University of Virginia Library

嗄聲

去程に越後國の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討の爲に、都合三萬餘騎同六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討立んとしけるに、夜半許、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたゞしう鳴て、天晴て後雲井に大なる聲のしはがれたるを以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し奉る平家の方人する者爰に有り、召取や。」と、三聲叫んでぞ通ける。城太郎を始として、是をきく者、皆身の毛よだちけり。郎等共、「是程怖しい天の告の候ふに、唯理を枉て留せ給へ。」 と申けれども、「弓矢取る者の、其によるべき樣なし。」とて、明る十六日卯刻に城 を出て僅に十餘町ぞ行たりける。黒雲一村立來て、助長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて、落馬してけり。輿に舁乘せ館へ歸り、打臥す事三時許して、遂に死にけり。飛脚を以て、此由都へ申たりければ、平家の人々、大に噪がれけり。

同七月十四日改元有て、養和と號す。其日筑後守貞能、筑前肥後兩國を給はて、鎭西の謀反平げに、西國へ發向す、其日又非常の大赦行はれて、去ぬる治承三年に流され給ひし人々、召還さる。松殿入道殿下備前國より御上洛、太政大臣妙音院尾張國より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃國より歸洛とぞ聞えし。

同廿八日、妙音院殿御院參。去ぬる長寛の歸洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈せ給しに、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊しける。何も/\風情折を思召よらせ給けん御心の程こそ目出けれ。按察大納言資方卿も、其日院參せらる。法皇、「如何にや夢の樣にこそ思食。習ぬ鄙の住ひして、郢曲なども、今は跡方あらじと思召せども、先今樣一つ有ばや。」と仰ければ、大納言拍子取て、「信濃に有なる木曽路川。」と云ふ今樣を、是は見給ひたりし間、「信濃に有し木曽路川」 と歌はれけるぞ時に取ての高名なる。