University of Virginia Library

    三九

 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど 悪冷 ( わるび ) えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いもよらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。きょうこそは一日気がはればれするだろうと思うような日は一日もなかった。きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには充分すぎた。

 五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい ( いど ) みと、激しい 嫉妬 ( しっと ) と、理不尽な 疳癖 ( かんぺき ) の発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない ( ふし ) があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な 内場破 ( うちばわ ) れが起こって、倉地の力でそれをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。それにしても倉地の疎遠は 一向 ( ひたすら ) に葉子には憎かった。

 ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。

 「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれが ( くら ) い込んでもお前にはとばっちり[#「とばっちり」に傍点]が行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほん[#「うそほん」に傍点]なしにお前とは手を切って見せるから」

 その最後の言葉は倉地の 平生 ( へいぜい ) に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が 息気 ( いき ) をつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。

 堕落といわれようと、不貞といわれようと、 他人手 ( ひとで ) を待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が見えたと 有頂天 ( うちょうてん ) になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり[#「もんどり」に傍点]打って地上にくずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で ( やいば ) に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって 一時 ( いっとき ) なりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思う事もあった。

 実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに 羽虫 ( はむし ) が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから 小半町 ( こはんちょう ) 裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている 湯殿 ( ゆどの ) に忍んで行って、さめかけた 風呂 ( ふろ ) につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手ぬぐい掛けの 竹竿 ( たけざお ) にぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている 二人 ( ふたり ) の妹の事がひしひしと心に ( せま ) るようだった。葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。

 倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い 丸髷 ( まるまげ ) の女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも 双鶴館 ( そうかくかん ) 女将 ( おかみ ) らしくもあった。葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって足早にそのあとをつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を ( ) 正直に信じていた自分はまんま[#「まんま」に傍点]と ( いつわ ) られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を ( ) つ。悪く思わないでくれと確かにそういった、その 義侠 ( ぎきょう ) らしい 口車 ( くちぐるま ) にまんま[#「まんま」に傍点]と乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと目が回ってその場に倒れてしまいそうなくやしさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女はそのへんに 辻待 ( つじま ) ちをしている車に乗ろうとする所だった。取りにがしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかど[#「はかど」に傍点]らなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事もはばかられた。もう十 ( けん ) というくらいの所まで来た時車はがらがらと音を立てて 砂利道 ( じゃりみち ) を動きはじめた。葉子は 息気 ( いき ) せき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は 杉森 ( すぎもり ) で囲まれたさびしい 暗闇 ( くらやみ ) の中にただ 一人 ( ひとり ) 取り残されていた。葉子はなんという事なくその 辻車 ( つじぐるま ) のいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い 地面 ( じめん ) をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめていた。確かにあの女に違いなかった。 ( せい ) 格好といい、 ( まげ ) の形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそ[#「うそ」に傍点]を使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を 仲人 ( ちゅうにん ) に立てて先妻とのより[#「より」に傍点]を ( もど ) そうとしているに決まっている。それに何の不思議があろう。長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母ではないか。葉子というものに一日一日 ( うと ) くなろうとする倉地ではないか。それに何の不思議があろう。……それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱりと別れても見せる。……なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんという ( かた ) にお気の毒だから、わたしはもう ( ) いものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。

 葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に ( ) 着いた時には、 息気 ( いき ) 苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの 気狂 ( きちが ) いが来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんな事には気もかけずに物すごい 笑顔 ( えがお ) でことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと 階子段 ( はしごだん ) をのぼって行った。ここが倉地の 部屋 ( へや ) だというその ( ふすま ) の前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく ( ふすま ) を開いた。

 部屋の中には案外にも倉地はいなかった。すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚の ( にお ) いもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。いるに違いないとひとり ( ) めをした自分の 妄想 ( もうそう ) が破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]気抜けがして、髪も 衣紋 ( えもん ) も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していた。

 あたりは深山のようにしーん[#「しーん」に傍点]としていた。ただ葉子の目の前をうるさく[#「うるさく」に傍点]行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という 分別 ( ふんべつ ) もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は 寒気 ( さむけ ) がするほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とおそろしくなって気がはっきり[#「はっきり」に傍点]した。

 急に 周囲 ( あたり ) には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきり[#「きり」に傍点]きりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い 夜蛾 ( よが ) だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]となって、不思議そうに居ずまいを ( ただ ) してみた。

 どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。

 自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して 風呂 ( ふろ ) をつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの 竹竿 ( たけざお ) にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の 女将 ( おかみ ) のあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいる ( ) をもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり[#「はっきり」に傍点]連絡をつけて考える事ができなかった。

 葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。

 「あのう、あとでこの ( ) を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり[#「はっきり」に傍点]しませんがね、ここに三十格好の 丸髷 ( まるまげ ) を結った女の人が見えましたか」

 「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」

 番頭は 怪訝 ( けげん ) な顔をしてこう答えた。

 「こちら様だろうがなんだろうが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」

 「さよう……へ、一時間ばかり前ならお 一人 ( ひとり ) お帰りになりました」

 「双鶴館のお 内儀 ( かみ ) さんでしょう」

  図星 ( ずぼし ) をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと 鷹揚 ( おうよう ) な態度を見せてこう聞いてみた。

 「いゝえそうじゃございません」

 番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。

 「それじゃだれ」

 「とにかく他のお 部屋 ( へや ) においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」

 葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。

 葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の 女将 ( おかみ ) が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい 虚言 ( うそ ) をついたようにもあった。

 何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。

 ……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、 畢竟 ( ひっきょう ) は水の上に浮いた ( あわ ) がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、 死骸 ( しがい ) になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の 女将 ( おかみ ) だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は ( ) めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み ( とお ) った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、 戸棚 ( とだな ) の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度 戸棚 ( とだな ) に行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこち[#「あちこち」に傍点]と尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルを ( ひざ ) の上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て 鶏頭 ( けいとう ) を引き上げた。

 きりっ[#「きりっ」に傍点]

 と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっ[#「びりっ」に傍点]とおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように ( ゆる ) がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた ( ひざ ) の上に置いてじっ[#「じっ」に傍点]とながめていた。

 ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって 戸棚 ( とだな ) の中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の 動作 ( しうち ) を怪しんでいた。

 葉子はやがて 一人 ( ひとり ) の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん ( ) 人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの 部屋 ( へや ) なんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を 安堵 ( あんど ) させる所だった。そしてこの女を……このまだ ( しょう ) のあるこの女を喜ばせるところだった。

 葉子は 一刹那 ( いっせつな ) の違いで死の ( さかい ) から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない 嫉妬 ( しっと ) の情と憤怒とにおそろしい 形相 ( ぎょうそう ) になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、 総身 ( そうしん ) の力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどう[#「どう」に傍点]と倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。

 店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。

 番頭はやむを得ず、てれ隠しに、

 「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」

 といった。葉子は、

 「えゝ夢を見ました。あの黒い ( ) が悪いんです。早く追い出してください」

 そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。

 こういう 発作 ( ほっさ ) を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。 二人 ( ふたり ) の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に 刃物 ( はもの ) などに注意しろといったりした。

 岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。