University of Virginia Library

    四六

 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに 階子段 ( はしごだん ) があったり、日当たりのいい ( ちゅう ) 二階のような 部屋 ( へや ) があったり、 納戸 ( なんど ) と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその 界隈 ( かいわい ) にたくさんある 待合 ( まちあい ) の建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは 加治木 ( かじき ) 病院というその病院の看護婦になっていた。

 長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、 黄粉 ( きなこ ) でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。 須田町 ( すだちょう ) に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに 一足 ( ひとあし ) 先に病院に行かして、葉子は 外濠 ( そとぼり ) に沿うた道を日本銀行からしばらく行く 釘店 ( くぎだな ) 横丁 ( よこちょう ) に曲がらせた。自分の住んでいた家を 他所 ( よそ ) ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。 前幌 ( まえほろ ) のすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には 叔父 ( おじ ) の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの 永寿堂 ( えいじゅどう ) 病院という看板は相変わらず玄関の ( なげし )

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に見えていた。 長三洲 ( ちょうさんしゅう ) と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が ( くし ) を折って急に泣き出したのも、貞世が ( おこ ) ったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。

 「もういい早くやっておくれ」

 そう葉子は車の上から涙声でいった。車は 梶棒 ( かじぼう ) を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた 叔父叔母 ( おじおば ) の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。 鎌倉 ( かまくら ) に行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、 金輪際 ( こんりんざい ) 忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全く ( みじ ) めにしてしまった。

 病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな 落魄 ( らくはく ) したような姿をつやに見せるのが ( ) えがたい事のように思われ出したのだ。

 暗い二階の 部屋 ( へや ) に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに 挨拶 ( あいさつ ) もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが ( どろ ) 臭く ( かよ ) って来るような所だった。愛子は ( すす ) けた 障子 ( しょうじ ) の陰で手回りの荷物を取り出して 案配 ( あんばい ) した。 口少 ( くちずく ) なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が 騒々 ( そうぞう ) しいだけに部屋の中はなおさらひっそり[#「ひっそり」に傍点]と思われた。

 葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も ( さび ) れていた。少し ( かび ) を持ったようにほこりっぽくぶく[#「ぶく」に傍点]ぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い ( だな ) には手文庫と 硯箱 ( すずりばこ ) が飾られたけれども、床の間には 幅物 ( ふくもの ) 一つ、 花活 ( はない ) け一つ置いてなかった。その代わりに草色の 風呂敷 ( ふろしき ) に包み込んだ衣類と黒い ( ) のパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、 ( ふち ) の所に ( ) げた所ができて、表には赤い 短冊 ( たんざく ) のついた矢が ( まと ) に命中している ( ) が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。

 「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。 ( さあ ) ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」

 いつものとおりはき[#「はき」に傍点]はきとした手答えがないので、もうぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりして来た葉子は ( けん ) を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を 発矢 ( はっし ) とむちうった。そして寝床の上に半身を ( ひじ ) にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。

 「あなたにきょうははっきり[#「はっきり」に傍点]聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょん[#「ひょん」に傍点]な約束なんぞしてはいますまいね」

 「いゝえ」

 愛子は手もなく 素直 ( すなお ) にこう答えて目を伏せてしまった。

 「古藤さんとも?」

 「いゝえ」

 今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしら[#「しら」に傍点]を切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には 怪訝 ( けげん ) に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで 内兜 ( うちかぶと ) を見透かされたようなもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]はいっそう葉子の心を憤らした。

 「あなたは 二人 ( ふたり ) から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」

 愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は 図星 ( ずぼし ) をさしたと思って ( かさ ) にかかって行った。

 「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」

 「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」

 「おっしゃらない事があるもんかね」

  憤怒 ( ふんぬ ) に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を ( つめ ) の先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠れ ( ) だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱う ( すべ ) もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり[#「うっかり」に傍点]葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなす ( すべ ) を知っているのだけれども、あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲からながめながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があて[#「あて」に傍点]になるものか。……葉子は手傷を負った ( いのしし ) のように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。

 「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。ねえさんを甘くお見でないよ。……お前さんほんとうに黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきり[#「はっきり」に傍点]わかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」

 「そうじゃありません」

 あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしくあわててこういって言葉でささえようとした。

 「もっとこっち[#「こっち」に傍点]においで」

 愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する 憎悪 ( ぞうお ) は極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から ( おど ) り上がった。そうしていきなり[#「いきなり」に傍点]愛子のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]をつかもうとした。

 愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の 発作 ( ほっさ ) を見て取ると、 敏捷 ( びんしょう ) に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみ[#「はずみ」に傍点]に愛子の 袖先 ( そでさき ) をつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手に ( ) き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでそのあとを追ったが、とても愛子の 敏捷 ( びんしょう ) さにはかなわなかった。そして 階子段 ( はしごだん ) の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。

 幾時間かの人事不省の後に意識がはっきり[#「はっきり」に傍点]してみると、葉子は愛子とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]をただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。 ( まくら ) もとの障子には葉子の手のさし込まれた ( あな ) が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の ( ) にうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっ[#「じっ」に傍点]としているのが、 ( ) えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、 ( うみ ) っぽい女を葉子は何よりも ( のろ ) わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやか[#「まめやか」に傍点]な心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。

 これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの 囈言 ( うわごと ) ……それがどうかすると 近々 ( ちかぢか ) と耳に聞こえたり、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に 敏捷 ( びんしょう ) になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり[#「はっきり」に傍点]見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだすさびしさはたとえようがなかった。

 愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。もう始めの日のような 狼藉 ( ろうぜき ) はしなかったけれども、その顔を見たばかりで、葉子は病気が ( おも ) るように思った。ことに貞世の病状が軽くなって行くという報告は激しく葉子を ( おこ ) らした。自分があれほどの愛着をこめて看護してもよくならなかったものが、愛子なんぞの通り一ぺんの世話でなおるはずがない。また愛子はいいかげんな気休めに 虚言 ( うそ ) をついているのだ。貞世はもうひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に根掘り葉掘り聞いてみるが、 二人 ( ふたり ) の言葉があまりに符合するので、貞世のだんだんよくなって行きつつあるのを疑う余地はなかった。葉子には運命が狂い出したようにしか思われなかった。愛情というものなしに病気がなおせるなら、人の生命は機械でも造り上げる事ができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世はだんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。

 葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。

 日はたつけれども倉地からはほんとうになんの消息もなかった。病的に感覚の興奮した葉子は、時々肉体的に倉地を慕う衝動に駆り立てられた。葉子の心の目には、倉地の肉体のすべての部分は触れる事ができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で造り出した不思議な迷宮の中にあって、意識のしびれきるような陶酔にひたった。しかしその酔いがさめたあとの苦痛は、精神の疲弊と一緒に働いて、葉子を半死半生の ( さかい ) に打ちのめした。葉子は自分の 妄想 ( もうそう ) 嘔吐 ( おうと ) を催しながら、倉地といわずすべての男を ( のろ ) いに呪った。

 いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれをさほど恐ろしい事とは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、買って帰って読んだ 浩澣 ( こうかん ) な医書によって見ても、その手術は割合に簡単なものであるのを知り抜いていたから、その事については割合に 安々 ( やすやす ) とした心持ちでいる事ができた。ただ名状し ( がた ) い焦躁と悲哀とはどう片づけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分のまわりをさびしく見回してみた。出あうかぎりの男と女とが何がなしにひき着けられて、離れる事ができなくなる、そんな磁力のような力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置き 部屋 ( べや ) のような貧しい一室のすみっこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながらくずれかけた五体をたよりなく横たえねばならぬのだ。それは葉子に取ってはあるべき事とは思われぬまでだった。しかしそれが確かな事実であるのをどうしよう。

 それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。自分の病気が ( ) えきったその時を見ているがいい。どうして倉地をもう一度自分のものに 仕遂 ( しおお ) せるか、それを見ているがいい。

 葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を流しながら、 徒然 ( つれづれ ) なままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分もたたないうちに熱くぬれ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。