University of Virginia Library

    三七

 天心に近くぽつり[#「ぽつり」に傍点]と一つ白くわき出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建て物のほかには見渡すかぎり古く ( ) びれた 鎌倉 ( かまくら ) 谷々 ( やとやと ) にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち 椿 ( つばき ) 一重 ( ひとえ ) 桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには 紅味 ( あかみ ) を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない 雑木 ( ぞうき ) までが美しかった。 ( かわず ) の声が眠く 田圃 ( たんぼ ) のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の 雑鬧 ( ざっとう ) もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は ( えり ) にさして 先達 ( せんだつ ) らしいのが紫の 小旗 ( こばた ) を持った、遠い所から春を ( ) って ( ) めぐって来たらしい 田舎 ( いなか ) の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやか[#「しめやか」に傍点]に話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。

 倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって見えた。二人は停車場の付近にある ( ) る小ぎれいな旅館を兼ねた料理屋で 中食 ( ちゅうじき ) をしたためた。 日朝 ( にっちょう ) 様ともどんぶく[#「どんぶく」に傍点]様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の 祈祷 ( きとう ) だという 団扇 ( うちわ ) 太鼓の音がどんぶく[#「どんぶく」に傍点]どんぶくと単調に聞こえるような所だった。東のほうはその名さながらの 屏風山 ( びょうぶやま ) が若葉で花よりも美しく装われて ( かす ) んでいた。短く美しく刈り込まれた 芝生 ( しばふ ) の芝はまだ ( ) えていなかったが、所まばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、 八重 ( やえ ) 桜はのぼせたように花でうなだれていた。もう ( あわせ ) 一枚になって、そこに食べ物を運んで来る女中は 襟前 ( えりまえ ) をくつろげながら夏が来たようだといって笑ったりした。

 「ここはいいわ。きょうはここで 宿 ( とま ) りましょう」

 葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに ( ) らないものを預けて、 ( ) ( しま ) のほうまで車を走らした。

 帰りには 極楽寺 ( ごくらくじ ) 坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は 稲村 ( いなむら ) ( さき ) のほうに傾いて砂浜はやや暮れ ( ) めていた。 小坪 ( こつぼ ) の鼻の ( がけ ) の上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その ( がけ ) 下の民家からは炊煙が 夕靄 ( ゆうもや ) と一緒になって海のほうにたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の 吾妻下駄 ( あづまげた ) の歯を吸った。 二人 ( ふたり ) は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出あったが、葉子は自分の 容貌 ( ようぼう ) なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ちまさっているのを意識して、軽い誇りと落ち付きを感じていた。倉地もそういう女を自分の 伴侶 ( はんりょ ) とするのをあながち 無頓着 ( むとんじゃく ) には思わぬらしかった。

 「だれかひょん[#「ひょん」に傍点]な人にあうだろうと思っていましたがうまくだれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで行きましょうね。そうして 光明寺 ( こうみょうじ ) の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお ( なか ) がいい ( ) き具合になるわ」

 倉地はなんとも答えなかったが、無論承知でいるらしかった。葉子はふと海のほうを見て倉地にまた口をきった。

 「あれは海ね」

 「仰せのとおり」

 倉地は葉子が時々 途轍 ( とてつ ) もなくわかりきった事を少女みたいな無邪気さでいう、またそれが始まったというように渋そうな笑いを 片頬 ( かたほ ) に浮かべて見せた。

 「わたしもう一度あのまっただなかに乗り出してみたい」

 「してどうするのだい」

 倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながらいった。

 「ただ乗り出してみたいの。どーっと見さかいもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、ひっくりかえりそうになっては立て直って切り抜けて行くあの船の上の事を思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗ってみたくなりますわ。こんな所いやねえ、住んでみると」

 そういって葉子はパラソルを開いたまま ( ) の先で白い砂をざくざくと刺し通した。

 「あの寒い晩の事、わたしが 甲板 ( かんぱん ) の上で考え込んでいた時、あなたが ( ) をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時の事などをわたしはわけもなく思い出しますわ。あの時わたしは海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。 ( おか ) の上にはあんな音楽は聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい……あれは何?」

 「なんだそれは」

 倉地は 怪訝 ( けげん ) な顔をして葉子を振り返った。

 「あの声」

 「どの」

 「海の声……人を呼ぶような……お互いで呼び合うような」

 「なんにも聞こえやせんじゃないか」

 「その時聞いたのよ……こんな浅い所では何が聞こえますものか」

 「おれは長年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いた事はないわ」

 「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。……確かに聞こえましたよ、あの晩に……それは気味の悪いような物すごいような……いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった……その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、銘々死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの……どこかで今でもその声が聞こえるようよ」

 「木村がやっているのだろう」

 そういって倉地は 高々 ( たかだか ) と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海のほうをながめやった。目も届かないような遠くのほうに、 大島 ( おおしま ) が山の腰から下は 夕靄 ( ゆうもや ) にぼかされてなくなって、上のほうだけがへ[#「へ」に白丸傍点]の字を描いてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と空に浮かんでいた。

  二人 ( ふたり ) はいつか 滑川 ( なめりがわ ) の川口の所まで来着いていた。 稲瀬川 ( いなせがわ ) を渡る時、倉地は、横浜 埠頭 ( ふとう ) で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを ( おど ) り越してしまったが、滑川のほうはそうは行かなかった。二人は川幅の狭そうな所を尋ねてだんだん上流のほうに流れに沿うてのぼって行ったが、川幅は広くなって行くばかりだった。

 「めんどうくさい、帰りましょうか」

 大きな事をいいながら、光明寺までには半分道も ( ) ないうちに、 下駄 ( げた ) 全体がめいりこむような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこういい出した。

 「あすこに橋が見える。とにかくあすこまで行ってみようや」

 倉地はそういって海岸線に沿うてむっくり[#「むっくり」に傍点] ( ) れ上がった 砂丘 ( さきゅう ) のほうに続く砂道をのぼり始めた。葉子は倉地に手を引かれて 息気 ( いき ) をせいせいいわせながら、筋肉が 強直 ( きょうちょく ) するように疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり[#「はっきり」に傍点]思わせられるようなそれは疲れかただった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。

 「ちょっと待って 弁慶蟹 ( べんけいがに ) を踏みつけそうで歩けやしませんわ」

 そう葉子は申しわけらしくいって幾度か足をとめた。実際そのへんには ( あか ) 甲良 ( こうら ) を背負った小さな ( かに ) がいかめし[#「いかめし」に傍点]い ( はさみ ) を上げて、ざわざわと音を立てるほどおびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。

  砂丘 ( さきゅう ) をのぼりきると 材木座 ( ざいもくざ ) のほうに続く道路に出た。葉子はどうも不思議な心持ちで、浜から見えていた 乱橋 ( みだればし ) のほうに行く気になれなかった。しかし倉地がどんどんそっち[#「そっち」に傍点]に向いて歩き出すので、少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ[#「もつれ」に傍点]合って 人気 ( ひとけ ) のないその橋の上まで来てしまった。

 橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の ( ばあ ) さんが ( よし ) で囲った薄暗い 小部屋 ( こべや ) の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。

 橋の上から見ると、 滑川 ( なめりがわ ) の水は軽く薄濁って、まだ芽を吹かない両岸の枯れ ( あし ) の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに行くと吸い込まれたように砂の ( ) れ上がった後ろに隠れて、またその先に光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海べの波の中に溶けこむように注いでいた。

 ふと葉子は目の下の枯れ ( あし ) の中に動くものがあるのに気が付いて見ると、大きな 麦桿 ( むぎわら ) の海水帽をかぶって、 ( くい ) に腰かけて、 ( ) 竿 ( ざお ) を握った男が、帽子の ( ひさし ) の下から目を光らして葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめているのだった。葉子は何の気なしにその男の顔をながめた。

  木部孤※ ( きべこきょう )

[_]
[12]
だった。

 帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年がいっていた。そして服装からも、様子からも、 落魄 ( らくはく ) というような一種の気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、 ( ) 竿 ( ざお ) の先は不注意にも水に浸って、釣り糸が女の髪の毛を流したように水に浮いて軽く震えていた。

 さすがの葉子も胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせて思わず身を 退 ( しざ ) らせた。「おーい、おい、おい、おい、おーい」……それがその瞬間に耳の底をすーっ[#「すーっ」に傍点]と通ってすーっ[#「すーっ」に傍点]と行くえも知らず過ぎ去った。 ( ) ( ) ずと倉地をうかがうと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで目いっぱいにながめていた。

 「帰りましょう」

 葉子の声は震えていた。倉地はなんの気なしに葉子を顧みたが、

 「寒くでもなったか、口びるが白いぞ」

 といいながら欄干を離れた。 二人 ( ふたり ) がその男に後ろを見せて五六歩歩み出すと、

 「ちょっとお待ちください」

 という声が橋の下から聞こえた。倉地は始めてそこに人のいたのに気が付いて、 ( まゆ ) をひそめながら振り返った。ざわざわと ( あし ) を分けながら小道を登って来る足音がして、ひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]目の前に木部の姿が現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを充分にしてしまっていた。

 木部は少しばか丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に向いて、

 「不思議な所でお目にかかりましたね、しばらく」

 といった。一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかもしれないとあやぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、不安も感じた。木部はどうかすると居直るような事をしかねない男だと葉子は兼ねて思っていたからだ。しかし木部という事を先方からいい出すまでは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、

 「こんな所でお目にかかろうとは……わたしもほんとうに驚いてしまいました。でもまあほんとうにお珍しい……ただいまこちらのほうにお住まいでございますの?」

 「住まうというほどもない……くすぶり[#「くすぶり」に傍点]こんでいますよハヽヽヽ」

 と木部はうつろに笑って、 ( つば ) の広い帽子を書生っぽらしく 阿弥陀 ( あみだ ) にかぶった。と思うとまた急いで取って、

 「あんな所からいきなり[#「いきなり」に傍点]飛び出して来てこうなれなれしく 早月 ( さつき ) さんにお話をしかけて変にお思いでしょうが、僕は下らんやくざ[#「やくざ」に傍点]者で、それでも元は早月家にはいろいろ 御厄介 ( ごやっかい ) になった男です。申し上げるほどの名もありませんから、まあ御覧のとおりのやつです。……どちらにおいでです」

 と倉地に向いていった。その小さな目には ( すぐ ) れた才気と、 ( ) けぎらいらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい ( あご ) ひげと、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特長は見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、自分の名を名乗る事はもとよりせずに、軽く帽子を取って見せただけだった。そして、

 「光明寺のほうへでも行ってみようかと思ったのだが、川が渡れんで……この橋を行っても行かれますだろう」

 三人は橋のほうを振り返った。まっすぐな 土堤道 ( どてみち ) が白く山のきわまで続いていた。

 「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。 防風草 ( ぼうふ ) でも摘みながらいらっしゃい。川も渡れます、御案内しましょう」

 といった。葉子は 一時 ( いっとき ) も早く木部からのがれたくもあったが、同時にしんみり[#「しんみり」に傍点]と一別以来の事などを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中であってこれが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっ[#「ずっ」に傍点]とさばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと窮迫しているのを思わせると、葉子は 親身 ( しんみ ) な同情にそそられるのを拒む事ができなかった。

 倉地は四五歩 先立 ( さきだ ) って、そのあとから葉子と木部とは間を隔てて並びながら、また弁慶 ( がに ) のうざうざいる砂道を浜のほうに降りて行った。

 「あなたの事はたいていうわさや新聞で知っていましたよ……人間てものはおかしなもんですね。……わたしはあれから 落伍者 ( らくごしゃ ) です。何をしてみても成り立った事はありません。妻も子供も ( さと ) に返してしまって今は 一人 ( ひとり ) でここに放浪しています。毎日 ( ) りをやってね……ああやって水の流れを見ていると、それでも晩飯の酒の ( さかな ) ぐらいなものは釣れて来ますよハヽヽヽヽ」

 木部はまたうつろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでも答えたように急に黙ってしまった。砂に食い込む 二人 ( ふたり ) 下駄 ( げた ) の音だけが聞こえた。

 「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。ついこの間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を ( うず ) めておいて、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]とやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いになりましてね……そいつの 人生観 ( ライフ・フィロソフィー ) がばかにおもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒をのんで運命論を吐くんです。まるで 仙人 ( せんにん ) ですよ」

 倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。笑いばかりでなく、すべてにうつろな感じがするほど無感情に見えた。

 「あなたはほんとうに今何をなさっていらっしゃいますの」

 と葉子は少し木部に近よって尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠のいてまたうつろに笑った。

 「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。……もう春も末になりましたね」

  途轍 ( とてつ ) もない言葉をしいてくっ付けて木部はそのよく光る目で葉子を見た。そしてすぐその目を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。

 「わたしあなたとゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話がしてみたいと思いますが……」

 こう葉子はしんみり[#「しんみり」に傍点]ぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。

 「そう……それもおもしろいかな。……わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハヽヽヽ(葉子がその言葉につけ入って何かいおうとするのを木部は 悠々 ( ゆうゆう ) とおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが 大島 ( おおしま ) です。ぽつん[#「ぽつん」に傍点]と一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って 伊豆 ( いず ) の先の離れ島です、あれがわたしの ( ) りをする所から正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっ[#「ぽーっ」に傍点]と見える事もありますよ」

 また言葉がぽつん[#「ぽつん」に傍点]と切れて沈黙が続いた。 下駄 ( げた ) の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえ出した。葉子はただただ胸が ( せつ ) なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]木部にあいたい気になっていた。

 「木部さん……あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。……けれどもわたしあなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は……」

 「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハヽヽヽヽ」

 「それはあんまりなおっしゃりかたですわ」

 葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこういってみた。

 「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハヽヽヽヽ」

 木部はまたうつろに笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。

 倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっち[#「こっち」に傍点]を振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。

 「どれお 二人 ( ふたり ) に橋渡しをして上げましょうかな」

 そういって木部は川べの ( あし ) を分けてしばらく姿を隠していたが、やがて小さな 田舟 ( たぶね ) に乗って 竿 ( さお ) をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。

 「あなた釣り 竿 ( ざお ) は」

 「釣り竿ですか……釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」

 そう ( こた ) えて案外 上手 ( じょうず ) に舟を ( ) いだ。倉地は行き過ぎただけを ( いそ ) いで取って返して来た。そして三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わずわきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいちはやく岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力をこめたためか、木部の手が舟を ( ) いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みにはげしく震えた。

 「やっ、どうもありがとう」

 倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼をいった。

 木部は舟からは上がらなかった。そして 鍔広 ( つばびろ ) の帽子を取って、

 「それじゃこれでお別れします」

 といった。

 「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」

 と付け加えた。

 三人は相当の 挨拶 ( あいさつ ) を取りかわして別れた。一 ( ちょう ) ほど来てから急に行く手が明るくなったので、見ると光明寺裏の山の ( ) に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を 葦間 ( あしま ) ( ) ぎ返して行く姿が影絵のように黒くながめられた。葉子は白 琥珀 ( こはく ) のパラソルをぱっ[#「ぱっ」に傍点]と開いて、倉地にはいたずら[#「いたずら」に傍点]に見えるように振り動かした。

 三四 ( ちょう ) 来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。

 「あれはいったいだれだ」

 「だれだっていいじゃありませんか」

 暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく 疳走 ( かんばし ) っていた。

 「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」

 「えゝ、そのとおり……あんな 乞食 ( こじき ) みたいな見っともない恋人を持った事があるのよ」

 「さすがはお前だよ」

 「だから 愛想 ( あいそ ) が尽きたでしょう」

 突如としてまたいいようのないさびしさ、 ( かな ) しさ、くやしさが暴風のように襲って来た。また来たと思ってもそれはもうおそかった。砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。

 その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。そこに来て働く女中たちを 一人 ( ひとり ) 一人 突慳貪 ( つっけんどん ) にきびしくたしなめた。しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいといわんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。

 春の夜はただ、事もなくしめやか[#「しめやか」に傍点]にふけて行った。遠くから聞こえて来る ( かわず ) の鳴き声のほかには、 日勝 ( にっしょう ) 様の森あたりでなくらしい ( ふくろう ) の声がするばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には人をばかにしきったような、それでいて聞くに ( ) えないほどさびしい響きが潜んでいた。ほう、ほう……ほう、ほうほうと 間遠 ( まどお ) に単調に同じ木の枝と思わしい所から聞こえていた。人々が寝しずまってみると、 憤怒 ( ふんぬ ) の情はいつか消え果てて、いいようのない 寂寞 ( せきばく ) がそのあとに残った。

 葉子のする事いう事は一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするばかりだった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに振る舞った結果、倉地には不快きわまる失望を与えたに違いない。こうしたままで日がたつに従って、倉地は 否応 ( いやおう ) なしにさらに新しい性的興味の対象を求めるようになるのは目前の事だ。現に愛子はその候補者の一人として倉地の目には映り始めているのではないか。葉子は倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし倉地を手なずけるためにはあの道をえらぶよりしかたがなかったようにも思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った自分の性格に欠点があるのだ。……そこまで理屈らしく理屈をたどって来てみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほどいやな者に見えた。

 「なぜわたしは木部を捨て木村を苦しめなければならないのだろう。なぜ木部を捨てた時にわたしは心に望んでいるような道をまっしぐらに進んで行く事ができなかったのだろう。わたしを木村にしいて押し付けた 五十川 ( いそがわ ) のおばさんは悪い……わたしの恨みはどうしても消えるものか。……といっておめおめとその策略に乗ってしまったわたしはなんというふがいない女だったのだろう。倉地にだけはわたしは失望したくないと思った。今までのすべての失望をあの人で全部取り返してまだ余りきるような喜びを持とうとしたのだった。わたしは倉地とは離れてはいられない人間だと確かに信じていた。そしてわたしの持ってるすべてを……醜いもののすべてをも倉地に与えて悲しいとも思わなかったのだ。わたしは自分の命を倉地の胸にたたきつけた。それだのに今は何が残っている……何が残っている……。今夜かぎりわたしは倉地に見放されるのだ。この 部屋 ( へや ) を出て行ってしまった時の冷淡な倉地の顔!……わたしは行こう。これから行って倉地にわびよう、 奴隷 ( どれい ) のように畳に頭をこすり付けてわびよう……そうだ。……しかし倉地が冷刻な顔をしてわたしの心を見も返らなかったら……わたしは生きてる間にそんな倉地の顔を見る勇気はない。……木部にわびようか……木部は居所さえ知らそうとはしないのだもの……」

 葉子はやせた肩を痛ましく震わして、倉地から絶縁されてしまったもののように、さびしく ( かな ) しく涙の枯れるかと思うまで泣くのだった。静まりきった夜の空気の中に、時々鼻をかみながらすすり上げすすり上げ泣き伏す痛ましい声だけが聞こえた。葉子は自分の声につまされてなおさら悲哀から悲哀のどん底に沈んで行った。

 ややしばらくしてから葉子は決心するように、手近にあった 硯箱 ( すずりばこ ) 料紙 ( りょうし ) とを引き寄せた。そして震える手先をしいて繰りながら簡単な手紙を 乳母 ( うば ) にあてて書いた。それには乳母とも定子とも断然縁を切るから以後他人と思ってくれ。もし自分が死んだらここに同封する手紙を木部の所に持って行くがいい。木部はきっとどうしてでも定子を養ってくれるだろうからという意味だけを書いた。そして木部あての手紙には、

[#ここから1字下げ]

 「定子はあなたの子です。その顔を 一目 ( ひとめ ) 御覧になったらすぐおわかりになります。わたしは今まで 意地 ( いじ ) からも定子はわたし 一人 ( ひとり ) の子でわたし一人のものとするつもりでいました。けれどもわたしが世にないものとなった今は、あなたはもうわたしの罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。

    葉子の死んだ後

                             あわれなる定子のママより

   定子のおとう様へ」

[#ここで字下げ終わり]

 と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったらためて置いた預金の全部を引き出してそれを 為替 ( かわせ ) にして同封するために封を閉じなかった。

 最後の犠牲……今までとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]捨て兼ねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に ( もど ) って来るかもしれない。葉子は荒神に最愛のものを 生牲 ( いけにえ ) として願いをきいてもらおうとする 太古 ( たいこ ) の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の目からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。

 「どうか、どうか、……どうーか」

 葉子はだれにともなく手を合わして、一心に念じておいて、 雄々 ( おお ) しく涙を押しぬぐうと、そっと座を立って、倉地の寝ているほうへと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた ( りん ) の燃えたようなその光の中を、やせ細っていっそう背たけの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと[#「そっと」に傍点]倉地の部屋の ( ふすま ) を開いて中にはいった。薄暗くともった 有明 ( ありあ ) けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっ[#「そっ」に傍点]とその ( まくら ) もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。

 葉子の目にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に涙がわくようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった口びるはわれにもなくわなわなと震えて来た。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の目にたまった涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪郭がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けないかわいそうな事だろう。そう葉子はしみじみと思った。

 だんだん葉子の涙はすすり泣きにかわって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうにうめき声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として 息気 ( いき ) をつめた。

 しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床のそばにきちん[#「きちん」に傍点]とすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。