University of Virginia Library

州俣合戰

同閏二月廿日、五條大納言國綱卿失せ給ぬ。平大相國と、さしも契深う志し淺からざりし人也。せめての契の深にや、同日に病附て、同月にぞ失せられける。此大納言と申は兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守國が子也。藏人にだに成らず、進士の雜色とて候はれし、近衞院御在位の時、仁平の比ほひ、内裡に俄に燒亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衞司一人も參ぜられず、あきれて立せおはしましたる處に、此國綱腰輿を舁せて參り、「か樣の時は、かかる御輿にこそ召され候へ。」と奏しければ、主上是に召て出御在り。「何者ぞ。」と御尋在ければ、「進士の雜色藤原國綱」と名乘り申。「かかるさか/\しき者こそあれ、召仕るべし。」と其時の殿下法性寺殿へ迎含られければ、御領餘た給ひなどして召仕はれける程に、同帝の御代に八幡へ行幸在しに、人長が酒に醉て水に倒れ入、裝束を濕し、御神樂遲々したりけるに、此國綱、神妙にこそ候はねども、人長が裝束は持せて候。」とて、一具取出されたりければ、是を著て御神樂調へ奏しけり。程こそ少しも推移たりけれども、歌の聲もすみのぼり、舞の袖、拍子に合て面白かりけり。物の身にしみて面白事は神も人も同心也。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざ迄も今こそ思食知られけれ。

やがて此國綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。其子に如無僧都とて智慧才覺身に餘り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸在しに、勸修寺の内大臣高藤公の御子、泉の大將貞國、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹入られ袖にて髻を押へ、爲方なくてぞ立たりけるに、此如無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたるけるとかや。彼僧都は、父、山蔭中納言、太宰大貳に成て鎭西へ下られける時、二歳なりしを、繼母惡であからさまに抱くやうにして、海に落し入殺さんとしけるを、死にける誠の母、存生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、龜を取て殺さんとしけるを著給へる小袖を脱ぎ、龜にかへ、放たれたりしが、其恩を報ぜんと、此若君落し入けるを水の上に浮び來て、甲に乘てぞ扶けたりける。其れは上代の事なれば如何有けん。末代に國綱卿の高名在がたき事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後入道相國存ずる旨ありとて、此人に語らひより給へり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相國の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過べからずとて、子息一人養子にして、清國と名乘らせ、又入道相國の四男、頭中將重衡は彼大納言の聟になる。

治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推參ありしが、或雲客の「竹湘浦に斑なり。」といふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あな淺間し、是は禁忌也とこそ承れ。かかる事きくとも聞じ。」とて、ぬき足して遁出られぬ。譬へば、此朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と云ひ、妹をば女英と云ふ。共に舜の御門の后也。舜の御門かくれ給ひて後、彼蒼梧の野邊へ送り奉り、烟となし奉る時、二人の后名殘を惜み奉り、湘浦といふ所迄隨ひつゝ、泣悲しみ給ひしに、其涙岸の竹に懸て斑にぞ染たりける。其後も常には彼所におはして瑟を引て慰み給へり。今彼所を見るなれば、岸の竹は斑にて立けり。琴を調べし迹には雲たなびいて、物哀なる心を橘相公の賦に作れる也。此大納言はさせる文才詩歌麗しうおはせざりしか共、かゝるさかしき人にてか樣の事までも聞咎められけるにこそ。此人大納言までは思も寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願くは、我子の國綱一日でも候へ、藏人頭歴させたまへ。」と、百日肝膽を碎いて祈申されけるが、或夜の夢に檳榔の車をゐて來て、我家の車寄に立と夢を見て、是を人に語り給へば、「其れは、公卿の北方に成せ給ふべきにこそ。」とあはせたりければ、「我年已に闌たり。今更さ樣の振舞在べしとも覺えず。」と宣ひけるが、御子國綱藏人頭は事も宜し。正二位大納言に上り給ふこそ目出けれ。

同廿二日、法皇は院の御所法性寺殿へ御幸なる。彼御所は去ぬる應保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勸請し奉り、山水木立に至る迄思召まゝなりしが、此二三年は平家の惡行に依て、御幸もならず。御所の破壞したるを修理して、御幸成し奉るべき由、前右大將宗盛卿奏せられたりければ、何の樣もあるべからず、唯とう/\とて御幸成る。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年經にけりと覺て、木高くなれるに附ても、太液の芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何が涙進ざらん。彼南内西宮の昔の跡、今こそ思召知れけれ。

三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由仰下さる。同三日大佛殿造り始めらる。事始の奉行には藏人左少辨行隆とぞ聞えし。此行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりけるが、夢に御寶殿の内よりびんづら結たる天童の出て、「是は大菩薩の使なり。大佛殿奉行の時は是を持つべし。」と笏を賜はると云ふ夢を見て、覺て後見給へば、現に在けり。「あな不思議や當時何事あてか、大佛殿奉行に參るべき。」とて懷中して宿所へ歸り、深う納て置れけるが、平家の惡行に依て、南都炎上の間、此行隆、辨の中に選ばれて、事始の奉行に參られける宿縁の程こそ目出たけれ。

同三月十日、美濃國の目代、都へ早馬を以て申けるは、東國の源氏共すでに尾張國迄攻上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申たりければ、やがて討手を差遣す。大將軍には、左兵衞督知盛、左中將清經、小松少將有盛、都合其勢三萬餘騎で發向す。入道相國うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ざるに、さこそ亂たる代といひながら、淺ましかりし事共也。源氏の方には十郎藏人行家、兵衞佐の弟卿公義圓、都合其勢六千餘騎、尾張河を中に隔て、源平兩方に陣をとる。

同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千餘騎河を渡て、平家三萬餘騎が中へをめいて懸入る。明れば十七日寅刻より矢合して、夜の明る迄戰ふに、平家の方には些も騒がず。「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡たるぞ、其を標にして討てや。」とて、大勢の中に取籠て、「餘すな、漏すな。」とて責め給へば、源氏の勢殘少なに討なされ、大將軍行家辛き命生て河より東へ引退く。卿公義圓は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡て、源氏を追物射に射て行く。源氏あそこ此で歸し合せ/\防けれ共、敵は大勢、御方は無勢也。かなふべしとも見ざりけり。『水澤を後にする事無れ。』とこそ云ふに、今度の源氏の策、愚なり。」とぞ人申ける。

去程に大將軍十郎藏人行家、參河國に打越て、矢矧川の橋を引き、垣楯掻て待懸たり。平家やがて押寄せ攻給へば、こらへずして、そこをも、又、攻落れぬ。平家やがて續て攻給はば、參河遠江の勢は、隨つくべかりしに大將軍左兵衞督知盛、勞有て參河國より歸上らる。今度も僅に一陣を破ると云へども、殘黨を攻ねば、し出たる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失給ひぬ。運命の末に成る事あらはなりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨附く者無りけり。東國には草も木も皆源氏にぞ靡きける。