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通乘沙汰

又奈良にも一所座しけり。御乳母讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し參らせて、北國へ落下りたりしを、木曽義仲上洛の時主にし進せんとて、具し奉て都へ上り、御元服せさせ參らせたりしかば、木曽が宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。後には嵯峨の邊、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申けり。

昔通乘といふ相人有り。宇治殿二條殿をば、君三代の關白、共に御年八十と申たりしも違はず。帥内大臣をば、流罪の相在すと申たりしも違はず。聖徳太子の、崇峻天皇を横死の相在ますと申させ給ひたりしが、馬子大臣に殺され給ひにき。さも然るべき人々は、必ず相人としもあらねども、かくこそ目出たかりしか。是は相少納言が不覺にはあらずや。中比兼明親王、具平親王と申しは、前中書王、後中書王とて、共に賢王聖主の王子にて渡せ給ひしかども、位にも即せ給はず。され共何かは謀反を起させ給ひし。又後三條院第三の皇子、資仁親王も御才學勝て御座ければ、白河院未東宮にておはしまいし時「御位の後は、此宮を位には即參らさせ給へ。」と、後三條院、御遺詔有しかども、白河院如何思召されけん、終に位にも即け參らさせ給はず、責ての御事には、資仁親王の御子に、源氏の姓を授け參らさせ給て、無位より一度に三位に叙して、軈て中將に成參らさせ給ひけり。一世の源氏、無位より三位する事嵯峨皇帝の御子、陽院の大納言定卿の外は是始とぞ承る。花園左大臣有仁公の御事なり。

高倉宮の御謀反の間、調伏の法承はて修せられける高僧達に勸賞行はる。前右大將宗盛卿の子息侍從清宗三位して、三位侍從とぞ申ける。今年纔に十二歳。父の卿も、此齡では兵衞佐でこそおはせしか。忽に上達部に上り給ふ事、一の人の公達の外は、いまだ承り及ばず。源茂仁、頼政法師父子追討の賞とぞ除書には有ける。源茂仁とは、 高倉宮を申けり。正い太上法皇の王子をうち奉るだに有に、凡人にさへなし奉るぞ淺 ましき。