感じて、うふふと私が笑ふと お母さまも、につこりお笑ひになつた。

 何か、たまらない恥づかしい思ひに襲はれた時に、あの奇妙な、あ、といふ幽 かな叫び聲が出るものなのだ。私の胸に、いま出し拔けにふうつと、六年前の私の離 婚の時の事が色あざやかに思ひ浮んで來て、たまらなくなり、思はず、あ、と言つて しまつたのだが、お母さんの場合は、どうなのだらう。まさかお母さんに、私のやう な恥づかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。

「お母さまも、さつき、何かお思ひ出しになつたのでせう? どんな事?」

「忘れたわ。」

「私の事?」

「いいえ。」

「直治の事?」

「さう、」

 と言ひかけて、首をかしげ、

「かも知れないわ。」

 とおつしやつた。

 弟の直治は大學の中途で召集され、南方の島へ行つたのだが、消息が絶えてし まつて、終戰になつても行先が不明で、お母さまは、もう直治には逢へないと覺悟し てゐる、とおつしやつてゐるけれども、私は、そんな、「覺悟」なんかした事は一度 もない。きつと逢へるとばかり思つてゐる。

「あきらめてしまつたつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を 思つて、たまらなくなつた。もつと、直治に、よくしてやればよかつた。」

 直治は高等學校にはひつた頃から、いやに文學にこつて、ほとんど不良少年み たいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦勞をかけたか、わからないのだ。そ れだのにお母さまは、スウプを一さじ吸つては直治を思ひ、あ、とおつしやる。私は ごはんを口に押し込み眼が熱くなつた。

「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな惡漢は、なかなか死ぬものぢやな いわよ。死ぬひとは、きまつて、おとなしくて、綺麗で、やさしいものだわ。直治な んて、棒でたたいたつて、死にやしない。」

 お母さまは笑つて、

「それぢや、かず子さんは早死にのほうかな。」

 と私をからかふ。

「あら、どうして? 私なんか、惡漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈 夫よ。」

「さうなの? そんなら、お母さまは九十歳までは大丈夫ね。」

「ええ、」

 と言ひかけて、少し困つた。惡漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母 さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらひたい。私は頗るまごついた。

「意地わるね!」

 と言つたら、下唇がぷるぷる震へて來て、涙が眼からあふれて落ちた。

 蛇の話をしようかしら。その四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭の 垣の竹藪から、蛇の卵を十ばかり見つけて來たのである。

 子供たちは、

「蝮の卵だ。」

 と言ひ張つた。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うつかりお庭にも降りら れないと思つたので、

「燒いちやおう。」

 と言ふと、子供たちはをどり上つて喜び、私のあとからついて來る。

 竹藪の近くに、木の葉や柴を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一 つづつ投げ入れた。卵は、なかなか燃えなかつた。子供たちが、更に木の葉や小枝を 焔の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えさうもなかつた。

 下の農家の娘さんが、垣根の外から、

「何をしていらつしやるのですか?」

 と笑ひながらたづねた。

「蝮の卵を燃やしてゐるのです。蝮が出るとこはいんですもの。」

「大きさは、どれくらゐですか?」

「うづらの卵くらゐで、眞白なんです。」

「それぢや、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵ぢやないでせう。生の卵は、なかなか 燃えませんよ。」

 娘さんは、さも可笑しさうに笑つて、去つた。

 三十分ばかり火を燃やしてゐたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、 子供たちに卵を火の中から拾はせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標 を作つてやつた。

「さあ、みんな、拜むのよ。」

 私がしやがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしやがんで合 掌したやうであつた。さうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆつくりのぼつ て來ると、石段の上の、藤棚の蔭にお母さまが立つていらして、

「可哀さうな事をするひとね。」

 とおつしやつた。

「蝮かと思つたら、ただの蛇だつたの。だけど、ちやんと埋葬してやつたから、 大丈夫。」

 とは言つたものの、こりやお母さまに見られて、まづかつたなと思つた。

 お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で 亡くなられてから、蛇をとても恐れていらつしやる。お父上の御臨終の直前に、お母 さまが、お父上の枕元に細い黒い紐が落ちてゐるのを見て、何氣なく拾はうとなさつ たら、それが蛇だつた。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行つたかわか らなくなつたが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりでお二 人は顏を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬやう、こらへて默つていら したといふ。私たちも、その場に居合せてゐたのだが、その蛇の事はだから、ちつと も知らなかつた。

 けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木といふ 木に蛇がのぼつてゐた事は、私も實際に見て知つてゐる。私は二十九のばあちやんだ から、十年前のお父上の御逝去の時は、もう十九にもなつてゐたのだ。もう子供では 無かつたのだから、十年經つてもその時の記憶はいまでもはつきりしてゐて、間違ひ は無い筈だが、私がお供への花を剪りに、お庭のお池のはうに歩いて行つて、池の岸 のつつじのところに立ちどまつて、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がま きついてゐた。すこしおどろいて、つぎの山吹の花枝を折らうとすると、その枝にも、 まきついてゐた。隣りの木犀にも、若楓にも、えにしだにも、藤にも、櫻にも、どこ の木にも、どの木にも、蛇がまきついてゐたのである。けれども私には、そんなにこ はく思はれなかつた。蛇も、私と同樣にお父上の逝去を悲しんで、穴から這ひ出てお 父上の靈を拜んでゐるのであらうといふやうな氣がしただけであつた。さうして私は、 そのお庭の蛇の事を、お母さまにそつとお知らせしたらお母さまは落ちついて、ちよ つと首を傾けて何か考へるやうな御樣子をなさつたが、べつに何もおつしやりはしな かつた。

 けれども、この二つの蛇の事件が、それ以來お母さまを、ひどい蛇ぎらひにさ せたのは事實であつた。蛇ぎらひといふよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり畏怖 の情をお持ちになつてしまつたやうだ。

 蛇の卵を燒いたのをお母さまに見つけられ、お母さまはきつと何か不吉なもの をお感じになつたに違ひないと思つたら、私も急に蛇の卵を燒いたのがたいへんなお そろしい事だつたやうな氣がして來て、この事がお母さまに或ひは惡い崇りをするの ではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出來 ずにゐたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめつさうも無い事をつい口 走つて、あとで、どうにも言ひつくろひが出來ず、泣いてしまつたのだが、朝食のあ と片づけをしながら、何だか自分の胸の奧に、お母さまのお命をちぢめる氣味わるい 小蛇が一匹はひり込んでゐるやうで、いやでいやで仕樣が無かつた。

 さうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日はとてもなごやかないいお天 氣だつたので、私はお臺所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に籐椅子を はこび、そこで編物を仕樣と思つて、籐椅子を持つてお庭に降りたら、庭石の笹のと ころに蛇がゐた。おお、いやだ。私はたださう思つただけで、それ以上深く考へる事 もせず、籐椅子を持つて引返して縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかか つた。午後になつて、私はお庭の隅の御堂の奧にしまつてある藏書の中から、ローラ ンサンの畫集を取り出して來ようと思つて、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆ つくりゆつくり這つてゐる。朝の蛇と同じだつた。ほつそりした、上品な蛇だつた。 私は、女蛇だ、と思つた。彼女は芝生を靜かに横切つて、野ばらの蔭まで行くと、立 ちどまつて首を上げ細い焔のやうな舌をふるはせた。さうしてあたりを眺めるやうな 恰好をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも物憂げにうづくまつた。私はそ の時にも、ただ美しい蛇だ、といふ思ひばかりが強く、やがて御堂に行つて畫集を持 ち出し、かへりにさつきの蛇のゐるところをそつと見たが、もうゐなかつた。

 夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のはうを見てゐ たら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆつくりとあらはれた。

 お母さまもそれを見つけ、

「あの蛇は?」

 とおつしやるなり私のはうに走り寄り、私の手をとつたまま立ちすくんでおし まひになつた。さう言はれて、私も、はつと思ひ當り、

「卵の母親?」

 と口に出して言つてしまつた。

「さう、さうよ。」

 お母さまのお聲は、かすれてゐた。

 私たちは手をとり合つて、息をつめ、默つてその蛇を見護つた。石の上に、物 憂げにうづくまつてゐた蛇は、よろめくやうにまた動きはじめ、さうして力弱さうに 石段を横切り、かきつばたのはうに這つて行つた。

「けさから、お庭を歩きまはつてゐたのよ。」

 と私が小聲で申し上げたら、お母さまは、溜息をついてくたりと椅子に坐り込 んでおしまひになつて、

「さうでせう? 卵を搜してゐるのですよ。可哀さうに。」

 と沈んだ聲でおつしやつた。

 私は仕方なく、ふふと笑つた。

 夕日がお母さまのお顏に當つて、お母さまのお眼が青いくらゐに光つて見えて、 その幽かに怒りを帶びたやうなお顏は、飛びつきたいほどに美しかつた。さうして、 私は、ああ、お母さまのお顏は、さつきのあの悲しい蛇にどこか似ていらつしやる、 と思つた。さうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみ が深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食ひ殺してしまふのではなからうかと、なぜ だか、なぜだか、そんな氣がした。

 私はお母さまの軟らかなきやしやなお肩に手を置いて、理由のわからない身悶 えをした。

 私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆のこの、ちよつと支那ふうの山莊 に引越して來たのは、日本が無條件降伏をしたとしの、十二月のはじめであつた。お 父上がお亡くなりになつてから、私たちの家の經濟はお母さまの弟で、さうしていま ではお母さまのたつた一人の肉親でいらつしやる和田の叔父さまが、全部お世話して 下さつてゐたのだが、戰爭が終つて世の中が變り、和田の叔父さまが、もう默目だ、 家を賣るより他は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗 な家を買ひ、氣ままに暮したはうがいい、とお母さまにお言ひ渡しになつた樣子で、 お母さまは、お金の事は子供よりも、もつと何もわからないお方だし、和田の叔父さ まからさう言はれて、それではどうかよろしく、とお願ひしてしまつたやうである。

 十一月の末に叔父さまから速達が來て、駿豆鐵道の沿線に河田子爵の別莊が賣 り物に出てゐる、家は高臺で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の 名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきつと、お氣に召すところと思ふ、先方と直接お 逢ひになつてお話をする必要もあると思はれるから、明日とにかく銀座の私の事務所 までおいでを乞ふ、といふ文面で、

「お母さま、おいでなさる?」

 と私がたづねると、

「だつて、お願ひしてゐたんだもの。」

 と、とてもたまらなく淋しさうに笑つておつしやつた。

 翌る日、もとの運轉手の松山さんにお伴をたのんで、お母さまはお晝すこし過 ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお歸りになつた。

「きめましたよ。」

 かず子のお部屋へはいつて來て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるやう にお坐りになり、さう一言おつしやつた。

「きめたつて、何を?」

「全部。」

「だつて、」

 と私はおどろき、

「どんなお家だか、見もしないうちに、……」

 お母さまは机の上に片肘を立て、額に輕くお手を當て、小さい溜息をおつきに なり、

「和田の叔父さまが、いい所だとおつしやるのだもの。私は、このまま、眼をつ ぶつてそのお家へ移つて行つても、いいやうな氣がする。」

 とおつしやつてお顏を擧げて、かすかにお笑ひになつた。そのお顏は、少しや つれて美しかつた。

「さうね。」

 と私も、お母さまの和田の叔父さまに對する信頼心の美しさに負けて、合槌を 打ち、

「それでは、かず子も眼をつぶるわ。」

 二人で聲を立てて笑つたけれども、笑つたあとが、すごく淋しくなつた。

 それから毎日、お家へ人夫が來て、引越しの荷ごしらへがはじまつた。和田の 叔父さまも、やつて來られて、賣り拂ふものは賣り拂ふやうにそれぞれ手配をして下 さつた。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やした りしていそがしい思ひをしてゐたが、お母さまは、少しも整理のお手傳ひも、お指圖 もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐづぐづしていらつしやるのである。

「どうなさつたの? 伊豆へ行きたくなくなつたの?」

 と思ひ切つて、少しきつくお訊ねしても、

「いいえ。」

 とぼんやりしたお顏でお答へになるだけであつた。

 十日ばかりして、整理が出來上つた。私は、夕方お君と二人で、紙くづや藁を 庭先で燃やしてゐると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになつ て默つて私たちの焚火を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地 を這つてゐて、私は、ふとお母さまの顏を見上げ、お母さまのお顏色が、いままで見 たこともなかつたくらゐに惡いのにびつくりして、

「お母さま、お顏色がお惡いわ。」

 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑ひになり、

「なんでもないの。」

 とおつしやつて、そつとまたお部屋におはひりになつた。

 その夜お蒲團はもう荷造りをすましてしまつたので、お君は二階の洋間のソフ アに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲團を ひいて、二人一緒にやすんだ。

 お母さまは、おや? と思つたくらゐに老けた弱々しいお聲で、

「かず子がゐるから、かず子がゐてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず 子がゐてくれるから。」

 と意外な事をおつしやつた。

 私はどきんとして、

「かず子がゐなかつたら?」

 と思はずたずねた。

 お母さまは、急にお泣きになつて、

「死んだはうがよいのです。お父さまの亡くなつたこの家で、お母さまも、死ん でしまひたいのよ。」

 と、とぎれとぎれにおつしやつて、いよいよはげしくお泣きになつた。

 お母さまは、今まで私に向つて一度だつてこんな弱音をおつしやつた事がなか つたし、また、こんなに烈しくお泣きになつてゐるところを私に見せた事もなかつた。 お父上がお亡くなりになつた時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちやんをおな かにいれてお母さまの許へ歸つて來た時も、そして、赤ちやんが病院で死んで生れた 時も、それから私が病氣になつて寢込んでしまつた時も、また、直治が惡い事をした 時も、お母さまは決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかつた。お父上がお 亡くなりになつて十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも變らない、のんきな、 優しいお母さまだつた。さうして、私たちも、いい氣になつて甘えて育つて來たのだ。 けれども、お母さまには、もうお金が無くなつてしまつた。みんな私たちのために、 私と直治のために、みぢんも惜しまずにお使ひになつてしまつたのだ。さうしてもう、 この永年住みなれたお家から出て行つて、伊豆の小さい山莊で私とたつた二人きりで、 わびしい生活をはじめなければならなくなつた。もしお母さまが意地惡でケチケチし て、私たちを叱つて、さうしてこつそりご自分だけのお金をふやす事を工夫なさるや うなお方であつたら、どんなに世の中が變つても、こんな、死にたくなるやうなお氣 持におなりになるやうな事はなかつたらうに、ああ、お金が無くなるといふ事は、な んといふおそろしいみじめな、救ひの無い地獄だらう、と生れてはじめて氣がついた 思ひで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の嚴肅とは、 こんな時の感じを言ふのであらうか、身動き一つ出來ない氣持で、仰向に寢たまま、 私は石のやうに凝つとしてゐた。

 翌る日、お母さまは、やはりお顏色が惡く、なほ何やらぐづぐづして、少しで も永くこのお家にいらつしやりたい樣子であつたが、和田の叔父さまが見えられて、 もう荷物はほとんど發送してしまつたし、けふ伊豆に出發と、お言ひつけになつたの で、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの挨拶を申し上げるお君や、出入 のひとたちに無言でお會釋なさつて、叔父さまと私と三人、西片町のお家を出た。

 汽車は割に空いてゐて、三人とも腰かけられた。汽車の中では、叔父さまは非 常な上機嫌で、うたひなど唸つていらつしやつたが、お母さまはお顏色が惡く、うつ むいて、とても寒さうにしていらした。三島で駿豆鐵道に乘りかへ、伊豆長岡で下車 して、それからバスで十五分くらゐで降りてから山のはうに向つて、ゆるやかな坂道 をのぼつて行くと、小さい部落があつて、その部落のはづれに支那ふうのちよつとこ つた山莊があつた。

「お母さま、思つたよりもいい所ね。」

 と私は息をはずませて言つた。

「さうね。」

 とお母さまは山莊の玄關の前に立つて、一瞬うれしさうな眼つきをなさつた。

「だいいち、空氣がいい。清淨な空氣です。」

 と叔父さまは、ご自慢なさつた。

「本當に、」

 とお母さまは微笑まれて、

「おいしい。ここの空氣は、おいしい。」

 とおつしやつた。

 さうして、三人で笑つた。

 玄關にはひつてみると、もう東京からのお荷物が着いてゐて、玄關からお部屋 からお荷物で一ぱいになつてゐた。

「次には、

[_]
[1]お庭敷からの眺めがよい。

 叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引つぱつて行つて坐らせた。

 午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやはらかく當つてゐて、芝生から石 段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあつて、お庭の下に は蜜柑畑がひろがり、それから村道があつて、その向うは水田で、それからずつと向 うに松林があつて、その松林の向うに海が見える。海は、かうしてお座敷に坐つてゐ ると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさはるくらゐの高さに見えた。

「やはらかな景色ねえ。」

 とお母さまは、もの憂さうにおつしやつた。

「空氣のせゐかしら。陽の光が、まるで東京と違ふぢやないの。光線が絹ごしさ れてゐるみたい。

 と私は、はしやいで言つた。

 十疊間と六疊間と、それから支那式の應接間と、それからお玄關が、三疊、お 風呂場のところにも三疊がついてゐて、それから食堂と、お勝手とそれからお二階に 大きいベッドの附いた來客用の洋間が一間、それだけの間數だけれども、私たち二人、 いや、直治が歸つて三人になつても、別に窮屈でないと思つた。

 叔父さまは、この部落でたつた一軒だといふ宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、 やがてとどけられたお辨當を、お座敷にひろげて御持參のウヰスキイをお飮みになり、 この山莊の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語つて、大 陽氣であつたが、お母さまは、お辨當にもほんのちよつとお箸をおつけになつただけ で、やがて、あたりが薄暗くなつて來た頃、

「すこし、このまま寢かして。」

 と小さい聲でおつしやつた。

 私がお荷物の中からお蒲團を出して、寢かせてあげ、何だかひどく氣がかりに なつて來たので、お荷物から體温計を搜し出して、お熱を計つてみたら、三十九度あ つた。

 叔父さまもおどろいたご樣子で、とにかく下の村まで、お醫者を搜しに出かけ られた。

「お母さま?」

 とお呼びしても、ただ、うとうとしていらつしやる。

 私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまがお可哀想 でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらな かつた。泣きながら、ほんとにこのままお母さんと一緒に死にたいと思つた。もう私 たちは、何も要らない。私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終つたのだ と思つた。

 二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて來られた。村の先生は、もうだ いぶおとし寄りのやうで、さうして仙臺平の袴を着け、白足袋をはいてをられた。

 ご診察が終つて、

「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御 心配はございません。」

 と、何だかたより無い事をおつしやつて、注射をして下さつて歸られた。

 翌る日になつても、お母さまのお熱は、さがらなかつた。和田の叔父さまは、 私に二千圓お手渡しになつて、萬一、入院などしなければならぬやうになつたら、東 京へ電報を打つやうに、と言ひ殘して、ひとまづその日に歸京なされた。

 私はお荷物の中から最少限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作つてお母 さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになつて、それから、 首を振つた。

 お晝すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けてゐな かつたが、白足袋はやはりはいてをられた。

「入院したはうが、……」

 と私が申し上げたら、

「いや、その必要は、ございませんでせう。けふは一つ、強いお注射をしてさし 上げますから、お熱もさがる事でせう。」

 と、相變らずたより無いやうなお返事で、さうして、所謂その強い注射をして お歸りになられた。

 けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお晝すぎにお母さまの お顏が眞赤になつて、さうしてお汗がひどく出て、寢卷を着かへる時、お母さまは笑 つて、

「名醫かも知れないわ。」

 とおつしやつた。

 熱は七度にさがつてゐた。私はうれしく、この村にたつた一軒の宿屋に走つて 行き、そこのおかみさんに頼んで、鷄卵を十ばかりわけてもらひ、さつそく半熟にし てお母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆを茶碗に半分ほ どいただいた。

 あくる日、村の名醫が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注 射の御禮を申し上げたら、効くのは當然、といふやうなお顏で深くうなづき、ていね いに、ご診察なさつて、さうして私のはうに向き直り、

「大奧さまは、もはや御病氣ではございません。でございますから、これからは、 何をおあがりになつても、何をなさつてもよろしうございます。」

 と、やはり、へんな言ひかたをなさるので、私は噴き出したいのを怺へるのに 骨が折れた。

 先生を玄關までお送りして、お座敷に引返して見ると、お母さまは、お床の上 にお坐りになつていらして、

「本當に名醫だわ。私は、もう、病氣ぢやない。」

 と、とても樂しさうなお顏をして、うつとりひとりごとのやうにおつしやつた。

「お母さま、障子をあけませうか。雪が降つてゐるのよ。」

 花びらのやうな大きい牡丹雪が、ふはりふはり降りはじめてゐたのだ。私は、 障子をあけ、お母さまと並んで坐り、硝子戸越しに伊豆の雪を眺めた。

「もう病氣ぢやない。」

 と、お母さまは、またひとりごとのやうにおつしやつて、

「かうして坐つてゐると、以前の事が、皆ゆめだつたやうな氣がする。私は本當 は、引越し間際になつて、伊豆へ來るのが、どうしても、なんとしても、いやになつ てしまつたの。西片町のあのお家に一日でも半日でも永くゐたかつたの。汽車に乘つ た時には、半分死んでゐるやうな氣持で、ここに着いた時も、はじめちよつと樂しい やうな氣分がしたけど、薄暗くなつたら、もう東京がこひしくて、胸がこげるやうで、 氣が遠くなつてしまつたの。普通の病氣ぢやないんです。神さまが私をいちどお殺し になつて、それから昨日までの私と違ふ私にして、よみがへらせて下さつたのだわ。」

 それから、けふまで、私たち二人きりの山莊生活がまあ、どうやら事も無く、 安穩につづいて來たのだ。部落の人たちも私たちに親切にしてくれた。ここへ引越し て來たのは、去年の十二月、それから一月、二月、三月、四月のけふまで、私たちは お食事のお支度の他は、たいていお縁側で編物をしたり、支那間で本を讀んだり、お 茶をいただいたり、ほとんど世の中と離れてしまつたやうな生活をしてゐたのである。 二月には梅が咲き、この部落全體が梅の花で埋まつた。さうして三月になつても風の ないおだやかな日が多かつたので、滿開の梅は少しも衰へず、三月の末まで美しく咲 きつづけた。朝も晝も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息の出るほど美しかつた。さう してお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の匂ひがお部屋にすつと流れて來た。三 月の終りには、夕方になると、きつと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べてゐ ると、窓から梅の花びらが吹き込んで來て、お茶碗の中にはひつて濡れた。四月にな つて、私とお母さまが縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計畫 であつた。お母さまもお手傳ひしたいとおつしやる。ああ、かうして書いてみると、 いかにも私たちは、いつかお母さまのおつしやつたやうに、いちど死んで、違ふ私た ちになつてよみがへつたやうでもあるが、しかし、イエスさまのやうな復活は、所詮、 人間には出來ないのであらうか。お母さまは、あんなふうにおつしやつたけれども、 それでもやはり、スウプを一さじ吸つては、直治を思ひ、あ、とお叫びになる。さう して私の過去の傷痕も、實はちつともなほつてゐはしないのである。

 ああ、何も一つも包みかくさず、はつきり書きたい。この山莊の安穩は、全部 いつはりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思ふ時さへあるのだ。これが私た ち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であつたとしても、もうすでにこの平 和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄つて來てゐるやうな氣がしてならない。お母さ まは幸福をお裝ひになりながら、日に日に衰へ、さうして私の胸には蝮が宿り、お母 さまを犧牲にしてまで太り、自分でおさへてもおさへても太り、ああ、これがただ季 節のせゐだけのものであつてくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもた まらなくなる事があるのだ。蛇の卵を燒くなどといふはしたない事をしたのも、その やうな私のいらいらした思ひのあらはれの一つだつたのに違ひないのだ。さうしてた だ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。

 戀、と書いたら、あと、書けなくなつた。

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[1] Dazai Osamu Zenshu (Tokyo: Chikuma Shobo, 1971, vol. 9; hereafter as Dazai Zenshu) reads お座敷からの眺めがよい。.