University of Virginia Library

Search this document 

collapse section 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 

5. 五

 私は、ことしの夏、或る男のひとに、三つの手紙を差し上げたが、ご返事は無 かつた。どう考へても、私には、それより他に生き方が無いと思はれて、三つの手紙 に、私のその胸のうちを書きしたため、岬の尖端から怒濤めがけて飛び下りる氣持で、 投函したのに、いくら待つても、ご返事が無かつた。弟の直治に、それとなくそのひ との御樣子を聞いても、そのひとは何の變るところもなく、毎晩お酒を飮み歩き、い よいよ不道徳の作品ばかり書いて、世間のおとなたちに、ひんしゆくせられ、憎まれ てゐるらしく、直治に出版業をはじめよ、などとすすめて、直治は大乘氣で、あのひ との他にも二、三、小説家のかたに顧問になつてもらひ、資本を出してくれるひとも あるとかどうとか、直治の話を聞いてゐると、私の戀してゐるひとの身のまはりの雰 圍氣に、私の匂ひがみぢんも滲み込んでゐないらしく、私は恥づかしいといふ思ひよ りも、この世の中といふものが、私の考へてゐる世の中とは、まるでちがつた別の奇 妙な生き物みたいな氣がして來て、自分ひとりだけ置き去りにされ、呼んでも叫んで も、何の手應への無いたそがれの秋の曠野に立たされてゐるやうな、これまで味はつ た事のない悽愴の思ひに襲はれた。これが、失戀といふものであらうか。曠野にかう して、ただ立ちつくしてゐるうちに、日がとつぷり暮れて、夜露にこごえて死ぬより 他は無いのだらうかと思へば、涙の出ない慟哭で、兩肩と胸が烈しく浪打ち、息も出 來ない氣持になるのだ。

 もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかからう。私の帆 は既に擧げられて、港の外に出てしまつたのだもの、立ちつくしてゐるわけにゆかな い、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとた んに、お母さまの御樣子が、をかしくなつたのである。

 一夜、ひどいお咳が出てお熱を計つてみたら、三十九度あつた。

「けふ、寒かつたからでせう。あすになれば、なほります。」

 とお母さまは、咳き込みながら小聲でおつしやつたが、私には、どうも、ただ のお咳でないやうに思はれて、あすはとにかく下の村のお醫者に來てもらはうと心に きめた。

 翌る朝、お熱は三十七度にさがり、お咳もあまり出なくなつてゐたが、それで も私は、村の先生のところへ行つて、お母さまが、この頃にはかにお弱りになつたこ と、ゆうべからまた熱が出て、お咳も、ただの風邪のお咳と違ふやうな氣がすること 等を申し上げて、お診察をお願ひした。

 先生は、ではのちほど伺ひませう、これは到來物でございますが、とおつしや つて應接間の隅の戸棚から梨を三つ取り出して私に下さつた。さうして、お晝すこし 過ぎ、白絣に夏羽織をお召しになつて診察にいらした。れいの如く、ていねいに永い 事、聽診や打診をなさつて、それから私のはうに眞正面に向き直り、

「御心配はございません。

[_]
[13]お藥を
、お飮みになれば、 なほります。」

 とおつしやる。

 私は妙に可笑しく、笑ひをこらへて、

「お注射は、いかがでせうか。」

 とおたづねすると、まじめに、

「その必要はございませんでせう。おかぜでございますから、しづかにしていら つしやると、間もなくおかぜが拔けますでせう。」

 とおつしやつた。

 けれども、お母さまのお熱は、それから一週間經つても下らなかつた。咳はを さまつたけれども、お熱のはうは、朝は七度七分くらゐで、夕方になると九度になつ た。お醫者は、あの翌日から、おなかをこはしたとかで休んでいらして、わたしがお くすりを頂きに行つて、お母さまのご容態の思はしくない事を看護婦さんに告げて、 先生に傳へていただいても、普通のお風邪で心配はありません、といふ御返事で、水 藥と散藥をくださる。

 直治は相變らずの東京出張で、もう十日あまり歸らない。私ひとりで、心細さ のあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御樣子の變つた事を葉書にしたためて知らせ てやつた。

 發熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やつと腰工合ひがよろしくなりまし たと言つて、診察しにいらした。

 先生は、お母さまのお胸を注意深さうな表情で打診なさりながら、

「わかりました、わかりました。」

 とお叫びになり、それから、また私のはうに眞正面に向き直られて、

「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤を起してゐます。でもご 心配は要りません。お熱は、當分つづくでせうけれども、おしづかにしていらつしや つたら、ご心配はございません。」

 とおつしやる。

 さうかしら? と思ひながらも、溺れる者の藁にすがる氣持もあつて、村の先 生のその診斷に、私は少しほつとしたところもあつた。

 お醫者がお歸りになつてから、

「よかつたわね、お母さま。ほんの少しの浸潤なんて、たいていのひとにあるも のよ。お氣持を丈夫にお持ちになつてゐさへしたら、わけなくなほつてしまひますわ。 ことしの夏の季候不順がいけなかつたのよ。夏はきらひ。かず子は、夏の花も、きら ひ。」

 お母さまはお眼をつぶりながらお笑ひになり、

「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬと云ふから、私もことしの夏あたり死ぬのか と思つてゐたら、直治が歸つて來たので、秋まで生きてしまつた。」

 あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になつてゐるのか、と思 つたら、つらかつた。

「それでは、もう夏がすぎてしまつたのですから、お母さまの危險期も峠を越し たつてわけなのね。お母さま、お庭の萩が咲いてゐますわ。それから、女郎花、われ もかう、桔梗、かるかや、芒。お庭がすつかり秋のお庭になりましたわ。十月になつ たら、きつとお熱も下るでせう。」

 私は、それを祈つてゐた。早くこの九月の、蒸暑い、謂はば、殘暑の季節が過 ぎるといい。さうして、菊が咲いて、うららかな小春日和がつづくやうになると、き つとお母さまのお熱も下つてお丈夫になり、私もあのひとと逢へるやうになつて、私 の計畫も大輪の菊のやうに見事に咲き誇る事が出來るかも知れないのだ。ああ、早く 十月になつて、さうしてお母さまのお熱が下るとよい。

 和田の叔父さまにお葉書を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さ まのお取計ひで、以前侍醫などしていらした三宅さまの老先生が看護婦さんを連れて 東京から御診察にいらして下さつた。

 老先生は私どもの亡くなつたお父上とも御交際のあつた方なので、お母さまは、 たいへんお喜びの御樣子だつた。それに、老先生は昔からお行儀が惡く、言葉遣ひ もぞんざいで、それがまたお母さまのお氣に召してゐるらしく、その日は御診察など、 そつちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていらつしやつた。私がお勝手 で、プリンをこしらへて、それをお座敷に持つて行つたら、もうその間に御診察もお すみの樣子で、老先生は聽心器をだらしなく頸飾りみたいに肩にひつかけたまま、お 座敷の廊下の籐椅子に腰をかけ、

「僕などもね、屋臺にはひつて、うどんの立食ひでさ。うまいも、まづいもあり やしません。」

 と、のんきさうに世間話をつづけていらつしやる。お母さまも、何氣ない表情 で話を聞いていらつしやる。なんでも無かつたんだ、と私は、ほつとした。

「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のはうに浸潤があるとかお つしやつてゐましたけど?」

 と私も急に元氣が出て、三宅さまにおたづねしたら、老先生は、事もなげに、

「なに、大丈夫だ。」

 と輕くおつしやる。

「まあ、よかつたわね、お母さま。」

 と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、

「大丈夫なんですつて。」

 その時、三宅さまは籐椅子からつと立ち上つて支那間のはうへいらつしやつた。 何か私に用事がありげに見えたので、私はそつとその後を追つた。

 老先生は支那間の壁掛の蔭に行つて立ちどまつて、

「バリバリ音が聞えてゐるぞ。」

 とおつしやつた。

「浸潤では、ございませんの?」

「違ふ。」

「氣管支カタルでは?」

 私は、もはや涙ぐんでおたづねした。

「違ふ。」

 結核! 私はそれだと思ひたくなかつた。肺炎や浸潤や氣管支カタルだつたら、 必ず私の力でなほしてあげる。けれども、結核だつたら、ああ、もうだめかも知れな い。私は足もとが、崩れて行くやうな思ひをした。

「音、とても惡いの? バリバリ聞えてるの?」

 心細さに、私はすすり泣きになつた。

「右も左も全部だ。」

「だつて、お母さまは、まだお元氣なのよ。ごはんだつて、おいしいおいしいと おつしやつて、……」

「仕方がない。」

「うそだわ。ね、そんな事ないんでせう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し 上つたら、なほるんでせう? おからだに抵抗力さへついたら、熱だつて下るんでせ う?」

「うん、なんでも、たくさん食べる事だ。」

「ね? さうでせう? トマトも毎日、五つくらゐは召し上つてゐるのよ。」

「うん、トマトはいい。」

「ぢやあ、大丈夫ね? なほるわね?」

「しかし、こんどの病氣は命取りになるかも知れない。そのつもりでゐたはうが いい。」

 人の力で、どうしても出來ない事が、この世の中にたくさんあるのだといふ絶 望の壁の存在を、生れてはじめて知つたやうな氣がした。

「二年? 三年?」

 私は震へながら小聲でたづねた。

「わからない。とにかくもう、手のつけやうが無い。」

 さうして、三宅さまは、その日は伊豆の長岡温泉に宿を豫約していらつしやる とかで、看護婦さんと一緒にお歸りになつた。門の外までお見送りして、それから、 夢中で引返してお座敷のお母さまの枕もとに坐り、何事も無かつたやうに笑ひかける と、お母さまは、

「先生は、なんとおつしやつてゐたの?」

 とおたづねになつた。

「熱さへ下ればいいんですつて。」

「胸のはうは?」

「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病氣の時みたいなのよ、きつと。 いまに涼しくなつたら、どんどんお丈夫になりますわ。」

 私は自分の嘘を信じようと思つた。命取りなどといふおそろしい言葉は、忘れ ようと思つた。私には、このお母さまが、亡くなるといふ事は、それは私の肉體も共 に消失してしまふやうな感じで、とても事實として考へられないことだつた。これか らは何も忘れて、このお母さまに、たくさんご馳走をこしらへて差し上げよう。おさ かな。スウプ。罐詰。レバ。肉汁。トマト。卵。牛乳。おすまし。お豆腐があればい いのに。お豆腐のお味噌汁。白い御飯。お餅。おいしさうなものは何でも、私の持物 を皆賣つて。さうしてお母さまにご馳走してあげよう。

 私は立つて、支那間へ行つた。さうして、支那間の寢椅子をお座敷の縁側ちか くに移して、お母さまのお顏が見えるやうに腰かけた。やすんでいらつしやるお母さ まのお顏は、ちつとも病人らしくなかつた。眼は美しく澄んでゐるし、お顏色も生き 生きしていらつしやる。毎朝、規則正しく起床なさつて洗面所へいらして、それから お風呂場の三疊でご自身で髮を結つて、身じまひをきちんとなさつて、それからお床 に歸つて、お床にお坐りのままお食事をすまし、それからお床に寢たり起きたり、午 前中はずつと新聞やご本を讀んでいらして、熱の出るのは午後だけである。

「ああ、お母さまは、お元氣なのだ。きつと、大丈夫なのだ。」

 と私は、心の中で三宅さまのご診斷を強く打ち消した。

 十月になつて、さうして菊の花の咲く頃になれば、など考へてゐるうちに私は、 うとうとと、うたた寢をはじめた。現實には、私はいちども見た事の無い風景なのに、 それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ來たと思ふなじみの森の中の 湖のほとりに私は出た。私は、和服の青年と足音も無く一緒に歩いてゐた。風景全體 が、みどり色の霧のかかつてゐるやうな感じであつた。さうして、湖の底に白いきや しやな橋が沈んでゐた。

「ああ、橋が沈んでゐる。けふは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみま せう。たしか空いた部屋があつた筈だ。」

 湖のほとりに、石のホテルがあつた。そのホテルの石は、緑色の霧でしつとり 濡れてゐた。石の門の上に金文字でほそく、HOTEL SWITZERLANDと 彫り込まれてゐた。SWIと讀んでゐるうちに、不意に、お母さまの事を思ひ出した。 お母さまは、どうなさるのだらう。お母さまも、このホテルへいらつしやるのかし ら? と不審になつた。さうして、青年と一緒に石の門をくぐり、前庭へはひつた。 霧の庭に、アヂサヰに似た赤い大きな花が燃えるやうに咲いてゐた。子供の頃、お蒲 團の模樣に、眞赤なアヂサヰの花が散らされてあるのを見て、へんに悲しかつたが、 やつぱり赤いアヂサヰの花つて本當にあるものなんだと思つた。

「寒くない?」

「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい。」

 と言つて笑ひながら、

「お母さまは、どうなさるのかしら。」

 とたづねた。

 すると、青年は、とても悲しく慈愛深く微笑んで、

「あのお方は、お墓の下です。」

 と答へた。

「あ。」

 と私は小さく叫んだ。さうだつたのだ。お母さまは、もう、いらつしやらなか つたのだ。お母さまのお葬ひも、とつくに濟ましてゐたのぢやないか。ああ、お母さ まは、もうお亡くなりになつたのだと意識したら、言ひ知れぬ淋しさに身震ひして、 眼がさめた。

 ヴエランダは、すでに黄昏だつた。雨が降つてゐた。みどり色のさびしさは、 夢のまま、あたり一面にただよつてゐた。

「お母さま。」

 と私は呼んだ。

 靜かなお聲で、

「何してるの?」

 といふご返事があつた。

 私はうれしさに飛び上つて、お座敷へ行き、

「いまね、私、眠つてゐたのよ。」

「さう。何をしてゐるのかしら、と思つてゐたの。永いおひる寢ね。」

 と面白さうにお笑ひになつた。

 私はお母さまのかうして優雅に息づいて生きていらつしやる事が、あまりうれ しくて、ありがたくて、涙ぐんでしまつた。

「御夕飯のお獻立は? ご希望がございます?」

 私は、少しはしやいだ口調でさう言つた。

「いいの。なんにも要らない。けふは、九度五分にあがつたの。」

 にはかに私は、ぺしやんこにしよげた。さうして、途方にくれて薄暗い部屋の 中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなつた。

「どうしたんでせう。九度五分なんて。」

「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちよつと痛くなつて、 寒氣がして、それから熱が出るの。」

 外は、もう、暗くなつてゐて、雨はやんだやうだが、風が吹き出してゐた。灯 をつけて、食堂へ行かうとすると、お母さまが、

「まぶしいから、つけないで。」

 とおつしやつた。

「暗いところで、じつと寢ていらつしやるの、おいやでせう。」

 と立つたまま、おたづねすると、

「眼をつぶつて寢てゐるのだから、同じことよ。ちつとも、さびしくない。かへ つて、まぶしいのが、いやなの。これから、ずつと、お座敷の灯はつけないでね。」

 とおつしやつた。

 私には、それもまた不吉な感じで、默つてお座敷の灯を消して、隣りの間へ行 き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく佗しくなつて、いそいで食堂へ行き、 罐詰の鮭を冷いごはんにのせて、食べたら、ぽろぽろと涙が出た。

 風は夜になつていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本當の嵐になつた。 二、三日前に卷き上げた縁先の簾が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣り の間で、ローザルクセンブルグの「經濟學入門」を、奇妙な興奮を覺えながら讀んで ゐた。これは私が、こなひだお二階の直治の部屋から持つて來たものだが、その時、 これと一緒に、レニン選集、それからカウッキイの「社會革命」なども無斷で拜借し て來て、隣りの間の私の机の上にのせて置いたら、お母さまが、朝お顏を洗ひにいら した歸りに、私の机の傍を通り、ふとその三册の本に目をとどめ、いちいちお手にと つて、眺めて、それから小さい溜息をついて、そつとまた机の上に置き、淋しいお顏 で私のはうをちらと見た。けれども、その眼つきは、深い悲しみに滿ちてゐながら、 決して拒否や嫌惡のそれではなかつた。お母さまのお讀みになる本は、ユーゴー、デ ウマ父子、ミユッセ、ドオデエなどであるが、私はそのやうな甘美な物語の本にだつ て、革命のにほひがあるのを知つてゐる。お母さまのやうに、天性の教養といふ言葉 もへんだが、そんなものをお持ちのお方は、案外なんでもなく、當然の事として革命 を迎へる事が出來るのかも知れない。私だつて、かうして、ローザルクセンブルグの 本など讀んで、自分がキザつたらしく思はれる事もないではないが、けれどもまた、 やはり私は私なりに深い興味を覺えるのだ。ここに書かれてあるのは、經濟學といふ 事になつてゐるのだが、經濟學として讀むと、まことにつまらない。實に單純でわか り切つた事ばかりだ。いや、或ひは、私には經濟學といふものがまつたく理解できな いのかも知れない。とにかく、私にはすこしも面白くない。人間といふものは、ケチ なもので、さうして永遠にケチなものだといふ前提が無いと全く成り立たない學問で、 ケチでない人にとつては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。それでも 私はこの本を讀み、べつなところで、奇妙な興奮を覺えるのだ。それは、この本の著 者が、何の躊躇も無く、片端から舊來の思想を破壞して行くがむしやらな勇氣である。 どのやうに道徳に反しても、戀するひとのところへ涼しくさつさと走り寄る人妻の姿 さへ思ひ浮ぶ。破壞思想。破壞は、哀れで悲しくて、さうして美しいものだ。破壞し て、建て直して、完成しようといふ夢。さうして、いつたん破壞すれば、永遠に完成 の日が來ないかも知れぬのに、それでも、したふ戀ゆゑに、破壞しなければならぬの だ。革命を起さなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの戀 をしてゐる。

 あれは、十二年前の冬だつた。

「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言つても仕方がない。」

 さう言つて、私から離れて行つたお友達。あのお友達に、あの時、私はレニン の本を讀まないで返したのだ。

「讀んだ?」

「ごめんね。讀まなかつたの。」

 ニコライ堂の見える橋の上だつた。

「なぜ? どうして?」

 そのお友達は、私よりさらに一寸くらゐ背が高くて、語學がとてもよく出來て、 赤いベレ帽がよく似合つて、お顏もジョコンダみたいだといふ評判の、美しいひとだ つた。

「表紙の色が、いやだつたの。」

「へんなひと。さうぢやないんでせう? 本當は、私をこはくなつたのでせう?」

「こはかないわ。私、表紙の色が、たまらなかつたの。」

「さう。」

 と淋しさうに言ひ、それから、私を更級日記だと言ひ、さうして、何を言つて も仕方がない、ときめてしまつた。

「私たちは、しばらく默つて、冬の川を見下してゐた

「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン。」

 と言ひ、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを 輕く抱いた。

 私は恥づかしく、

「ごめんなさいね。」

 と小聲でわびて、お茶の水驛のはうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達 は、やはり橋の上に立つたまま、動かないで、じつと見つめてゐた。

 それつきり、そのお友達と逢はない。同じ外人教師の家へかよつてゐたのだけ れども、學校がちがつてゐたのである。

 あれから十二年たつたけれども、私はやつぱり更級日記から一歩も進んでゐな かつた。いつたいまあ、私はそのあひだ、何をしてゐたのだらう。革命を、あこがれ た事も無かつたし、戀さへ、知らなかつた。いままで世間のおとなたちは、この革命 と戀の二つを、最も愚かしく、いまはしいものとして私たちに教へ、戰爭の前も、戰 爭中も、私たちはそのとほりに思ひ込んでゐたのだが、敗戰後、私たちは世間のおと なを信頼しなくなつて、何でもあのひとたちの言ふ事の反對のはうに本當の生きる道 があるやうな氣がして來て、革命も戀も、實はこの世で最もよくて、おいしい事で、 あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて 教へてゐたのに違ひないと思ふやうになつたのだ。私は確信したい。人間は戀と革命のために生れて來たのだ

 すつと襖があいて、お母さまが笑ひながら顏をお出しになつて、

「まだ起きていらつしやる。眠くないの?」

 とおつしやつた。

 机の上の時計を見たら、十二時だつた。

「ええ、ちつとも眠くないの。社會主義のご本を讀んでゐたら、興奮しちやいま したわ。」

「さう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飮んでやすむと、よく眠れるんで すけどね。」

 とからかふやうな口調でおつしやつたが、その態度には、どこやらデカダンと 紙一重のなまめかしさがあつた。

 やがて十月になつたが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時のやうな、 じめじめして蒸し暑い日が續いた。さうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方に なると、三十八度と九度のあひだを上下した。

 さうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでゐ るのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言つていらしたお母さまも、このごろは、お床 に坐つて、ほんの少し、おかゆを輕く一椀おかずも匂ひの強いものは駄目で、その日 は、松茸のお清汁をさし上げたのに、やつぱり、松茸の香さへおいやになつていらつ しやる樣子で、お椀をお口元まで持つて行つて、それきりまたそつとお膳の上におか へしになつて、その時、私は、お母さまの手を見て、びつくりした。右の手がふくら んで、まあるくなつてゐたのだ。

「お母さま! 手、なんともないの?」

 お顏さへ少し蒼く、むくれてゐるやうに見えた。

「なんでもないの。これくらゐ、なんでもないの。」

「いつから、腫れたの?」

 お母さまは、まぶしさうなお顏をなさつて、默つていらした。私は聲を擧げて 泣きたくなつた。こんな手は、お母さまの手ぢやない。よそのをばさんの手だ。私の お母さまのお手は、もつとほそくて小さいお手だ。私のよく知つてゐる手。優しい手。 可愛い手。あの手は、永遠に、消えてしまつたのだらうか。左の手は、まだそんなに 腫れてゐなかつたけれども、とにかく傷ましく、見てゐる事が出來なくて、私は眼を そらし、床の間の花籠をにらんでゐた。

 涙が出さうで、たまらなくなつて、つと立つて食堂へ行つたら、直治がひとり で、半熟卵をたべてゐた。たまに伊豆のこの家にゐる事があつても、夜はきまつてお 咲さんのところへ行つて燒酎を飮み、朝は不機嫌な顏で、ごはんは食べずに半熟の卵 を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行つて、寢たり起きたりなのである。

「お母さまの手が腫れて、」

 と直治に話しかけうつむいた。言葉をつづける事が出來ず、私は、うつむいた まま肩で泣いた。

 直治は默つてゐた。

 私は顏を擧げて、

「もう、だめなの。あなた、氣が附かなかつた? あんなに腫れたら、もう、駄 目なの。」

 と、テーブルの端を掴んで言つた。

 直治も、暗い顏になつて、

「近いぞ、そりや。ちえつ、つまらねえ事になりやがつた。」

「私、もう一度、なほしたいの。どうかして、なほしたいの。」

 と右手で左手をしぼりながら言つたら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、

「なんにも、いい事が無えぢやねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えぢや ねえか。」

 と言ひながら、滅茶苦茶にこぶしで眼をこすつた。

 その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の指圖 を受けに上京し、私はお母さまのお傍にゐない間、朝から晩まで、ほとんど泣いてゐ た。朝霧の中を牛乳をとりに行く時も、鏡に向つて髮を撫でつけながらも、口紅を塗 りながらも、いつも私は泣いてゐた。お母さまと過した仕合せの日の、あの事この事 が、繪のやうに浮んで來て、いくらでも泣けて仕樣が無かつた。夕方、暗くなつてか ら、支那間のヴエランダへ出て永いことすすり泣いた。秋の空に星が光つてゐて、足 許に、そよの猫がうづくまつて、動かなかつた。

 翌日、手の腫れは、昨日よりもまた一そうひどくなつてゐた。お食事は、何も 召し上らなかつた。お蜜柑のジユースも、口が荒れて、しみて、飮めないとおつしや つた。

「お母さま、また、直治のあのマスクをなさつたら?」

 と笑ひながら言ふつもりであつたが、言つてゐるうちに、つらくなつて、わつ と聲を擧げて泣いてしまつた。

「毎日いそがしくて、疲れるでせう。看護婦さんを、やとつて頂戴。」

 と靜かにおつしやつたが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配してい らつしやる事がよくわかつて、なほの事かなしく、立つて、走つて、お風呂場の三疊 に行つて、思ひのたけ泣いた。

 お晝すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お 連れして來た。

 いつも冗談ばかりおつしやる老先生も、その時は、お怒りになつていらつしや るやうな素振りで、どしどし病室へはひつて來られて、すぐにご診察を、おはじめに なつた。さうして、誰に言ふともなく、

「お弱りになりましたね。」

 と一こと低くおつしやつて、カンフルを注射して下さつた。

「先生のお宿は?」

 とお母さまは、うは言のやうにおつしやる。

「また長岡です。豫約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事 など心配なさらず、もつとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上 るやうにしなければいけませんね。榮養をとつたら、よくなります、明日また、まゐ ります。看護婦をひとり置いて行きますから、使つてみて下さい。」

 と老先生は、病床のお母さまに向つて大きな聲で言ひ、それから直治に眼くば せして立ち上つた。

 直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送つて行つて、やがて歸つて來た直治 の顏を見ると、それは泣きたいのを怺へてゐる顏だつた。

 私たちは、そつと病室から出て、食堂へ行つた。

「だめなの? さうでせう?」

「つまらねえ。」

 と直治は口をゆがめて笑つて、

「衰弱がばかに急激にやつて來たらしいんだ。今、明日も、わからねえと言つて ゐやがつた。」

 と言つてゐるうちに直治の眼から涙があふれて出た。

「はうばうへ、電報を打たなくてもいいかしら。」

 私はかへつて、しんと落ちついて言つた。

「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出來る 時代では無いと言つてゐた。來ていただいても、こんな狹い家では、かへつて失禮だ し、この近くにはろくな宿もないし、長岡の温泉にだつて、二部屋も三部屋も豫約は 出來ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えつ てわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで來る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、 頼みにも何もなりやしねえ。ゆうべだつてもう、ママの病氣はそつちのけで、僕にさ んざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西 にわたつて一人もあつた例が無えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで雲泥 のちがひなんだからなあ、いやになるよ。」

「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔母さまにたよらなければ、……」

「まつぴらだ。いつそ乞食になつたはうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さ んによろしくおすがり申し上げるさ。」

「私には、……」

 涙が出た。

「私には、行くところがあるの。」

「縁談? きまつているの?」

「いいえ。」

「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ。」

「自活でもないの。私ね、革命家になるの。」

「へえ?」

 直治は、へんな顏をして私を見た。

 その時、三宅先生の連れていらした附添ひの看護婦さんが、私を呼びに來た。

「奧さまが、何かご用のやうでございます。」

 いそいで病室に行つてお蒲團の傍に坐り、

「何?」

 と顏を寄せてたづねた。

 けれども、お母さまは、何か言ひたげにして默つていらつしやる。

「お水?」

 とたづねた。

 幽かに首を振る。お水でも無いらしかつた。しばらくして、小さいお聲で、

[_]
[14]「夢を見たの」

 とおつしやつた。

「さう? どんな夢?」

「蛇の夢。」

 私は、ぎよつとした。

「お縁側の沓脱石の上に、赤い縞のある女の蛇が、ゐるでせう。見てごらん。」

 私はからだの寒くなるやうな氣持で、つと立つてお縁側に出て、ガラス戸越し に、見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の陽を浴びて長くのびてゐた。私は、くらくらと 目まひした。

 私はお前を知つてゐる。お前はあの時から見ると、すこし大きくなつて老けて ゐるけど、でも、私のために卵を燒かれたあの女蛇なのね。お前の復讐は、もう私よ く思ひ知つたから、あちらへお行き、さつさと向うへ行つてお呉れ。

 と心の中で念じて、その蛇を見つめてゐたが、いつかな蛇は、動かうとしなか つた。私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかつた。トンと強く足踏 みして、

「ゐませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ。」

 とわざと必要以上の大聲で言つて、ちらと沓脱石のはうを見ると、蛇は、やつ と、からだを動かし、だらだらと石から垂れ落ちて行つた。

 もうだめだ。だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底 に湧いて出た。お父上のお亡くなりになる時にも、枕もとに黒い小さい蛇がゐたとい ふし、またあの時に、お庭の木といふ木に蛇がからみついてゐたのを、私は見た。

 お母さまはお床の上に起き直るお元氣もなくなつたやうで、いつもうつらうつ らしていらして、もうおからだをすつかり附添ひの看護婦さんにまかせて、さうして、 お食事は、もうほとんど喉をとほらない樣子であつた。蛇を見てから、私は、悲しみ の底を突き拔けた心の平安とでも言つたらいいのかしら、そのやうな幸福感にも似た 心のゆとりが出て來て、もうこの上は、出來るだけ、ただお母さまのお傍にゐようと 思つた。

 さうしてその翌る日から、お母さまの枕元にぴつたり寄り添つて坐つて編物な どをした。私は、編物でもお針でも、人よりずつと早いけれども、しかし、下手だつ た。それで、いつもお母さまは、その下手なところを、いちいち手を取つて教へて下 さつたものである。その日も私は、別に編みたい氣持も無かつたのだが、お母さまの 傍にべつたりくつついてゐても不自然でないやうに、恰好をつけるために、毛糸の箱 を持ち出して餘念無げに編物をはじめたのだ。

 お母さまは私の手もとをじつと見つめて、

「あなたの靴下をあむんでせう? それなら、もう、八つふやさなければ、はく とき窮屈よ。」

 とおつしやつた。

 私は子供の頃、いくら教へて頂いても、どうもうまく編めなかつたが、その時 のやうにまごつき、さうして、恥づかしく、なつかしく、ああもう、かうしてお母さ まに教へていただく事も、これでおしまひと思ふと、つい涙で編目が見えなくなつた。

 お母さまは、かうして寢ていらつしやると、ちつともお苦しさうでなかつた。 お食事は、もう、けさから全然とほらず、ガーゼにお茶をひたして時々お口をしめし てあげるだけなのだが、しかし意識は、はつきりしてゐて、時々私におだやかに話し かける。

「新聞に陛下のお寫眞が出てゐたやうだけど、もういちど見せて。」

 私は新聞のその箇所をお母さまのお顏の上にかざしてあげた。

「お老けになつた。」

「いいえ、これは寫眞がわるいのよ。こなひだのお寫眞なんか、とてもお若くて、 はしやいでいらしたわ。かへつてこんな時代を、お喜びになつていらつしやるんでせ う。」

「なぜ?」

「だつて、陛下もこんど解放されたんですもの。」

 お母さまは、淋しさうにお笑ひになつた。それから、しばらくして、

「泣きたくても、もう、涙が出なくなつたのよ。」

 とおつしやつた。

 私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思つた。幸福感といふ ものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光つてゐる砂金のやうなものではなからうか。 悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの氣持、あれが幸福感といふものならば、 陛下も、お母さまも、それから私も、たしかに今、幸福なのである。靜かな、秋の午 前。日ざしの柔らかな、秋の庭。私は、編物をやめて、胸の高さに光つてゐる海を眺 め、

「お母さま、私いままで、ずゐぶん世間知らずだつたのね。」

 と言ひ、それから、もつと言ひたい事があつたけれども、お座敷の隅で靜脈注 射の支度などしてゐる看護婦さんに聞かれるのが恥づかしくて、言ふのをやめた。

「いままでつて、……」

 とお母さまは、薄くお笑ひになつて聞きとがめて、

「それではいまは世間を知つてゐるの?」

 私は、なぜか顏が眞赤になつた。

「世間は、わからない。」

 とお母さまはお顏を向うむきにして、ひとりごとのやうに小さい聲でおつしや る。

「私にはわからない。わかつてゐる人なんか、無いんぢやないの? いつまで經 つても、みんな子供です。なんにも、わかつてやしないのです。」

 けれども、私は生きて行かなければならないのだ。子供かも知れないけれども、 しかし、甘えてばかりもをられなくなつた。私はこれから世間と爭つて行かなければ ならないのだ。ああ、お母さまのやうに人と爭はず、憎まずうらまず、美しく悲しく 生涯を終る事の出來る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得 ないのではなからうか。死んで行くひとは美しい。生きるといふ事。生き殘るといふ 事。それは、たいへん醜くて、血の匂ひのする、きたならしい事のやうな氣もする。 私は、みごもつて、穴を掘る蛇の姿を疊の上に思ひ描いてみた。けれども、私にはあ きらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き殘つて、思ふ事をし とげるために世間と爭つて行かう。お母さまのいよいよ亡くなるといふ事がきまると、 私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油斷のならぬ惡がしこい生き ものに變つて行くやうな氣分になつた。

 その日のお晝すぎ、私がお母さまの傍で、お口をうるほしてあげてゐると、門 の前に自動車がとまつた。和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から自動車で馳 せつけて來て下さつたのだ。叔父さまが、病室にはひつていらして、お母さまの枕元 に默つてお坐りになつたら、お母さまは、ハンケチでご自分のお顏の下半分をかくし、 叔父さまのお顏を見つめたまま、お泣きになつた。けれども、泣き顏になつただけで、 涙は出なかつた。お人形のやうな感じだつた。

「直治は、どこ?」

 と、しばらくしてお母さまは、私のはうを見ておつしやつた。

 私は二階へ行つて、洋間のソフアに寢そべつて新刊の雜誌を讀んでゐる直治に、

「お母さまが、お呼びですよ。」

 といふと、

「わあ、また愁歎場か。汝等は、よく我慢してあそこに頑張つてをれるね。神經 が太いんだね。薄情なんだね。我等は、何とも苦しくて、實に心は熱すれども肉體よ わく、とてもママの傍にゐる氣力は無い。」などと言ひながら上衣を着て、私と一緒 に二階から降りて來た。

 二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲團の下から手 をお出しになつて、さうして、默つて直治のはうを指差し、それから私を指差し、そ れから叔父さまのはうへお顏をお向けになつて、兩方の掌をひたとお合せになつた。

 叔父さまは、大きくうなづいて、

「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ。」

 とおつしやつた。

 お母さまは、ご安心なさつたやうに、眼を輕くつぶつて、手をお蒲團の中へそ つとおいれになつた。

 私も泣き、直治もうつむいて嗚咽した。

 そこへ、三宅さまの老先生が、長岡からいらして、取敢へず注射した。お母さ まも、叔父さまに逢へて、もう、心殘りが無いとお思ひになつたか、

「先生、早く、樂にして下さいな。」

 とおつしやつた。

 老先生と叔父さまは、顏を見合はせて、默つて、さうしてお二人の眼に涙がき らと光つた。

 私は立つて食堂へ行き、叔父さまのお好きなキツネうどんをこしらへて、先生 と直治と叔母さまと四人分、支那間へ持つて行き、それから叔父さまのお土産の丸ノ 内ホテルのサンドウヰッチを、お母さまにお見せして、お母さまの枕元に置くと、

「忙しいでせう。」

 とお母さまは、小聲でおつしやつた。

 支那間で皆さんがしばらく雜談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても、今 夜、東京へ歸らなければならぬ用事があるとかで、私に見舞ひのお金包を手渡し、三 宅さまも看護婦さんと一緒にお歸りになる事になり、附添ひの看護婦さんに、いろい ろ手當の仕方を言ひつけ、とにかくまだ意識はしつかりしてゐるし、心臟のはうもそ んなにまゐつてゐないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だらうといふ事で、 その日いつたん皆さんが自動車で東京へ引き上げたのである。

 皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑ふ親しげな笑 ひかたをなさつて、

「忙しかつたでせう。」

 と、また、囁くやうな小さいお聲でおつしやつた。そのお顏は、活き活きとし て、むしろ輝いてゐるやうに見えた。叔父さまにお逢ひ出來てうれしかつたのだらう、 と私は思つた。

「いいえ。」

 私もすこし浮き浮きした氣分になつて、につこり笑つた。

 さうして、これが、お母さまとの最後のお話であつた。

 それから、三時間ばかりして、お母さまは亡くなつたのだ。秋のしづかな黄昏、 看護婦さんに脈をとられて、直治と私と、たつた二人の肉親に見守られて、日本で最 後の貴婦人だつた美しいお母さまが。

 お死顏は、殆んど、變らなかつた。お父上の時は、さつと、お顏の色が變つた けれども、お母さまのお顏の色は、ちつとも變らずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸 の絶えたのも、いつと、はつきりわからぬ位であつた。お顏のむくみも、前日あたり からとれてゐて、頬が蝋のやうにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含 んでゐるやうにも見えて、生きてゐるお母さまより、なまめかしかつた。私は、ピエ タのマリヤに似てゐると思つた。

[_]
[13] Dazai Zenshu reads おくすりを.
[_]
[14] Dazai Zenshu reads「夢を見たの。」.