女客
泉鏡花 (Onna kyaku) | ||
五
我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、 言 ( ことば ) の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも 果敢 ( はかな ) げに、しょんぼり肩を落したが、急に 寂 ( さみ ) しい笑顔を上げた。
「ほほほほほ、その気で 沢山 ( たんと ) 御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は 厭 ( いや ) 。」
といううち涙さしぐみぬ。
「謹さん、」
というも曇り声に、
「も、 貴下 ( あなた ) 、どうして、そんなに、 優 ( やさし ) くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」
「 貴女 ( あなた ) でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」
「ええ? 恩人ですって、私が。」
「貴女が、」
「まあ! 誰方 ( どなた ) のねえ?」
「私のですとも。」
「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで 児持 ( こもち ) になったんですもの。 碌 ( ろく ) に 小袖 ( こそで ) 一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の 大切 ( だいじ ) だった、そのお米のなかった時も、 煙草 ( たばこ ) も買ってあげないでさ。
後で聞いて 口惜 ( くやし ) くって、今でも 怨 ( うら ) んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの 御容子 ( ごようす ) でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、 窶 ( やつ ) れてないで、もっと顔色も 可 ( よ ) かったもの……」
「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく 活々 ( いきいき ) していたのだって、貴女、貴女の 傍 ( そば ) に居る時の 他 ( ほか ) に、そうした事を見た事はありますまい。
私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。
ねえ。
先刻 ( さっき ) もいう通り、私の死んでしまった方が 阿母 ( おふくろ ) のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。
実際私は、貴女のために 活 ( い ) きていたんだ。
そして、お民さん。」
あるじが落着いて 静 ( しずか ) にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその 顔 ( かんばせ ) に、 湧上 ( わきのぼ ) るごとき 血汐 ( ちしお ) の色。
「 切迫詰 ( せっぱつま ) って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい 場処 ( ところ ) が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、 確 ( たしか ) に信仰していたんだね。
まあ、お民さん 許 ( とこ ) で 夜更 ( よふか ) しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は 寝衣 ( ねまき ) のなりで、寒いのも 厭 ( いと ) わないで、貴女が自分で送って下さる。
門 ( かど ) を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、 暗 ( やみ ) の中まで見送ってくれたでしょう。 小児 ( こども ) が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。
私はまた、曲り角で、きっと、 密 ( そっ ) と 立停 ( たちど ) まって、しばらく 経 ( た ) って、カタリと 枢 ( くるる ) のおりるのを聞いたんです。
その、帰り 途 ( みち ) に、 濠端 ( ほりばた ) を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が 崖 ( がけ ) をはずれる、 背後 ( うしろ ) でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと 確 ( たしか ) に思った。
ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、 厭 ( いや ) な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お 庇 ( かげ ) で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」
とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る 燈 ( ともしび ) の前に落涙した。
「お民さん、」
「謹さん、」
とばかり歯をカチリと、 堰 ( せ ) きあえぬ涙を 噛 ( か ) み留めつつ、
「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、 同 ( おんな ) じなんです、謹さん。 慾 ( よく ) にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。
まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を 歩行 ( ある ) きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」
と 差俯向 ( さしうつむ ) いた肩が震えた。
あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、 串戯 ( じょうだん ) じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、 譲 ( ゆずる ) (小児の名)さんをどうします。」
「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの 児 ( こ ) を 拵 ( こしら ) えました。そんな、そんな児を構うものか。」
とすねたように鋭くいったが、露を 湛 ( たた ) えた 花片 ( はなびら ) を、湯気やなぶると、 笑 ( えみ ) を湛え、
「ようござんすよ。私はお濠を 楽 ( たのし ) みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、 凄 ( すご ) い死神なら 可 ( い ) いけれど、大方 鼬 ( いたち ) にでも見えるでしょう。」
と投げたように、片身を畳に、 褄 ( つま ) も乱れて 崩折 ( くずお ) れた。
あるじは、ひたと寄せて、 押 ( おさ ) えるように、 棄 ( す ) てた女の手を取って、
「お民さん。」
「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
「 煩 ( うるさ ) いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
とはらりと立って、 脛 ( はぎ ) 白き、敷居際の立姿。やがてトントンと 階下 ( した ) へ下りたが、泣き 留 ( や ) まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の 形 ( なり ) で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で 縋 ( すが ) って泣いじゃくる。
あるじは、きちんと 坐 ( すわ ) り直って、
「どうしたの、 酷 ( ひど ) く 怯 ( おび ) えたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
と 頬 ( ほお ) に顔をかさぬれば、 乳 ( ち ) を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、 阿母 ( おっか ) さん。」
「ええ、」
二人は顔を見合わせた。
あるじは、居寄って顔を 覗 ( のぞ ) き、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
小児 ( こども ) はなお含んだまま、いたいけに 捻向 ( ねじむ ) いて、
「ううむ、内じゃないの。お 濠 ( ほり ) ン 許 ( とこ ) で、長い尻尾で、あの、目が光って、 私 ( わたい ) 、私を 睨 ( にら ) んで、 恐 ( こわ ) かったの。」
と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を 埋 ( うず ) めた。
また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
と 衝 ( つ ) と立ったが、 早急 ( さっきゅう ) だったのと、抱いた 重量 ( おもみ ) で、 裳 ( もすそ ) を前に、よろよろと、お民は、よろけながら 段階子 ( だんばしご ) 。
「謹さん。」
「…………」
「 翌朝 ( あした ) のお米は?」
と 艶麗 ( はでやか ) に 莞爾 ( にっこり ) して、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
と下を向いて高く言った。
その時 襖 ( ふすま ) の開く音がして、
「おそなわりました、 御新造様 ( ごしんぞさま ) 。」
お民は答えず、ほと吐息。 円髷 ( まげ ) 艶 ( つや ) やかに二三段、 片頬 ( かたほ ) を見せて、 差覗 ( さしのぞ ) いて、
「ここは閉めないで 行 ( ゆ ) きますよ。」
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