University of Virginia Library

南都牒状

山門の大衆、此状を披見して、こは如何に、當山の末寺で有ながら、鳥の左右の翅の如く、又車の二つの輪に似たりと、抑て書く條、奇怪なり。」とて、返牒を送らず。其上入道相國天台座主明雲大僧正に、衆徒を靜らるべき由宣ければ、座主急ぎ登山して、大衆をしづめ給ふ。かゝりし間、宮の御方へ、不定の由をぞ申ける。又入道相國、近江米二萬石、北國の織延絹三千匹、往來に寄らる。是を谷々嶺々に引れけるに、俄の事では有り、一人して數多を取る大衆も有り。又手を空うして、一つも取ぬ衆徒も有り。何者の爲態にや有けん、落書をぞしたりける。

山法師織延衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ。

又絹にもあたらぬ大衆の詠たりけるやらん。

織延を一きれも得ぬわれらさへ、薄恥をかくかずに入哉。

又南都への状に云、

園城寺牒す、興福寺の衙。 特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと乞ふ状 右佛法の殊勝なる事は、王法を守らんがため、王法亦長久なる事は、即ち佛法に依る。 ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、恣に國威を竊にし、朝政を亂り、内 につけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難 を遁れんがために、俄に入寺せしめ給ふ。爰に院宣と號して出したてまつるべき旨、 責ありと云へども、衆徒一向是を惜み奉る。仍て彼の禪門、武士を當寺に入れんとす。 佛法と云、王法と云、一時に當に破滅せんとす。昔唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を滅さしめし時、清凉山の衆、合戰を致して是を防ぐ。王權猶かくの如し。何ぞ況や謀反八逆の輩に於てをや。就中に南京は例なくして、罪なき長者を配流せらる。今度にあらずば、何の日か會稽を遂げん。願くは、衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には惡逆の伴類を退けば、同心の至り、本懷に足ぬべし。衆徒の僉議かくの如し。仍牒送如件。

治承四年五月十八日 大衆等

とぞ書たりける。

南都の大衆此状を披見して、やがて返牒を送る。其返牒に云、

興福寺牒す、園城寺の衙 來牒一紙に載せられたり。右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を滅さんとする由の事、 牒す、玉泉、玉花、兩家の宗義を立つと云へども、金章、金句、同じく一代の教門より出でたり。南京北京共に以て、如來の弟子たり。自寺他寺互に、調達が魔障を伏すべし。抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。大藏卿爲房、賀州刺史の古、檢非所に補し、修理の大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。然を親父忠盛昇殿を許されし時、都鄙の老少皆蓬壺の瑕瑾を惜み、内外の榮幸各馬臺の讖文に啼く。忠盛青雲の翅を刷ふといへども、世の民猶白屋の種を輕ず。名を惜む青侍其家に望むことなし。然るを去る平治元年十二月、太上天皇、一戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以降、高く相國に上り、兼て兵仗を給る。男子或は台階を辱うし、或は羽林に連る。女子或は中宮職に備り、或は准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫、かの甥、悉く竹符を割く。加之九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕從と成す。一毛心に違へば、王侯と云へ共是を囚へ、片言耳に逆ふれば、公卿といへども是を搦む。是に依て、或は一旦の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂を遁れんと思て、萬乘の聖主猶面諂の媚をなし、重代の家君却て膝行の禮を致す。代々相傳の家領を奪ふと云へども、上裁も恐れて舌を卷巻き、宮々相承の庄園を取ると云へども、權威に憚てもの言ふことなし。勝に乘るあまり、去年の冬十一月太上皇の棲を追捕し、博陸公の身を推し流す。反逆の甚しい事、誠に古今に絶たり。其時我等すべからく賊衆に行き向て、其罪を問ふべしと云へども、或は神慮に相憚り、或は綸言と稱するに依て、鬱陶を抑へ光陰を送る間、重て軍兵を起して、一院第二の親王宮を打ち圍む所に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送りつけて、新羅の扉に預け奉る。王法盡べからざる旨明けし。隨て又貴寺身命を捨てゝ、守護し奉る條、含識の類、誰か隨喜せざらん。我等遠域にあて、其情を感ずる所に、清盛入道猶匈氣をおこして、貴寺に入らんとするよし、仄に承り及を以て、兼て用意を致す。十八日辰の一點に大衆を起し、諸寺に牒送し、末寺に下知し、軍士を得て後、案内を達せんとする所に、青島飛び來て芳翰を投げたり。數日の鬱念一時に解散す。彼唐家清凉一山の芻、猶武宗の官兵を返す。況や和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらんや。能く梁園左右の陣を固めて、宜く我等が進發の告を待つべし。状を察して、疑貽をなすことなかれ。以て牒す。

治承四年五月二十一日 大衆等

とぞ書たりける。