University of Virginia Library

永僉議

三井寺には又大衆起て僉議す。山門は心替しつ、南都は未參らず。此事延ては惡かりけん。六波羅に押寄て夜討にせん。其儀ならば、老少二手に分て、老僧共は如意が嶺より搦手に向ふべし。足輕ども四五百人先立て、白川の在家に火を懸け燒上ば、在京人六波羅の武士「あはや事出來たり。」とて、馳向んずらん。其時岩坂、櫻本にひかけ/\、暫支へて戰ん間に、大手は、伊豆守を大將軍にて、惡僧共、六波羅に押寄せ、風上に火かけ一揉もうで攻んに、などか太政入道燒出て討ざるべき。」とぞ僉議しける。

其中に平家の祈しける一如房阿闍梨眞海、弟子同宿數十人引具し、僉議の庭に進出で申けるは、「かう申せば、平家の方人とや思召され候らん。縱さも候へ。いかゞ衆徒の義をやぶり、我寺の名をも惜では候ふべき。昔は源平左右に爭て、朝家の御守たりしかども、近來は源氏の運傾き、平家世を取て二十餘年、天下に靡ぬ草木も候はず。内々の館の有樣も、小勢にてはたやすう攻落しがたし。よく/\外に謀を運して、勢を催し、後日に寄らるべうや候らん。」と、程を延さんが爲に、長々とぞ僉議したる。

爰に乘圓房阿闍梨慶秀と云老僧あり。衣の下に腹卷を著、大なる打刀前垂に差ほらし、かしら包んで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭に進出でて申けるは、「證據を外に引くべからず。我寺の本願天武天皇は未だ春宮の御時、大友王子にはゞからせ給ひて、芳野の奧をいでさせ給ひ、大和國宇多郡を過させ給ひけるには、其勢僅に十七騎、去共伊賀伊勢に打越え、美濃尾張の勢を以て、大友王子を亡して、終に位に即せ給ひき。『窮鳥懷に入る。人倫是を憐む』と云ふ本文有り。自餘は知らず、慶秀が門徒に於ては、今夜六波羅に押寄て、打死せよや。」とぞ僉議しける。圓滿院大輔源覺、進出て申けるは、「僉議ばし多し、夜の更るに、急げや進め。」とぞ申ける。