University of Virginia Library

還御

同廿六日、嚴島へ御參著、入道相國の最愛の内侍が宿所、御所になる。中二日御逗留有て、經會舞樂行はれける。導師には、三井寺の公兼僧正とぞ聞えし。高座に登り、鐘打鳴し、表白の詞にいはく、「九重の都を出て、八重の汐路を分以て參らせ給ふ御志の忝さ。」と、高らかに申されたりければ、君も臣も感涙を催されけり。大宮、客人を始め參せて、社々所々へ皆御幸なる。大宮より五町許、山を廻て、瀧の宮へ參せ給ふ。公兼僧正一首の歌讀で拜殿の柱に書附られたり。

雲居よりおちくる瀧のしらいとに、ちぎりをむすぶ事ぞうれしき。

神主佐伯景廣加階、從上の五位、國司藤原有綱、品上あげられて加階、從下の四品、院の殿上許さる。座主尊永、法印になさる。神慮も動き、太政入道の心もはたらきぬらんとぞ見えし。

同廿九日上皇御船飾て還御なる。風烈かりければ、御船漕戻し、嚴島の内、ありの浦に留らせ給ふ。上皇、「大明神の御名殘惜に、歌仕れ。」と仰ければ、隆房の少將、

立かへる名殘もありの浦なれば、神もめぐみをかくる白浪。

夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。

今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と仰ければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、

千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。

其後御前に人々餘た候はせ給ひて、御戯れことの在りしに、上皇「白き衣著たる内侍が國綱卿に心を懸たるな。」とて、笑はせおはしましければ、大納言大に爭がひ申さるゝ所に、文持たる便女が參て、「五條の大納言殿へ。」とて指上たり。さればこそとて滿座興ある事に申しあはれけり。大納言是を取て見給へば、

白浪の衣の袖をしぼりつゝ、君故にこそたちもまはれね。

上皇「優しうこそ思食せ。此返事はあるべきぞ。」とて、やがて御硯をくださせ給ふ。 大納言返事には、

おもひやれ君がおもかげ立つ浪の、よせくる度に濕るゝ袂を。

其より備前國小島の泊に著せ給ふ。

五日の日天晴風しづかに、海上も長閑かりければ、御所の御船を始參せて、人々の船共皆出しつつ、雲の波煙の浪を分過させ給ひて、其日の酉刻に播磨國山田の浦に著せ給ふ。其より御輿に召て、福原へ入せ坐ます。六日は供奉の人々、今一日も都へ疾と急がれけれども、新院御逗留有て、福原の所々歴覽有けり。池中納言頼盛卿の山庄、荒田まで御覽ぜらる。

七日、福原を出させ給に、隆季の大納言勅定を承はて、入道相國の家の賞行はる。入道の養子、丹波守清國、正下五位、同入道の孫、越前少將資盛、四位の從上とぞ聞えし。其日寺井に著せ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御迎の公卿殿上人、鳥羽の草津へぞ參られける。還御の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相國の西八條の亭へいらせ給ふ。

同四月二十二日新帝の御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、一年炎上の後は、未造りも出されず。太政官の廳にて、行はるべしと、定められたりけるを、其時の九條殿申させ給ひけるは、「太政官の廳は、凡人の家にとらば公文所體の所也。大極殿無らん上は、紫宸殿にてこそ、御即位は有るべけれ。」と申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ、御即位は有ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有しは、主上御邪氣に依て、大極殿へ行幸かなはざりし故也。其例如何あるべからん。只後三條院の延久の佳例に任せ、太政官の廳にて行はるべき物を。」と人々申合はれけれども、九條殿の御計の上は、左右に及ばず。中宮は弘徽殿より仁壽殿へ遷らせ給ひて、高御座へ參せ給ひける御有樣、目出度かりけり。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達は、去年大臣失せ給ひし間、色にて籠居せられたり。