University of Virginia Library

    四三

 その夜おそくまで岡はほんとうに 忠実 ( まめ ) やかに貞世の病床に付き添って世話をしてくれた。 口少 ( くちずく ) なにしとやか[#「しとやか」に傍点]によく気をつけて、貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで 氷嚢 ( ひょうのう ) を取りかえたり、熱を計ったりした。

 高熱のために貞世の意識はだんだん 不明瞭 ( ふめいりょう ) になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっ[#「そっ」に傍点]と向きをかえて ( ) かしてから、「さあもうお ( うち ) ですよ」というと、うれしそうに 笑顔 ( えがお ) をもらしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした 拍子 ( ひょうし ) に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き ( なが ) らえていられよう。貞世をこんな苦しみにおとしいれたものはみんな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい……そう思って来ると葉子はだれにわびようもない苦悩に 息気 ( いき ) づまった。

 緑色の 風呂敷 ( ふろしき ) で包んだ電燈の下に、 氷嚢 ( ひょうのう ) を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い 息気 ( いき ) づかいで 夢現 ( ゆめうつつ ) の間をさまようらしく、聞きとれない 囈言 ( うわごと ) を時々口走りながら、眠っていた。岡は 部屋 ( へや ) のすみのほうにつつましく突っ立ったまま、緑色をすかして来る電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっ[#「じっ」に傍点]と貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く 椅子 ( いす ) を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます ( おも ) るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず 氷嚢 ( ひょうのう ) の位置を取りかえてやったりなどしていた。

 そして短い夜はだんだんにふけて行った。葉子の目からは絶えず涙がはふり落ちた。倉地と思いもかけない別れかたをしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。

 と、ふっ[#「ふっ」に傍点]と葉子は 山内 ( さんない ) の家のありさまを想像に浮かべた。玄関わきの六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強 部屋 ( べや ) ででもあろうか、この夜ふけを下宿から送られた老女が寝入ったあと、倉地と愛子とが話し続けているような事はないか。あの不思議に心の裏を決して他人に見せた事のない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか[#「したたか」に傍点]者だ。愛子は骨に徹する 怨恨 ( えんこん ) を葉子に対していだいている。その愛子が葉子に対して 復讐 ( ふくしゅう ) の機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったとだれが保証し得よう。そんな事はとうの昔に行なわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を……太陽が消えてなくなったような寒さと ( やみ ) とが葉子の心におおいかぶさって来た。愛子 一人 ( ひとり ) ぐらいを指の間に握りつぶす事ができないと思っているのか……見ているがいい。葉子はいらだちきって 毒蛇 ( どくじゃ ) のような殺気だった心になった。そして静かに岡のほうを顧みた。

 何か遠いほうの物でも見つめているように少しぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した目つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、そのほうに 素早 ( すばや ) く目を転じたが、その物すごい 不気味 ( ぶきみ ) さに 脊髄 ( せきずい ) まで襲われたふうで、顔色をかえて目をたじろがした。

 「岡さん。わたし一生のお頼み……これからすぐ 山内 ( さんない ) の家まで行ってください。そして不用な荷物は今夜のうちにみんな倉地さんの下宿に送り返してしまって、わたしと愛子のふだん 使 ( づか ) いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子にいいつけてください。もし倉地さんが家に来ていたら、わたしから確かに返したといってこれを渡してください(そういって葉子は 懐紙 ( ふところがみ ) に拾円紙幣の束を包んで渡した)。いつまでかかっても構わないから今夜のうちにね。お頼みを聞いてくださって?」

 なんでも葉子のいう事なら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた葉子の言葉には当惑して見えた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの陰から戸外をすかして見て、ポケットから 巧緻 ( こうち ) な浮き彫りを施した金時計を取り出して時間を読んだりした。そして少し 躊躇 ( ちゅうちょ ) するように、

 「それは少し無理だとわたし、思いますが……あれだけの荷物を片づけるのは……」

 「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのは何かもしれませんわね。じゃ構わないから置き手紙を ( ばあ ) やというのに渡しておいてくださいまし。そして婆やにいいつけてあすでも倉地さんの所に運ばしてくださいまし。それなら何もいさくさ[#「いさくさ」に傍点]はないでしょう。それでもおいや? いかが?……ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなにおそくまでお引きとめしておいて、 又候 ( またぞろ ) めんどうなお願いをしようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。…… ( さあ ) ちゃんなんでもないのよ。わたし今岡さんとお話ししていたんですよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに ( こわ ) い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて 囈言 ( うわごと ) を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。わたし車屋をやりますから……」

 「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」

 「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」

 「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」

 「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」

 こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事になってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと思った葉子は、病院に泊まるものと ( たか ) をくくっていた岡が突然 真夜中 ( まよなか ) に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの 狼狽 ( ろうばい ) をさせるにしても快い事だと思っていた。葉子は宿直 部屋 ( べや ) に行って、しだらなく 睡入 ( ねい ) った当番の看護婦を呼び起こして 人力車 ( じんりきしゃ ) を頼ました。

 岡は思い入った様子でそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の ( まくら ) もとにおいて出て行った。

 しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締まりする音が響いて、そのあとはひっそりと夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が 間遠 ( まどお ) に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。

 葉子はただ 一人 ( ひとり ) いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、 睡気 ( ねむけ ) というものは少しも襲って来なかった。 重石 ( おもし ) をつり下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめり[#「めり」に傍点]めり音がするかと思うほど固く凝り、頭の ( しん ) は絶え間なくぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と 疳癪 ( かんしゃく ) とがこんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそり[#「げっそり」に傍点]と肉がこけて、目のまわりの青黒い ( かさ ) は、さらぬだに大きい目をことさらにぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。

 葉子は貞世の寝息をうかがっていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電灯のほうに振り向けてじっと自分を映して見た。おびただしい毎日の抜け毛で額ぎわの著しく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと ( ほお ) のこけたのがさほどに目立たないけれども、 ( あご ) を引いて 下俯 ( したうつむ ) きになると、口と耳との間には縦に大きな ( みぞ ) のような ( くぼ ) みができて、 下顎骨 ( かがくこつ ) が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れて来て、自分の意識でしいて 矯正 ( きょうせい ) するために、やせた顔もさほどとは思われなくなり出すが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑い出した。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かにだれか見も知らぬ人の顔だ。苦痛にしいたげられ、悪意にゆがめられ、 煩悩 ( ぼんのう ) のために支離滅裂になった 亡者 ( もうじゃ ) の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身ぶるいしながら思わず鏡を手から落とした。

 金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世はまっ ( ) に充血して熱のこもった目をまんじり[#「まんじり」に傍点]と開いて、さも不思議そうに 中有 ( ちゅうう ) を見やっていた。

 「愛ねえさん……遠くでピストルの音がしたようよ」

 はっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういったので、葉子が顔を近寄せて何かいおうとすると 昏々 ( こんこん ) としてたわいもなくまた眠りにおちいるのだった。貞世の眠るのと共に、なんともいえない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。 部屋 ( へや ) の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。目の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に倒れてこわれてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに広がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の目と口のまわりに集まっていた。そこには死が ( うじ ) のようににょろ[#「にょろ」に傍点]にょろとうごめいているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーン[#「シーン」に傍点]と冷え通って ( ) えきった寒さがぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと四 ( ) を震わした。

 その時宿直室の掛け時計が遠くのほうで一時を打った。

 もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駆け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳をそばだてた。宿直室のほうから看護婦が 草履 ( ぞうり ) をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]と 息気 ( いき ) をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の 氷嚢 ( ひょうのう ) の溶け具合をしらべて見たり、 掻巻 ( かいまき ) を整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっ[#「ぎらっ」に傍点]と光る 貝殻 ( かいがら ) のように、床の上で影の中に物すごく横たわっている鏡を取り上げてふところに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の足音に耳を澄ましながらまた考え続けた。

 今度は 山内 ( さんない ) の家のありさまがさながらまざまざと目に見るように想像された。岡が夜ふけにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の 言伝 ( ことづ ) てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子の出来心をののしったに違いない。倉地と岡との間には 暗々裡 ( あんあんり ) に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上にたたきつける倉地の 威丈高 ( いたけだか ) な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで 他人事 ( ひとごと ) のように 二人 ( ふたり ) の間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を伏し目ながらに見守る愛子の一種の毒々しい 妖艶 ( ようえん ) さ。そういう姿がさながら目の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように興奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんともいえない 嫌悪 ( けんお ) の情をもってのほかにはその場面を想像する事ができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中にくずれ込んでしまうのに、目前の 貪婪 ( どんらん ) に心火の限りを燃やして、 餓鬼 ( がき ) 同様に命をかみ合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの 種子 ( たね ) をまいたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら 蛆虫 ( うじむし ) のようにきたなく見えた。……何のために今まであってないような 妄執 ( もうしゅう ) に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていた事か。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられ出した。葉子はすべてのもののむなしさにあきれたような目をあげて今さららしく 部屋 ( へや ) の中をながめ回した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の ( まくら ) もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が 神々 ( こうごう ) しいものにさえ見えた。葉子は祈るようなわびるような心でしみじみと貞世を見入った。

 やがて看護婦が貞世の 部屋 ( へや ) にはいって来た。形式一ぺんのお辞儀を ( ねむ ) そうにして、寝台のそばに近寄ると、 無頓着 ( むとんじゃく ) なふうに葉子が入れておいた検温器を出して ( ) にすかして見てから、胸の 氷嚢 ( ひょうのう ) を取りかえにかかった。葉子は自分 一人 ( ひとり ) の手でそんな事をしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。

 「 ( さあ ) ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」

 とやさしくいうと、 囈言 ( うわごと ) をいい続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、 痛々 ( いたいた ) しいまで大きくなった目を開いて、まじ[#「まじ」に傍点]まじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。

 「おねえ様なの……いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ……いやおねえ様、病院いや帰る帰る……おかあ様おかあ様(そういってきょろ[#「きょろ」に傍点]きょろとあたりを見回しながら)帰らしてちょうだいよう。お ( うち ) に早く、おかあ様のいるお ( うち ) に早く……」

 葉子は思わず 毛孔 ( けあな ) が一本一本 逆立 ( さかだ ) つほどの 寒気 ( さむけ ) を感じた。かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を聞くと、その部屋のどこかにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っている母が感ぜられるように思えた。その母の所に貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい 骨肉 ( こつにく ) の執着だろう。

 看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしん[#「しん」に傍点]となってしまった。なんともいえず 可憐 ( かれん ) な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる ( あま ) だれの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつら[#「うつら」に傍点]うつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。

 と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の ( わだち ) の音を聞いたように思った。もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は 愕然 ( がくぜん ) として夢からさめた人のようにきっ[#「きっ」に傍点]となってさらに耳をそばだてた。

 もうそこには死生を 瞑想 ( めいそう ) して自分の 妄執 ( もうしゅう ) のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で 容子 ( ようす ) を整えた。 衣紋 ( えもん ) もなおした。そしてまたじっ[#「じっ」に傍点]と玄関のほうに聞き耳を立てた。

 はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。しばらく廊下がごた[#「ごた」に傍点]ごたする様子だったが、やがて二三人の足音が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやか[#「しめやか」に傍点]に開かれた。葉子はそのしめやか[#「しめやか」に傍点]さでそれは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと 挨拶 ( あいさつ ) しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の目は知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏し目になった愛子の ( おもて ) に激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。小羊のようにまつ毛の長いやさしい愛子の目はしかし不思議にも葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐいらいらして、何事もあばかないではおくものかと心の中で自分自身に 誓言 ( せいごん ) を立てながら、

 「倉地さんは」

 と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な目をはじめてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子のほうに向けて、貞世のほうにそれをそらしながら、また葉子をぬすみ見るようにした。そして倉地さんがどうしたというのか意味が読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。 生意気 ( なまいき ) をしてみるがいい……葉子はいらだっていた。

 「おじさんも一緒にいらしったかいというんだよ」

 「いゝえ」

 愛子は 無愛想 ( ぶあいそ ) なほど無表情に 一言 ( ひとこと ) そう答えた。 二人 ( ふたり ) の間にはむずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえいってやらなかった。一日一日と美しくなって行くような愛子は 小肥 ( こぶと ) りなからだをつつましく整えて静かに立っていた。

 そこに岡が小道具を両手に下げて玄関のほうから帰って来た。 外套 ( がいとう ) をびっしょり[#「びっしょり」に傍点]雨にぬらしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の 挨拶 ( あいさつ ) もせずに、岡が道具を 部屋 ( へや ) のすみにおくや否や、

 「倉地さんは何かいっていまして?」

 と ( けん ) を言葉に持たせながら尋ねた。

 「倉地さんはおいでがありませんでした。で ( ばあ ) やに 言伝 ( ことづ ) てをしておいて、お入り用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」

 そういって 衣嚢 ( かくし ) の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。

 愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。二人が二人ながら見えすいた 虚言 ( うそ ) をよくもああしらじらしくいえたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて自分 一人 ( ひとり ) を敵に回しているように思った。

 「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。……愛さんお前はそこにそうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立ってるためにここに呼ばれたと思っているの? 岡さんのそのぬれた 外套 ( がいとう ) でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って看護婦にそういってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんがこんなにおそくまで働いてくださったのに……さあ岡さんどうぞこの 椅子 ( いす ) に(といって自分は立ち上がった)……わたしが行って来るわ、愛さんも働いてさぞ疲れたろうから……よござんす、よござんすったら愛さん……」

 自分のあとを追おうとする愛子を刺し貫くほど ( ) めつけておいて葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっ[#「かっ」に傍点]と逆上しながら、ほろほろとくやし涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室のほうへ急いで行った。