University of Virginia Library

    三四

 ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の ( もと ) には少しずつ ( こわ ) ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を ( ) えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には 絶巓 ( ぜってん ) のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は 小休 ( おや ) みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。

  竹柴館 ( たけしばかん ) の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと ( こう ) じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は 忘我渾沌 ( ぼうがこんとん ) の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な 蠱惑 ( こわく ) 物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に 娼婦 ( しょうふ ) 以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。 二人 ( ふたり ) は、はた目には 酸鼻 ( さんび ) だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに 淫楽 ( いんらく ) ( ) を互い互いから奪い合いながらずるずると ( こわ ) れこんで行くのだった。

 しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも 一縷 ( いちる ) の期待が潜んでいた。一度ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の 蠱惑 ( こわく ) に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめ[#「ひけめ」に傍点]として葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を 痴呆 ( ちほう ) のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って 有頂天 ( うちょうてん ) になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を 銷尽 ( しょうじん ) して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。

 とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。

 ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとり[#「うっとり」に傍点]と上気して ( すずめ ) の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。

 「だれでしょう」

 倉地は物 ( ) さそうに、

 「岡だろう」

 といった。

 「いゝえきっと正井さんよ」

 「なあに岡だ」

 「じゃ ( ) けよ」

 葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は 挨拶 ( あいさつ ) もろくろくしないでいきなり[#「いきなり」に傍点]岡の手をしっかり[#「しっかり」に傍点]と取った。そして小さな声で、

 「よくいらしってね。その 間着 ( あいぎ ) のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と ( ) けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」

 葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。

 「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて[#「あて」に傍点]事がお 上手 ( じょうず ) だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今 御褒美 ( ごほうび ) を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」

 そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその ( ほお ) に強い 接吻 ( せっぷん ) を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、

 「ばか!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」

 といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、

 「愛さん、 ( さあ ) ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」

 と澄んだ美しい声で 蓮葉 ( はすは ) に叫んだ。

 「そうお」

 という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。

 「 ( さあ ) ちゃんは今勉強が済んだのか」

 と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、

 「ええ今済んでよ」

 といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、

 「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」

 重苦しくいい出した。

 「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも……ねえ ( さあ ) ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」

 と葉子がいった。

 「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが 古藤 ( ことう ) さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか 億劫 ( おっくう ) ( たち ) なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。でわたし、きょうは水曜日だから、 用便 ( ようべん ) 外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」

 葉子は倉地だけに顔が見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、

 「いいわね」

 と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるり[#「くるり」に傍点]と岡のほうに向き直った。

 「ようございますとも(葉子はそのよう[#「よう」に傍点]にアクセントを付けた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに結構。 ( さあ ) ちゃんもいいでしょう。またもう 一人 ( ひとり ) お友だちがふえて……しかも珍しい兵隊さんのお友だち……」

 「愛ねえさんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」

 と貞世は遠慮なくいった。

 「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」

 と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのようにいった。

 岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。

 「いいでしょう。うまくやって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」

 玄関に送り出してそう葉子はいった。

 「どうかなあいつ、古藤のやつは少し 骨張 ( ほねば ) り過ぎてる……が悪かったら 元々 ( もともと ) だ……とにかくきょうおれのいないほうがよかろう」

 そういって倉地は出て行った。葉子は張り出しになっている六畳の 部屋 ( へや ) をきれいに片づけて、 火鉢 ( ひばち ) の中に ( こう ) をたきこめて、心静かに 目論見 ( もくろみ ) をめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる……。

 三十分ほどたったころ一つ ( ) の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。葉子は六畳にいて、貞世を取り次ぎに出した。

 「貞世さんだね。大きくなったね」

 まるで前の古藤の声とは思われぬようなおとなびた黒ずんだ声がして、がちゃ[#「がちゃ」に傍点]がちゃと 佩剣 ( はいけん ) を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような ( にお ) いをぷんぷんさせながら葉子のいる所にはいって来た。

 葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。

 「まあこれが古藤さん? なんてこわい ( かた ) になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお ( ひたい ) のお白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみ[#「がみ」に傍点]がみとしかったりなすっちゃいやです事よ。ほんとうにしばらく。もう 金輪際 ( こんりんざい ) 来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」

 といって葉子はそこにならんですわった 二人 ( ふたり ) の青年をかたみがわりに見やりながら軽く 挨拶 ( あいさつ ) した。

 「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸いていますわ」

 「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」

 古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を ( やわ ) らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの simpleton だと思った。

 「そうねえ 何時 ( なんじ ) まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」

 「はいらなかった前以上にきらいになりました」

 「岡さんはどうなさったの」

 「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……からだでも強くなったらわたし、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」

 「そんな事はありませんねえ」

 古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。

 「 ( ぼく ) もその 一人 ( ひとり ) だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいて見るとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活をしいられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」

 「なんですねお二人とも、妙な所で 謙遜 ( けんそん ) のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」

 「そうなら僕はきょうもここなんかには来やしません。木村君にもとうに決心をさせているはずなんです」

 葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身をむちうつように激しくこういった。葉子は何もかもわかっているくせにしら[#「しら」に傍点]を切って不思議そうな目つきをして見せた。

 「そうだ、思いきっていうだけの事はいってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」

 そういって古藤は葉子をしばらく熟視してからいい出す事をまとめようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子のほうをぬすみ見るようにした。葉子は ( まゆ ) 一つ動かさなかった。そしてそばにいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして 三縁亭 ( さんえんてい ) から 三皿 ( みさら ) ほどの料理を取り寄せるようにいいつけて座をはずさした。古藤はおどるようにして 部屋 ( へや ) を出て行く貞世をそっ[#「そっ」に傍点]と目のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔をあげた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。

 「僕はね……(そういっておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんな事はないとあなたはいうでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられるというのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんな事があるとすりゃそりゃしかたのない事なんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるっていうのは、あなたがそうなればなりそうな事だと、それがわかるっていうんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]といってやってください。そこなんだ僕のいわんとするのは。あなたは ( おこ ) るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんな事をしていたのはわるかったからお断わりをします(そういって古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいて見せた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約の事を申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分はだれの言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」

 「それで……」

 葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。

 「木村からは前からあなたの所に行ってよく事情を見てやってくれ、病気の事も心配でならないからといって来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは ( せん ) よりはやせましたね。そうして顔の色もよくありませんね」

 そういいながら古藤はじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の目を迎えて 鷹揚 ( おうよう ) にほほえんでいた。いうだけいわせてみよう、そう思って今度は岡のほうに目をやった。

 「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃる事をすっかり[#「すっかり」に傍点]お聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の 一人 ( ひとり ) のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、わたしをどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。決して御遠慮なく……わたしどんな事を伺っても決して決してなんとも思いはいたしませんから」

 それを聞くと岡はひどく当惑して顔をまっ ( ) にして処女のように 羞恥 ( はに ) かんだ。古藤のそばに岡を置いて見るのは、青銅の ( ) びんのそばに咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。

 「わたしこういう 事柄 ( ことがら ) には物をいう力はないように思いますから……」

 「そういわないでほんとうに思った事をいってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」

 そういって古藤も 肩章 ( けんしょう ) 越しに岡を顧みた。

 「ほんとうに何もいう事はないんですけれども……木村さんにはわたし口にいえないほど御同情しています。木村さんのようないい ( かた ) が今ごろどんなにひとりでさびしく思っていられるかと思いやっただけでわたしさびしくなってしまいます。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そうして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないようにわたし思います。そこで無理をしようとするとすべての事が悪くなるばかり……それはわたしだけの考えですけれども。わたしそう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係はわたし少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。わたしは自分自身が少しもわからないんですからお三人の事なども、わからない自分の、わからない想像だけの事だと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、わたし自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ちあけるような人を持っていませんでしたが……、ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それでわたしはうれしかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、その事も失礼ですけれども今の所ではわたし想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかの事はわたしなんとも自信をもっていう事ができません。そんな所まで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかもわたしわかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、わたし進んで物をいったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たない事をいってしまいまして……わたしやはり力がありませんから、何もいわなかったほうがよかったんですけれども……」

 そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。そのあとには沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。

 実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた ( こう ) のにおいがかすかに動くだけだった。

 「あんなに 謙遜 ( けんそん ) な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」

 葉子は美しい沈黙をがさつ[#「がさつ」に傍点]な手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、

 「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」

 「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」

 岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない青銅の ( ) びん一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。

 「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを保護していらっしゃるか御存じ?」

 古藤はすぐぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。

 「 ( ぼく ) は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」

 「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係のある事だとでもおっしゃるの」

 そういいながら葉子は少し気に ( ) えたらしく、炭取りを引き寄せて 火鉢 ( ひばち ) に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで 二人 ( ふたり ) の間にはじけた。

 「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかにするんですのよ」

 葉子はそう言い言い ( まゆ ) をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。

 「僕は乱暴なもんだから……いい過ぎがあったらほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には同情してしまうもんだから……僕はあなたも自分の立場さえはっきり[#「はっきり」に傍点]いってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。……僕はあまり直線的すぎるんでしょうか。僕は世の中を sun-clear に見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」

 葉子はなでるような好意のほほえみを見せた。

 「あなたがわたしほんとうにうらやましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになって 素直 ( すなお ) になんでも御覧になれるのはありがたい事なんですわ。そんな ( かた ) ばかりが世の中にいらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、岡さんなんかはそれから見るとほんとうにお気の毒なんですの。わたしみたいなものをさえああしてたよりにしていらっしゃるのを見るといじらしくってきょうは倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。…… 他人事 ( ひとごと ) じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。あなたと同様はき[#「はき」に傍点]はきした事の好きなわたしがこんなに 意地 ( いじ ) をこじらしたり、人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、それを考えてごらんになってちょうだい。あなたには今はおわかりにならないかもしれませんけれども……それにしてももう五時。愛子に手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやってくださいまし、ね、いいでしょう」

 古藤は急に固くなった。

 「 ( ぼく ) は帰ります。僕は木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]した報告もできないうちに、こちらで御飯をいただいたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕はほんとうをいうと遠くに離れてあなたを見ているとどうしてもきらいになっちまうんですが、こうやってお話ししていると失礼な事をいったり自分で ( おこ ) ったりしながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと思いますよ。 来世 ( らいせ ) があろうが 過去世 ( かこせ ) があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」

 古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電灯が急に 部屋 ( へや ) を明るくした。

 「あなたはほんとうにどこか悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは御免をこうむります。さようなら」

  牝鹿 ( めじか ) のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの 素朴 ( そぼく ) な青年になつかし味を感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、

 「愛さん ( さあ ) ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」

 と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に照り返しをつけて置いてあるランプの光をまとも[#「まとも」に傍点]に受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅いられたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿にながめ入った。愛子はにこり[#「にこり」に傍点]と左の口じりに ( ) くぼの出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど ( ひざ ) を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には 羞恥 ( しゅうち ) らしいものは少しも現われなかった。

 「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。 ( さあ ) ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」

 葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。

 葉子は倉地をも呼び迎えさせた。

 十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について ( はし ) を取ろうとする所に倉地がはいって来た。

 「さあいらっしゃいまし、今夜はにぎやかですのよ。ここへどうぞ(そう云って古藤の隣の座を目で示した)。倉地さん、この ( かた ) がいつもおうわさをする木村の親友の古藤義一さんです。きょう珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さんです」

 紹介された倉地は心置きない態度で古藤のそばにすわりながら、

 「わたしはたしか 双鶴館 ( そうかくかん ) でちょっとお目にかかったように思うが 御挨拶 ( ごあいさつ ) もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」

 といった。古藤は正面から倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらちょっと頭を下げたきり物もいわなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、 ( にが ) りきって顔を正面に直したが、しいて努力するように 笑顔 ( えがお ) を作ってもう一度古藤を顧みた。

 「あの時からすると見違えるように変わられましたな。わたしも 日清 ( にっしん ) 戦争の時は半分軍人のような生活をしたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しい事もたまにはおありだろうな」

 古藤は食卓を見やったまま、

 「えゝ」

 とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく ( しら ) け渡った。葉子の手慣れたtactでもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。

 「このサラダは愛ねえさんがお ( ) とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」

 愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、

 「 ( さあ ) ちゃんはひどい」

 といった。貞世は平気だった。

 「その代わりわたしがまたお ( ) をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお ( ) も入れればよかってねえ、愛ねえさん」

 みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。

 やがて古藤が突然 ( はし ) をおいた。

 「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」

 葉子はあわてて、

 「まあそんな事はちっとも[#「ちっとも」に傍点]ありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」

 ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は ( くつ ) をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっ[#「じっ」に傍点]と見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。

 「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」

 そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点] ( ) った軍隊式の立礼をして、さくさくと 砂利 ( じゃり ) の上に ( くつ ) の音を立てながら、 夕闇 ( ゆうやみ ) の催した 杉森 ( すぎもり ) の下道のほうへと消えて行った。

 見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。