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6. 六

 戰鬪、開始。

 いつまでも、悲しみに沈んでもをられなかつた。私には、是非とも、戰ひとら なければならぬものがあつた。新しい倫理、いいえ、さう言つても僞善めく、戀。そ れだけだ。ローザが新しい經濟學にたよらなければ生きてをられなかつたやうに、私 はいま、戀一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。イエスが、この世の宗教家、 道徳家、學者、權威者の僞善をあばき、神の眞の愛情といふものを少しも躊躇すると ころなくありのままに人々に告げあらはさんがために、その十二弟子をも諸方に派遣 なさらうとするに當つて、弟子たちに教へ聞かせたお言葉は、私のこの場合にも全然、 無關係でないやうに思はれた。

「帶のなかに金・銀または錢を持つな。旅の

[_]
[15]嚢
も、 二枚の下衣も、鞋も、杖も持つな。視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入 るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。人々に心せよ、それは 汝らを衆議所に付し、會堂にて鞭たん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前 に曳かれん。かれら汝らを付さば、如何なにを言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、 その時さづけらるべし。これ言ふものは、汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ 汝らの父の靈なり。又なんぢら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐 へ忍ぶものは救はるべし。この町にて、責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝ら に告ぐ、なんぢらイスラエルの町々を巡り盡さぬうちに人の子は來るべし。

 身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得 る者をおそれよ。われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな、平和にあらず、反つ て劍を投ぜん爲に來れり。それ我が來れるは人をその父より、娘をその母より、嫁を そのしうとめより分たん爲なり。人の仇は、その家の者なる べし。我よりも父または母を愛する者は、我に相應しからず、我よりも息子または娘 を愛する者は、我に相應しからず。又おのが十字架をとりて我に從はぬ者は、我に相 應しからず。生命を得る者は、これを失ひ、我がために生命を失ふ者は、これを得べ し。」

 戰鬪開始。

 もし、私が戀ゆゑにイエスのこの教へをそつくりそのまま必ず守ることを誓つ たら、イエスさまはお叱りになるかしら。なぜ、「戀」がわるくて、「愛」がいいの か、私には

[_]
[16]わからい。
同じもののやうな氣がしてなら ない。何だかわからぬ愛のために、戀のために、その悲しさのために、身と靈魂とを ゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言ひ張りたいのだ。

 叔父さまたちのお世話で、お母さまの密葬を伊豆で行ひ、本葬は東京ですまし て、それからまた直治と私は、伊豆の山莊で、お互ひ顏を合せても口をきかぬやうな、 理由のわからぬ氣まづい生活をして、直治は出版業の資本金と稱して、お母さまの寶 石類を全部持ち出し、東京で飮み疲れると、伊豆の山莊へ大病人のやうな眞蒼な顏を してふらふら歸つて來て、寢て、或る時若いダンサアふうのひとを連れて來て、さす がに直治も少し間が惡さうにしてゐるので、

「けふ、私、東京へ行つてもいい? お友だちのところへ久し振りで遊びに行つ てみたいの。二晩か、三晩、泊つて來ますから、あなた留守番してね。お炊事はあの 方に、たのむといいわ。」

 直治の弱味にすかさず附け込み、謂はば蛇のごとく慧く、私はバッグにお化粧 品やパンなど詰め込んで、きはめて自然に、あのひとと逢ひに上京する事が出來た。

 東京郊外、省線荻窪驛の北口に下車すると、そこから二十分くらゐで、あのひ との大戰後の新しいお住居に行き着けるらしいといふ事は、直治から前にそれとなく 聞いてゐたのである。

 こがらしの強く吹いてゐる日だつた。荻窪驛に降りた頃には、もうあたりが薄 暗く、私は往來のひとをつかまへては、あのひとのところ番地を告げて、その方角を 教へてもらつて、一時間ちかく暗い郊外の路地をうろついて、あまり心細くて、涙が 出て、そのうちに砂利道の石につまづいて下駄の鼻緒がぷつんと切れて、どうしよう かと立ちすくんで、ふと右手の二軒長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼ んやり浮んで、それに上原と書かれてゐるやうな氣がして、片足は足袋はだしのまま、 その家の玄關に走り寄つて、なほよく表札を見ると、たしかに上原二郎としたためら れてゐたが、家の中は暗かつた。

 どうしようか、とまた瞬時立ちすくみ、それから身を投げる氣持で、玄關の格 子戸に倒れかかるやうにひたと寄り添ひ、

「ごめん下さいまし。」

 と言ひ、兩手の指先で格子を撫でながら、

「上原さん。」

 と小聲で囁いてみた。

 返事は、有つた。しかし、それは女のひとの聲であつた。

 玄關の戸が内からあいて、細おもての古風な匂ひのする、私より三つ四つ年上 のやうな女のひとが、玄關の暗闇の中でちらと笑ひ、

「どちらさまでせうか。」

 とたづねるその言葉の調子には、なんの惡意も警戒も無かつた。

「いいえ、あのう、」

 けれども私は、自分の名を言ひそびれてしまつた。このひとにだけは、私の戀 も、奇妙にうしろめたく思はれた。おどおどと、ほとんど卑屈に、

「先生は? いらつしやいません?」

「はあ。」

 と答へて、氣の毒さうに私の顏を見て、

「でも、行く先は、たいてい、……」

「遠くへ?」

「いいえ。」

 と、可笑しさうに片手をお口に當てられて、

「荻窪ですの。驛の前の、白石といふおでんやさんへおいでになれば、たいてい、 行く先がおわかりかと思ひます。

 私は飛び立つ思ひで、

「あ、さうですか。」

「あら、おはきものが。」

 すすめられて私は玄關の内へはひり、式臺に坐らせてもらひ、奧さまから輕便 鼻緒とでもいふのかしら、鼻緒の切れた時に手輕に繕ふことの出來る革の仕掛紐をい ただいて、下駄を直して、そのあひだに奧さまは蝋燭をともして玄關に持つて來て下 さつたりしながら、

「あいにく、電球が二つとも切れてしまひまして、このごろの電球は馬鹿高い上 に切れ易くていけませんわね、主人がゐると買つてもらへるんですけど、ゆうべも、 をととひの晩も歸つてまゐりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寢です のよ。」

 などと、しんからのんきさうに笑つておつしやる。奧さまのうしろには、十二、 三歳の眼の大きな、めつたに人になつかないやうな感じのほつそりした女のお子さん が立つてゐる。

 敵、私はさう思はないけれども、しかし、この奧さまとお子さんは、いつか私 を敵と思つて憎む事があるに違ひないのだ。それを考へたら、私の戀も、一時にさめ 果てたやうな氣持になつて、下駄の鼻緒をすげかへ、立つてはたはたと手を打ち合せ て兩手のよごれを拂ひ落しながら、わびしさが猛然と身のまはりに押し寄せて來る氣 配に堪へかね、お座敷に駈け上つて、まつくら闇の中で奧さまのお手を掴んで泣かう かしらと、ぐらぐら烈しく動搖したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何 とも形のつかぬ味氣無い姿を考へ、いやになり、

「ありがたうございました。」

 と、ばか丁寧なお辭儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戰鬪、開始、戀 する、すき、こがれる、本當に戀する、本當にすき、本當にこがれる、戀ひしいのだ から仕樣が無い、すきなのだから仕樣が無い、こがれてゐるのだから仕樣が無い、あ の奧さまはたしかに珍しくいいお方、あのお孃さんもお綺麗だ、けれども私は、神の 審判の臺に立たされたつて、少しも自分はやましいと思はぬ、人間は、戀と革命のた めに生れて來たのだ、神も罰し給ふ筈が無い、私はみぢんも惡くない、本當にすきな のだから大威張り、あのひとに一目お逢ひするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、 必ず。

 驛前の白石といふおでんやはすぐ見つかつた。けれども、あのひとはいらつし やらない。

「阿佐ケ谷ですよ、きつと。阿佐ケ谷驛の北口をまつすぐにいらして、さうです ね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはひつて、半丁か な? 柳やといふ小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと 大あつあつで、いりびたりだ、かなはねえ。」

 驛へ行き、切符を買ひ、東京行きの省線に乘り、阿佐ケ谷で降りて北口、約一 丁半、金物屋さんのところから右へ曲つて半丁、柳やは、ひつそりしてゐた。

「たつたいまお歸りになりましたが、大勢さんで、これから西荻のチドリのをば さんのところへ行つて夜明しで飮むんだ、とかおつしやつてゐましたよ。」

 私よりも年が若くて、落ちついて、上品で親切さうな、これがあのおステさん とかいふあのひとと大あつあつの人なのかしら。

「チドリ? 西荻のどのへん?」

 心細くて、涙が出さうになつた。自分がいま、氣が狂つてゐるのではないかし ら、とふと思つた。

「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の驛を降りて、南口の、左にはひつ たところだとか、とにかく、交番でお聞きになつたら、わかるんぢやないでせうか。 何せ一軒ではをさまらないひとで、チドリに行く前に又どこかにひつかかつてゐるか も知れませんですよ。」

「チドリへ行つてみます。さようなら。」

 また、逆もどり。阿佐ケ谷から省線で立川行きに乘り、荻窪、西荻窪、驛の南 口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたづね て、それから、教へられたとほり夜道を走るやうにして行つて、チドリの青い燈籠を 見つけて、ためらはず格子戸をあけた。

 土間があつて、それからすぐ六疊間くらゐの部屋があつて、たばこの煙で濛々 として、十人ばかりの人間が、部屋の大きな卓をかこんで、わあつわあつとひどく騒 がしいお酒盛りをしてゐた。私より若いくらゐのお孃さんも三人まじつて、たばこを 吸ひ、お酒を飮んでゐた。

 私は土間に立つて、見渡し、見つけた。さうして、夢見るやうな氣持ちになつ た。ちがふのだ。六年。まるつきり、もう、違つたひとになつてゐるのだ。

 これが、あの、私の虹、M・C、私の生き甲斐の、あのひとであらうか。六年。 蓬髮は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなつてをり、顏は黄色くむくんで、眼 のふちが赤くただれて、前齒が拔け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が 背中を丸くして部屋の片隅に坐つてゐる感じであつた。

 お孃さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の來てゐる事を知らせた。 あのひとは坐つたまま細長い首をのばして私のはうを見て、何の表情も無く、顎であ がれといふ合圖をした。一座は、私に何の關心も無ささうに、わいわいの大騒ぎをつ づけ、それでも少しづつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席をつくつてくれ た。

 私は默つて坐つた。上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといつぱい注い でくれて、それから自分のコップにもお酒を注ぎ足して、

「乾杯。」

 としやがれた聲で低く言つた。

 二つのコップが、力弱く觸れ合つて、カチと悲しい音がした。

 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、と誰かが言つて、それに應じてまた ひとりが、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、と言ひ、カチンと音高くコップ を打ち合せてぐいと飮む。ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロ チン、シユルシユルシユ、とあちこちから、その出鱈目みたいな歌が起つて、さかん にコップを打ち合せて乾杯してゐる。そんなふざけ切つたリズムでもつてはずみをつ けて無理にお酒を喉に流し込んでゐる樣子であつた。

「ぢや、失敬。」

 と言つて、よろめきながら歸るひとがあるかと思ふと、また、新客がのつそり はひつて來て、上原さんにちよつと會釋しただけで、一座に割り込む。

「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、といふところですが ね、あれはどんな工合ひに言つたらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、 あ、ですか?」

 と乘り出してたづねてゐるひとは、たしかに私もその舞臺顏に見覺えのある新 劇俳優の藤田である。

「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といつたやうな鹽梅だ ね。」

 と上原さん。

「お金の事ばつかり。」

 とお孃さん。

「二羽の雀に一錢、とは、ありや高いんですか? 安いんですか?」

 と若い紳士。

「一厘も殘りなく償はずば、といふ言葉もあるし、或者には五タラント、或者に は二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話もあるし、キリス トも勘定はなかなかこまかいんだ。」

 と別の紳士。

「それに、あいつあ酒飮みだつたよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思つて ゐたら、果せるかなだ。視よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録されてある。 酒を飮む人でなくて、酒を好む人といふんだから、相當な飮み手だつたに違ひねえの さ。まづ、一升飮みかね。」

 ともうひとりの紳士。

「よせ、よせ。ああ、あ、汝らは道徳におびえて、イエスをダシに使はんとす。 チエちやん、飮まう、ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ。」

 と上原さん、一ばん若くて美しいお孃さんと、カチンと強くコップを打ち合せ て、ぐつと飮んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡れて、それをやけくそみ たいに亂暴に掌で拭つて、それから大きいくしやみを五つ六つも續けてなさつた。

 私はそつと立つて、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白く痩せたおかみさん に、お手洗ひをたづねまた歸りにその部屋をとほると、さつきの一ばんきれいで若い チエちやんとかいふお孃さんが、私を待つてゐたやうな恰好で立つてゐて、

「おなかが、おすきになりません?」

 と親しさうに笑ひながら、尋ねた。

「ええ、でも、私パンを持つてまゐりましたから。」

「何もございませんけど、」

 と病身らしいおかみさんは、だるさうに横坐りに坐つて長火鉢に寄りかかつた ままで言ふ。

「この部屋でお食事をなさいまし。あんな呑んべえさんたちの相手をしてゐたら、 一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に。」

「おうい、キヌちやん、お酒が無い。」

 とお隣りで紳士が叫ぶ。

「はい、はい。」

 と返辭して、そのキヌちやんといふ三十歳前後の粹な縞の着物を着た女中さん が、お銚子をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらはれる。

「ちよつと、」

 とおかみさんは呼びとめて、

「ここへも二本。」

 と笑ひながら言ひ、

「それからね、キヌちやん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行つて、うどんを 二つ大いそぎでね。」

 私とチエちやんは長火鉢の傍に並んで坐つて、手をあぶつてゐた。

「お蒲團をおあてなさい。寒くなりましたね。お飮みになりませんか。」

 おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗にお銚子のお酒をついで、それから別の 二つのお茶碗にもお酒を注いだ。

 さうして私たち三人は默つて飮んだ。

 「みなさん、お強いのね。」

 とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言つた。

 がらがらと表の戸のあく音が聞えて、

「先生、持つてまゐりました。」といふ若い男の聲がして、

「何せ、うちの社長つたら、がつちりしてゐますからね、二萬圓と言つてねばつ たのですが、やつと一萬圓。」

「小切手か?」

 と上原さんのしやがれた聲。

「いいえ、現なまですが。すみません。」

「まあ、いいや、受取りを書かう。」

 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、の乾杯の歌が、そのあひだも一座に 於いて絶える事無くつづいてゐる。

「直さんは?」

 と、おかみさんは眞面目な顏をしてチエちやんに尋ねる。私は、どきりとした。

「知らないわ。直さんの番人ぢやあるまいし。」

 と、チエちやんは、うろたへて、顏を可憐に赤くなさつた。

「この頃、何か上原さんと、まづい事でもあつたんぢやないの? いつも、必ず、 一緒だつたのに。」

 とおかみさんは、落ちついて言ふ。

「ダンスのはうが、すきになつたんですつて。ダンサアの戀人でも出來たんでせ うよ。」

「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が惡いね。」

「先生のお仕込みですもの。」

「でも、直さんのはうが、たちが惡いよ。あんな坊ちやんくづれは、……」

「あの、」

 私は微笑んで口をはさんだ。默つてゐては、かへつてこのお二人に失禮なこと になりさうだと思つたのだ。

「私、直治の姉なんですの。」

 おかみさんは驚いたらしく、私の顏を見直したが、チエちやんは平氣で、

「お顏がよく似ていらつしやいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになつ てゐたのを見て、私、はつと思つたわ。直さんかと。」

「左樣でございますか。」

 とおかみさんは語調を改めて、

「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前 から?」

「ええ、六年前にお逢ひして、……」

 言ひ澱み、うつむき、涙が出さうになつた。

「お待ちどうさま。」

 女中さんが、おうどんを持つて來た。

「召し上れ。熱いうちに。」

 とおかみさんはすすめる。

「いただきます。」

 おうどんの湯氣に顏をつつ込み、するするとおうどんを啜つて、私は、今こそ 生きてゐる事の佗しさの、極限を味はつてゐるやうな氣がした。

 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロチン、シユルシユル シユ、と低く口ずさみながら、上原さんは私たちの部屋にはひつて來て、私の傍にど かりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。

「これだけで、あとをごまかしちやだめですよ。」

 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞ひ込んで 笑ひながら言ふ。

「持つて來るよ。あとの支拂ひは、來年だ。」

「あんな事を。」

 一萬圓。それだけあれば、電球がいくつ買へるだらう。私だつて、それだけあ れば、一年らくに暮せるのだ。

 ああ、何かこの人たちは、間違つてゐる。しかし、この人たちも、私の戀の場 合と同じ樣に、かうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世 の中に生れて來た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人 達のこの生き切るための姿も、憎むべきでないかも知れぬ。生きてゐる事。生きてゐ る事。ああ、それは、何といふやりきれない息もたえだえの大事業であらうか。

「とにかくね。」

 と隣室の紳士がおつしやる。

「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワア、といふ輕薄きはまる挨拶 が平氣で出來るやうでなければ、とても駄目だね。いまのわれらに、重厚だの、誠實 だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引つぱるやうなものだ。重厚?  誠實? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえぢやないか。もしもだね、コンチワアを 輕く言へなかつたら、あとは道が三つしか無いんだ、一つは歸農だ、一つは自殺、も う一つは女のヒモさ。」

「その一つも出來やしねえ可哀想な野郎には、せめて最後の唯一の手段、」

 と別な紳士が、

「上原二郎にたかつて、痛飮。」

 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、ギロチン、ギロチン、シユルシユル シユ。

「泊るところがねえんだろ。」

 と、上原さんは、低い聲でひとりごとのやうにおつしやつた。

「私?」

 私は自身に鎌首をもたげた蛇を意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自 分のからだを固くしたのである。

「ざこ寢が出來るか。寒いぜ。」

 上原さんは、私の怒りに頓着なく呟く。

「無理でせう。」

 とおかみさんは、口をはさみ、

「お可哀さうよ。」

 ちえつ、と上原さんは舌打ちして、

「そんなら、こんなところへ來なけれあいいんだ。」

 私は默つてゐた。このひとは、たしかに私のあの手紙を讀んだ。さうして、誰 よりも私を愛してゐると、私はそのひとの言葉の雰圍氣から素早く察した。

「仕樣がねえな、福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちやん、連 れて行つてくれないか。いや、女だけだと、途中が危險か。やつかいだな。かあさん、 このひとのはきものを、こつそりお勝手のはうに廻して置いてくれ。僕が送りとどけ て來るから。」

 外は深夜の氣配だつた。風はいくぶんをさまり、空にいつぱい星が光つてゐた。 私たちは、ならんで歩きながら、

「私、ざこ寢でも何でも、出來ますのに。」

 上原さんは、眠さうな聲で、

「うん。」

 とだけ言つた。

「二人つきりに、なりたかつたのでせう。さうでせう。」

 私がさう言つて笑つたら、上原さんは、

「これだから、いやさ。」

 と口をまげて、にが笑ひなさつた。私は自分がとても可愛がられてゐる事を、 身にしみて意識した。

「ずゐぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」

「さう、毎日。朝からだ。」

「おいしいの? お酒が。」

「まづいよ。」

 さう言ふ上原さんの聲に、私はなぜだか、ぞつとした。

「お仕事は?」

「駄目です。何を書いても、ばかばかしくつて、さうして、ただもう、悲しくつ て仕樣が無いんだ。いのちの黄昏。藝術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね。」

「ユトリロ」

 私は、ほとんど無意識にそれを言つた。

「ああ、ユトリロ。まだ生きてゐやがるらしいね。アルコールの亡者。死骸だね。 最近十年間のあいつの繪は、へんに俗つぽくて、みな駄目。」

「ユトリロだけぢやないんでせう? 他のマイスターたちも全部、……」

「さう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱してゐるのです。霜。フロ スト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです。」

 上原さんは私の肩を輕く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しの袖で包ま れたやうな形になつたが、私は拒否せず、かへつてぴつたり寄りそつてゆつくり歩い た。

 路傍の樹木の枝。葉の一枚も附いてゐない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺してゐ て、

「木の枝つて、美しいものですわねえ。」

 と思はずひとりごとのやうに言つたら、

「うん、花と眞黒い枝の調和が。」

 と少しうろたへたやうにおつしやつた。

「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついてゐない、こんな枝がすき。これでも、 ちやんと生きてゐるのでせう。枯枝とちがひますわ。」

「自然だけは、衰弱せずか。」

 さう言つて、また烈しい嚔をいくつも續けてなさつた。

「お風邪ぢやございませんの?」

「いや、いや、さにあらず。實はね、これは僕の奇癖でね、お酒の醉が飽和點に 達すると、たちまちこんな工合のくしやみが出るんです。醉ひのバロメーターみたい なものだね。」

「戀は?」

「え?」

「どなたかございますの? 飽和點くらゐにすすんでゐるお方が。」

「なんだ、ひやかしちやいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。 ギロチン、ギロチン、シユルシユルシユ、實は、ひとり、いや、半人くらゐある。」

「私の手紙、ごらんになつて?」

「見た。」

「ご返事は?」

「僕は貴族は、きらひなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なと ころがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出來の男なんだが、時々、ふ つと、とても附き合ひ切れない小生意氣なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子で ね、こんな小川の傍をとほると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒を釣つた事や、め だかを掬つた事を思ひ出してたまらない氣持になる。」

 暗闇の底で幽かに音立てて流れてゐる小川に、沿つた路を私たちは歩いてゐた。

「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶對理解できないばかりか、 輕蔑してゐる。」

「ツルゲーネフは?」

「あいつは貴族だ。だから、いやなんだ。」

「でも、獵人日記、……」

「うん、あれだけは、ちよつとうまいね。」

「あれは、農村生活の感傷、……」

「あの野郎は田舎貴族、といふところで妥協しようか。」

「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作つてゐますのよ。田舎の貧乏人。」

「今でも、僕をすきなのかい。」

 亂暴な口調であつた。

「僕の赤ちやんが欲しいのかい。」

 私は答へなかつた。

 岩が落ちて來るやうな勢ひでそのひとの顏が近づき、遮二無二私はキスされた。 性慾のにほひのするキスだつた。私はそれを受けながら涙を流した。屈辱の、くやし 涙に似てゐるにがい涙があつた。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。

 また、二人ならんで歩きながら、

「しくじつた。惚れちやつた。」

 とそのひとは言つて、笑つた。

 けれども、私は笑ふ事が出來なかつた。眉をひそめて口をすぼめた。

 仕方が無い。

 言葉で言ひあらはすなら、そんな感じのものだつた。私は自分が下駄を引きず つてすさんだ歩き方をしてゐるのに氣がついた。

「しくじつた。」

 とその男は、また言つた。

「行くところまで行くか。」

「キザですわ。」

「この野郎。」

 上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩いて、また大きいくしやみをなさつた。

 福井さんとかいふお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになつていらつし やる樣子であつた。

「電報、電報。福井さん、電報ですよ。」

 と大聲で言つて、上原さんは玄關の戸をたたいた。

「上原か?」

 と家の中で男のひとの聲がした。

「そのとほり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに來たのだ。どうもか う寒いと、くしやみばかり出て、せつかくの戀の道行もコメデイになつてしまふ。」

 玄關の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を越したくらゐの、頭の 禿げた小柄のをぢさんが、派手なパジヤマを着て、

[_]
[17]へんなは にかむやうな笑顏で
私たちを迎へた。

「たのむ。」

 と上原さんは一こと言つて、マントも脱がずにさつさと家の中へはひつて、

「アトリヱは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで。」

 私の手をとつて、廊下をとほり突き當りの階段をのぼつて、暗い座敷にはひり、 部屋の隅のスヰツチをパチとひねつた。

「お料理屋のお部屋みたいね。」

「うん、成金趣味さ。でも、あんなヘボ畫かきにはもつたいない。惡運が強くて 罹災も、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寢よう、寢よう。」

 ご自分のお家みたいに、勝手に押入れをあけてお蒲團を出して敷いて、

「ここへ寢給へ。僕は歸る。あしたの朝、迎へに來ます。便所は、階段を降りて、 すぐ右だ。」

 だだだだと階段からころげ落ちるやうに騒々しく下へ降りて行つて、それつき り、しんとなつた。

 私はまたスヰツチをひねつて、電燈を消し、お父上の外國土産の生地で作つた ビロードのコートを脱ぎ、帶だけほどいて着物のままでお床へはひつた。疲れてゐる 上に、お酒を飮んだせゐか、からだがだるく、すぐにうとうとまどろんだ。

 いつのまにか、あのひとが私の傍に寢ていらして、……私は一時間ちかく、必 死の無言の抵抗をした。

 ふと可哀さうになつて、放棄した。

「かうしなければ、ご安心が出來ないのでせう?」

「まあ、そんなところだ。」

「あなた、おからだを惡くしていらつしやるんぢやない? 喀血なさつたでせ う。」

「どうしてわかるの? 實はこなひだ、かなりひどいのをやつたのだけど、誰に も知らせてゐないんだ。」

「お母樣のお亡くなりになる前と、おんなじ匂ひがするんですもの。」

「死ぬ氣で飮んでゐるんだ。生きてゐるのが、悲しくつて仕樣が無いんだよ。わ びしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰氣くさ い、嘆きの溜息が四方の壁から聞えてゐる時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無 いぢやないか。自分の幸福も光榮も、生きてゐるうちには決して無いとわかつた時、 ひとは、どんな氣持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獸の餌食 になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね。」

「いいえ。」

「戀だけだね。おめえの手紙のお説のとほりだよ。」

「さう。」

 私の戀は、消えてゐた。

 夜が明けた。

 部屋が薄明るくなつて、私は、傍で眠つてゐるそのひとの寢顏をつくづく眺め た。ちかく死ぬひとのやうな顏をしてゐた。疲れてゐるお顏だつた。

 犧牲者の顏。貴い犧牲者。

 私のひと。私の虹。マイ、チヤイルド。にくいひと。ずるい ひと。

 この世にまたと無いくらゐに、とても美しい顏のやうに思はれ、戀があらたに よみがへつて來たやうで胸がときめき、そのひとの髮を撫でながら、私のはうからキ スをした。

 かなしい、かなしい戀の成就。

 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになつて、

「ひがんでゐたのさ。僕は百姓の子だから。」

 もうこのひとから離れまい。

「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの聲が聞えて來ても、私のいまの幸福感は、 飽和點よ。くしやみが出るくらゐ幸福だわ。」

 上原さんは、ふふ、とお笑ひになつて、

「でも、もう、おそいな。黄昏だ。」

「朝ですわ。」

 弟の直治は、その朝に自殺してゐた。

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[15] In our copy-text this character was New Nelson 933 or Nelson124.
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[16] Dazai Zenshu reads わからない。.
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[17] Dazai Zenshu reads へんな、はにかむやうな笑顏で.