University of Virginia Library

    四〇

 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく 杉森 ( すぎもり ) の中から小さな 羽虫 ( はむし ) が集まってうるさく[#「うるさく」に傍点]飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の 部屋 ( へや ) で酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を 単衣物 ( ひとえもの ) の下にとがらして、神経的に ( えり ) をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とかき合わせて、きちん[#「きちん」に傍点]と ( ぜん ) のそばにすわって、 華車 ( きゃしゃ ) 団扇 ( うちわ ) で酒の ( ) に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように 滾々 ( こんこん ) と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつん[#「ぷつん」に傍点]と会話を 杜絶 ( とだ ) やしてしまった。

 「 ( さあ ) ちゃんやっぱり 駄々 ( だだ ) をこねるか」

 一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。

 「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」

 「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」

 「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」

 葉子は 途轍 ( とてつ ) もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事をいった。

 「そうだおれもそう思う事があるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら ( らち ) はあかんからな。……したが、おれはまだもう 一反 ( ひとそ ) ( ) ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」

 「ほんとうですわ」

 そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。

 「正井のやつが来るそうじゃないか」

 倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、 空腹 ( ひもじ ) がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、

 「いゝえ」

 と答えてしまった。

 「 ( ) ない?……そりゃお前いいかげんじゃろう」

 と倉地はたしなめるような調子になった。

 「いゝえ」

 葉子は 頑固 ( がんこ ) にいい張ってそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いてしまった。

 「おいその 団扇 ( うちわ ) を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん……来ない事があるものか」

 「だれからそんなばかな事お聞きになって?」

 「だれからでもいいわさ」

 葉子は倉地がまた歯に ( きぬ ) 着せた物の言いかたをすると思うとかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って返辞もしなかった。

 「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」

 葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の ( ) ねかたに不快を催したらしかった。

 「おい葉子! 正井は ( ) るのか ( ) んのか」

 正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。

 「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」

 「酒も何も飲めるか……おれが暇を無理に作ってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]くつろごうと思うて来れば、いらん事に ( かど ) を立てて……何の薬になるかいそれが」

 葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が 明々地 ( あからさま ) にいってくれさえすれば、元の 細君 ( さいくん ) を呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前 一人 ( ひとり ) だ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは 地獄 ( じごく ) 苛責 ( かしゃく ) よりも葉子には ( ) えがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。

 葉子は倉地の最後の 一言 ( ひとこと ) でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと 気張 ( きば ) りながら幾度も 雄々 ( おお ) しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。

 「葉子! お前はなんでこのごろそう 他所他所 ( よそよそ ) しくしていなければならんのだ。え?」

 といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように ( おこ ) っていた。

 「 他所他所 ( よそよそ ) しいのはあなたじゃありませんか」

 そう知らず知らずいってしまって、葉子は 没義道 ( もぎどう ) に手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、

 「あゝ……あ、地獄だ地獄だ」

 と心の中で絶望的に ( せつ ) なく叫んだ。

  二人 ( ふたり ) の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。

 その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて 古藤 ( ことう ) が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の ( ) にはいって来て、古藤が来たと告げた。

 「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ……御飯 ( どき ) も構わないで……」

 とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に 愛想 ( あいそ ) を尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。

 「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」

 そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。

 二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な 挨拶 ( あいさつ ) を済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。

 「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の 整頓 ( せいとん ) なんです。ところが ( ぼく ) 整頓風呂敷 ( せいとんぶろしき ) 洗濯 ( せんたく ) しておくのをすっかり[#「すっかり」に傍点]忘れてしまってね。今特別に外出を 伍長 ( ごちょう ) にそっ[#「そっ」に傍点]と頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、 ( ふち ) を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」

 「おやすい御用ですともね。愛さん!」

 大きく呼ぶと階下にいた愛子が 平生 ( へいぜい ) に似合わず、あたふた[#「あたふた」に傍点]と 階子段 ( はしごだん ) をのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより ( かた ) く結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。

 「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの ( ふち ) を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」

 そういって古藤を妹たちの 部屋 ( へや ) の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。

 「木村からたよりがありますか」

 木村は葉子の 良人 ( おっと ) ではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。

 「困っているようですね」

 「えゝ、少しはね」

 「少しどころじゃないようですよ ( ぼく ) の所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が 来々年 ( さらいねん ) に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」

 なんというぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまり[#「わだかまり」に傍点]がないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。

 「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」

 「木村っていうのはそうした男なんだ」

 古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、

 「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」

 と激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の 真鍮 ( しんちゅう ) ぼたんをはめたりはずしたりした。

 「なぜですの」

 「木村は困りきってるんですよ。……ほんとうにあなた考えてごらんなさい……」

 勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、 ( ふすま ) を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、

 「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」

 と言葉をそらした。

 「愛さんもうできて?」

 と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしお[#「しお」に傍点]に葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両 ( ひじ ) を持たせたまま、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。 垣根添 ( かきねぞ ) いの木の間からは、種々な色の 薔薇 ( ばら ) の花が 夕闇 ( ゆうやみ ) の中にもちらほら[#「ちらほら」に傍点]と見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の 疳癪 ( かんしゃく ) はぎり[#「ぎり」に傍点]ぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、

 「これっぽっち[#「これっぽっち」に傍点]……愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは…… ( さあ ) ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで……」

 「 ( ぼく ) は倉地さんにあって来ます」

 突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって 階子段 ( はしごだん ) を降りて行こうとした。葉子はすばやく[#「すばやく」に傍点]愛子に目くばせして、下に案内して 二人 ( ふたり ) の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。

 葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、 疳癖 ( かんぺき ) が募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまとも[#「まとも」に傍点]にぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその 心根 ( こころね ) を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま[#「あからさま」に傍点]過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して 一人 ( ひとり ) ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと[#「もっと」に傍点]冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国 三界 ( さんがい ) にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、 乞食 ( こじき ) になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ 素直 ( すなお ) で誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して 懸念 ( けねん ) などする必要はないし、事業というようなものはてんで[#「てんで」に傍点]持ってはいない。木村とはなんといっても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし 真裸 ( まっぱだか ) になるほど、職業から放れて無一 ( もん ) になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は ( かな ) しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と 嫉妬 ( しっと ) とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。

 そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両 ( ひじ ) をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い 黒漆 ( こくしつ ) ( かみ ) の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの ( とし ) の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に 臆病 ( おくびょう ) がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい 田舎 ( いなか ) のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の ( ) いた大きな 旅籠屋 ( はたごや ) 宿 ( とま ) った時、 ( まくら ) を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん ( はし ) に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、 得体 ( えたい ) のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その 二人 ( ふたり ) の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ 旅籠屋 ( はたごや ) の二階の 手摺 ( てすり ) から少し荒れたような庭を何の気なしにじっ[#「じっ」に傍点]と見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に 虚事 ( うそ ) をしているのだ。いいかげんの所で自分はどん[#「どん」に傍点]とみんなから突き放されるような悲しい事になるに違いない。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった ( あかつき ) 一人 ( ひとり ) でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。

 葉子は貞世の後ろ婆を見るにつけてふと[#「ふと」に傍点]その時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。 苔香園 ( たいこうえん ) は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして ( しん ) のほうだけが澄みきった水のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]したその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って 夕闇 ( ゆうやみ ) に埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。

 「 ( さあ ) ちゃん」

 とうとう黙っているのが 無気味 ( ぶきみ ) になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。

 その時階下で倉地のひどく 激昂 ( げきこう ) した声が聞こえた。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにか ( ひざ ) からずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっ[#「きっ」に傍点]と聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。

 「 ( さあ ) ちゃん。……貞ちゃん……」

 葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろから ( ) がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた 結願 ( けちがん ) を思い出して、心を鬼にしながら、

 「 ( さあ ) ちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事です ( ) ねたまね[#「まね」に傍点]をして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していると毒ですよ」

 「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」

 「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」

 貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ ( ) にして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]打ちくだかれていた。 水落 ( みぞおち ) のあたりをすっ[#「すっ」に傍点]と氷の棒でも通るような心持ちがすると、 ( のど ) の所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。

 倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。