University of Virginia Library

    三六

 底のない 悒鬱 ( ゆううつ ) がともするとはげしく葉子を襲うようになった。いわれのない激怒がつまらない事にもふと頭をもたげて、葉子はそれを押ししずめる事ができなくなった。春が来て、木の芽から畳の ( とこ ) に至るまですべてのものが ( ふく ) らんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまで 素早 ( すばや ) く春をかぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に ( ) えないで春の来たのを恨むようなけだるさ[#「けだるさ」に傍点]とさびしさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょき[#「にょき」に傍点]にょきと延び上がった細々したからだには、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかにしみわたって行くのが目に見えた。葉子だけは春が来てもやせた。来るにつけてやせた。ゴム ( まり ) の弧線のような肩は骨ばった輪郭を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに ( ) えないように首筋も細々となった。やせて 悒鬱 ( ゆううつ ) になった事から生じた別種の美――そう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん ( ) え増さって行く種類の美ではない事を気づかねばならなくなった。その美はその行く手には夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。

 歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思う事すらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る過去にばかりながめられる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の ( もと ) につなごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦躁のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた 伎芸 ( ぎげい ) の女にのみ見られるような、いたましく 廃頽 ( はいたい ) した、 腐菌 ( ふきん ) 燐光 ( りんこう ) を思わせる 凄惨 ( せいさん ) 蠱惑力 ( こわくりょく ) をわずかな力として葉子はどこまでも倉地をとりこにしようとあせりにあせった。

 しかしそれは葉子のいたましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、始めて葉子を見る第三者は、物すごいほど ( ) えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目をひく衣服で補うようになっていた。その当時は 日露 ( にちろ ) の関係も日米の関係もあらしの前のような暗い徴候を現わし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。 臥薪嘗胆 ( がしんしょうたん ) というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に 日清 ( にっしん ) 戦争を相当に遠い過去としてながめうるまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の ( もと ) で、生活の美装という事に傾いていた。自然主義は思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした 高山樗牛 ( たかやまちょぎゅう ) らの一団はニイチェの思想を 標榜 ( ひょうぼう ) して「美的生活」とか「 清盛論 ( きよもりろん ) 」というような大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されている間に、その反対の傾向は、 ( から ) を破った 芥子 ( けし ) ( たね ) のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の目には、葉子の姿は一つの 天啓 ( てんけい ) のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。

 ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを襲われて目をさました。座敷のすみには夜をふかして楽しんだらしい 酒肴 ( しゅこう ) の残りが ( ) えたようにかためて置いてあった。例のシナ ( かばん ) だけはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と ( じょう ) がおりて床の間のすみに片づけられていた。葉子はいつものとおり知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差し出し人の名前に鋭い観察を与えるのだった。倉地は 宿酔 ( しゅくすい ) を不快がって頭をたたきながら寝床から半身を起こすと、

 「なんでけさはまたそんなにしゃれ[#「しゃれ」に傍点]込んで早くからやって来おったんだ」

 とそっぽ[#「そっぽ」に傍点]に向いて、あくびでもしながらのようにいった。これが一か月前だったら、少なくとも三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した倉地は、いきなり[#「いきなり」に傍点]寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子を 否応 ( いやおう ) なしに床の上にねじ伏せていたに違いないのだ。葉子はわき目にもこせこせとうるさく見えるような 敏捷 ( すばしこ ) さでそのへんに散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具とどんどん片づけながら、倉地のほうも見ずに、

 「きのうの約束じゃありませんか」

 と 無愛想 ( ぶあいそ ) につぶやいた。倉地はその言葉で始めて何かいったのをかすかに思い出したふうで、

 「何しろおれはきょうは忙しいでだめだよ」

 といって、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に ( ) えかねるほど怒りを発していた。

 「 ( おこ ) ってしまってはいけない。これが倉地を冷淡にさせるのだ」――そう心の中には思いながらも、葉子の心にはどうしてもそのいう事を聞かぬいたずら好きな小悪魔がいるようだった。即座にその場を 一人 ( ひとり ) だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな 手練 ( てくだ ) でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじてその二つの心持ちをまぜ合わせる事ができた。

 「それではだめね……またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいお天気に……いけない、あなたの忙しいはうそですわ。忙しい忙しいっていっときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」

 そういいながら葉子は立ち上がって、両手を左右に広く開いて、 ( たもと ) が延びたまま両腕からすらり[#「すらり」に傍点]とたれるようにして、やや ( けん ) を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに 見惚 ( みと ) れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、目の ( ふち ) に憂いの雲をかけたような薄紫の ( かさ ) ( かす ) んで見えるだけにそっ[#「そっ」に傍点]と ( ) いた 白粉 ( おしろい ) 、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い ( ほのお ) を上げて燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた 黒漆 ( こくしつ ) の髪、大きなスペイン ( ふう ) 玳瑁 ( たいまい ) の飾り ( ぐし ) 、くっきりと白く細い ( のど ) を攻めるようにきりっ[#「きりっ」に傍点]と重ね合わされた 藤色 ( ふじいろ ) ( えり ) 、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、燃えるような ( ) の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって底光りのする紫紺色の ( あわせ ) 、その下につつましく潜んで消えるほど薄い紫色の 足袋 ( たび ) (こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と、葉子という世にもまれなほど 悽艶 ( せいえん ) な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い ( ほのお ) を上げて燃えるような二つのひとみが生きて動いて倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やっていた。

 倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に立ってその胸の所に、両手をかけていた。

 「もうわたしに愛想が尽きたら尽きたとはっきり[#「はっきり」に傍点]いってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあいってください、……今……この場で、はっきり[#「はっきり」に傍点]……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで……わたしはどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでもわたしほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんなきつい言葉でも覚悟していますから。 ( わる ) びれなんかしはしませんから……あなたはほんとうにひどい……」

 葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやか[#「しめやか」に傍点]にしめやか[#「しめやか」に傍点]に泣いていたが、急に激しいヒステリー ( ふう ) なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがば[#「がば」に傍点]と突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。

 このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛びのいた。そこには ( けもの ) に見るような野性のままの取り乱しかたが美しい衣装にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も ( つめ ) もとがって見えた。からだは激しい 痙攣 ( けいれん ) に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と 嫌悪 ( けんお ) とがもつれ合いいがみ合ってのた[#「のた」に傍点]打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。

 「何を思い違いをしとる、これ」

 倉地は 喉笛 ( のどぶえ ) をあけっ ( ぱな ) した低い声で葉子の耳もとにこういってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。

 「えゝ、殺すなら殺してください……くださいとも」

 という狂気じみた声をしっ[#「しっ」に傍点]と制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。

 「痛い……何しやがる」

 倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]一方の手で葉子の細首を取って自分の ( ひざ ) の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんともいえず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に力が抜けて行って、震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地はかまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の ( ほお ) げたをひし[#「ひし」に傍点]ひしと五六度続けさまに 平手 ( ひらて ) で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の 末梢 ( まっしょう ) に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬をかばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両 ( ひじ ) まで使って、ばた[#「ばた」に傍点]ばたと ( すそ ) ( ) 乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は ( あられ ) のようにせわしく葉子の顔にかかった。

 「ばかが……静かに物をいえばわかる事だに……おれがお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、ばかが……恥さらしなまねをしやがって……顔を洗って出直して来い」

 そういって倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどん[#「どん」に傍点]とほうり投げた。

 葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま 昏々 ( こんこん ) として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で激しく 息気 ( いき ) をつきながらいたましく取り乱した葉子の姿をまんじり[#「まんじり」に傍点]とながめていた。

 一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎをけろり[#「けろり」に傍点]と忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして 二人 ( ふたり ) は楽しげに下宿から 新橋 ( しんばし ) 駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色のはげたモロッコ皮のディバンに腰かけて、倉地が 切符 ( きっぷ ) を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について 私語 ( ささや ) きかわすらしかった。高慢というのでもなく 謙遜 ( けんそん ) というのでもなく、きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、 ( ) の長い白の 琥珀 ( こはく ) のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人たちの中の 一人 ( ひとり ) がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に葉子を崇拝してその風俗をすらまねた連中の一人であるかとも思われた。葉子がどんな事をうわさされているかは、その婦人に耳打ちされて、見るように見ないように葉子をぬすみ見る他の婦人たちの目色で想像された。

 「お前たちはあきれ返りながら心の中のどこかでわたしをうらやんでいるのだろう。お前たちの、その物おじしながらも金目をかけた 派手 ( はで ) 作りな衣装や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、 良人 ( おっと ) の目に快く見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの目は勘定に入れていないのか。…… 臆病卑怯 ( おくびょうひきょう ) な偽善者どもめ!」

 葉子はそんな人間からは一段も二段も高い所にいるような 気位 ( きぐらい ) を感じた。自分の 扮粧 ( いでたち ) がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を十二 ( ぶん ) に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないという自らの 鷹揚 ( おうよう ) を見せてすわっていた。

 そこに一人の夫人がはいって来た。田川夫人――葉子はその影を見るか見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった(倉地以外の人に対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)田川夫人は元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子のほうにちょっと目をやりながらもいっこうに気づかずに、

 「お待たせいたしましてすみません」

 といいながら貴婦人らのほうに近寄って行った。互いの 挨拶 ( あいさつ ) が済むか済まないうちに、一同は田川夫人によりそってひそひそと 私語 ( ささや ) いた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたふうで、葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子のほうを振り返った。待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやか[#「しとやか」に傍点]に向けかえて田川夫人と目を見合わした。葉子の目は憎むように笑っていた。田川夫人の目は笑うように憎んでいた。「生意気な」……葉子は田川夫人が目をそらさないうちに、すっく[#「すっく」に傍点]と立って田川夫人のほうに寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子がまっ ( ) になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた婦人たちもそのさまを見て、 容貌 ( ようぼう ) でも服装でも自分らを ( ) 落とそうとする葉子に対して 溜飲 ( りゅういん ) をおろそうとしているらしかった)少し色を失って、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向こうとしたけれどももうおそかった。葉子は夫人の前に軽く頭を下げていた。夫人もやむを得ず 挨拶 ( あいさつ ) のまねをして、 高飛車 ( たかびしゃ ) に出るつもりらしく、

 「あなたはどなた?」

 いかにも 横柄 ( おうへい ) にさきがけて口をきった。

 「 早月葉 ( さつきよう ) でございます」

 葉子は対等の態度で ( わる ) びれもせずこう受けた。

 「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。あのう……報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るようにまじ[#「まじ」に傍点]まじとながめながら)たいそうおもしろうございました事。よくあんなにくわしく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいましたろうに。……倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいますから……今ちょっと切符を買いに……お連れ申しましょうか」

 田川夫人は見る見るまっさおになってしまっていた。折り返していうべき言葉に窮してしまって、 ( つたな ) くも、

 「わたしはこんな所であなたとお話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」

 といいつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを ( おそ ) れるふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、

 「いゝえどういたしましてわたしこそ……ちょっとお待ちくださいすぐ倉地さんをお呼び申して参りますから」

 そういってどんどん待合所を出てしまった。あとに残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔をして当惑したか、それを葉子は目に見るように想像しながらいたずら者らしくほくそ ( ) んだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。

 一等の客室には他に二三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちはだれかの見送りか出迎えにでも来たのだと見えて、汽車が出るまで影も見せなかった。葉子はさっそく倉地に事の始終を話して聞かせた。そして 二人 ( ふたり ) は思い存分胸をすかして笑った。

 「田川の奥さんかわいそうにまだあすこで今にもあなたが来るかともじ[#「もじ」に傍点]もじしているでしょうよ、ほかの人たちの手前ああいわれてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」

 「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」

 「きょうは妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」

 「不仕合わせなんぞも来出すと ( たば ) になって来くさるて」

 倉地は何か心ありげにこういって渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。

 葉子はけさの 発作 ( ほっさ ) の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な 愛矯者 ( あいきょうもの ) になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたといわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの ( たね ) となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが 無性 ( むしょう ) にグロテスクな不思議なものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっ[#「きゅっ」に傍点]きゅっとふき出してしまった。