University of Virginia Library

廻文

入道相國、か樣に痛う情なう振舞おかれし事を、さすが怖とや思はれけん、法皇慰め參せんとて、安藝の嚴島の内侍が腹の御娘、生年十八に成給ふが、優に花やかにおはしけるを法皇へ參らせらる。上臈女房達餘た選ばれて、參られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱させ給て後、僅に二七日だにも過ざるに、然るべからずとぞ人々内々はささやきあはれける。

さる程に、其比信濃國に、木曽冠者義仲と云ふ源氏有りと聞えけり。故六條判官爲義が次男帶刀先生義方が子なり。父義方は、久壽二年八月十六日鎌倉の惡源太義平が爲に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣々抱へて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、「是如何にもして育て、人に成て見せ給へ。」と云ひければ、兼遠請取てかひ/\しう二十餘年養育す。漸長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も雙なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちたち、都て上古の田村、、利仁、餘五將軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣と云ふ共、爭か是には勝べきとぞ人申ける。

或時乳母の兼遠を召てのたまひける。「兵衞佐頼朝既に謀反を起し、東八箇國を討從へて、東海道より上り、平家を追落んとするなり。義仲も東山北陸兩道を從へ、今一日も先に平家を責落し、譬へば日本國に、二人の將軍と云はればや。」とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏り悦で、「其料にこそ、君をば今迄養育し奉れ。かう仰らるゝこそ誠に八幡殿の御末とも覺えさせ給へ。」とて、やがて謀反を企てけり。

兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞在樣をも見伺ひけり。十三で元服しけるも、八幡へまゐり八幡大菩薩の御前にて「我が四代の祖父義家朝臣は此御神の御子と成て名をば八幡太郎と號しき。且つは其跡を追べし。」とて八幡大菩薩の御寶前にて髻取上げ、木曽次郎義仲とこそ付たりけれ。兼遠、先めぐらし文候べしとて、信濃國には、禰井小彌太滋野行親を語ふに、背く事なし。是を始て、信濃一國の兵共、 なびかぬ草木もなかりけり。上野國には故帶刀先生義方が好にて田子郡の兵共、皆隨 附にけり。平家の末に成る折を得て、源氏の年來の素懷を遂んとす。