University of Virginia Library

宮御最後

足利は、朽葉の綾の直垂に、赤革威の鎧著て、高角打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、柏木にみゝづく打たる金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。鐙踏張り立上り、大音聲を揚て、名乘けるは、「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給へ。昔朝敵將門を亡し、勸賞蒙し俵藤太秀里に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱、生年十七歳、か樣に無官無位なる者の、宮に向ひ參せて、弓を引き矢を放つ事天の恐少からず候へ共、弓も矢も冥加の程も、平家の御上にこそ候らめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄合や見參せん。」とて平等院の門の内へ責入々々戰けり。

是を見給て、大將軍左兵衞督知盛、「渡せや渡せ。」と下知せられければ、二萬八千餘騎、皆打入て渡しけり。馬や人に塞れて、さばかり早き宇治川の、水は上にぞ湛へたる。自ら外るゝ水には、何も不堪流れけり。雜人共は、馬の下手に取附々々渡りければ、膝より上をば濡さぬ者も多かりけり。如何したりけん伊賀伊勢兩國の官兵、馬筏押破られ水に溺れて六百餘騎ぞ流れける。萠黄、緋威、赤威、色々の鎧の浮ぬ沈ぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、嶺の嵐に誘れて、龍田河の秋の暮、井塞に懸て、流もやらぬに異ならず。其中に緋威の鎧著たる武者が三人、網代に流れ懸て淘けるを、伊豆守見給ひて、

伊勢武者はみなひおどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。

是等は三人ながら伊勢國の住人也。黒田後平四郎、日野十郎、乙部彌七と云ふ者なり。其中に日野十郎は、ふる者にて有ければ、弓の弭を岩の狹間にねぢ立て、掻上り、二人の者どもをも引上て、助たりけるとぞ聞えし。大勢みな渡して、平等院の門の内へ、入替/\戰ひけり。此の紛に、宮をば南都へ先立て參せ、源三位入道の一類、殘て防矢射給ふ。

三位入道七十に餘て軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心靜かに自害せんとて、平等院の門の内へ引退いて、敵おそひかゝりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、父を延さんと、返合せ/\防戰ふ。上總太郎判官が射ける矢に兼綱内甲を射させて疼む處に、上總守が童、次郎丸と云ふしたゝか者押竝て引組でどうと落つ。源大夫判官は、内甲も痛手なれども、聞る大力なりければ、童を取て押て頸を掻き、立上らんとする處に、平家の兵共、十四五騎ひし/\と落重て、兼綱を討てけり。伊豆守仲綱も、痛手あまた負ひ平等院の釣殿にて自害す。其頸をば下河邊藤三郎清親取て、大床の下へぞ投入ける。六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光も、散々に戰ひ、分捕餘たして、遂に討死してけり。此仲家と申は、故帶刀先生義方が嫡子也。孤にて有しを、三位入道養子にして、不便にし給しが、日來の契を變ぜず、一所にて死にけるこそ無慚なれ。 三位入道は渡邊長七唱を召て、「我頸うて。」と宣へば、主の生頸討ん事の悲しさに、 涙をはらはらと流いて、「仕るとも覺え候はず。御自害候て、其後こそ給り候はめ。」 と申ければ、「誠にも。」とて西に向ひ、高聲に十念唱へ最後の詞ぞあはれなる。

埋木の花さく事もなかりしに、みのなる果ぞかなしかりける。

是を最後の詞にて、太刀のさきを腹に突立て、俯樣に貫てぞ失られける。其時に歌讀べうは無りしか共、若より強に好たる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其頸をば唱取て泣々石に括合せ敵の中を紛れ出て、宇治川の深き所に沈てけり。

競瀧口をば平家の侍共、如何にもして、生捕にせんとうかゞひけれ共、競も先に心えて、散散に戰ひ、大事の手負ひ、腹掻切てぞ死にける。圓滿院大輔源覺、今は宮も遙に延させ給ひぬらんとや思ひけん。大太刀大長刀左右に持て、敵の中をうち破り、宇治川へ飛で入り、物具一つも捨ず、水の底を潜て、向の岸に渡り著き、高き所に登り、大音聲を揚て、「如何に平家の君達、是までは御大事かよう。」とて、三井寺へこそ歸けれ。

飛騨守景家は、古兵にて有ければ、此紛に、宮は南都へやさきたゝせ給ふらんとて軍をばせず、其勢五百餘騎、鞭鐙を合せて追懸奉る。案の如く、宮は三十騎許で落させ給けるを、光明山の鳥居の前にて、追附奉り、雨の降る樣に射參せければ、何が矢とは覺ねども、宮の左の御側腹に矢一筋立ければ、御馬より落させ給て、御頸取れさせ給ひけり。是を見て御伴に候ける鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀、金光院の六天狗、何の爲に命をば惜むべきとて、をめき叫んで討死す。

其中に宮の御乳母子、六條助大夫宗信敵は續く、馬は弱し、にゐ野の池へ飛でいり、浮草顏に取掩ひ、慄居たれば、敵は前を打過ぬ。暫し有て兵者共の四五百騎、さゞめいて打ち歸ける中に、淨衣著たる死人の、頸も無いを、蔀の下にかいていできたりけるを誰やらんとみ奉れば、宮にてぞましましける。我死ば此笛をば御棺に入よと仰ける小枝と聞えし御笛も、未御腰に差れたり。走出て取も附まゐらせばやと思へども、怖しければ其も叶はず。かたき皆歸て後、池より上り、ぬれたる物共絞著て、泣々京へ上たれば、憎まぬ者こそ無りけれ。

去程に南都の大衆ひた甲七千餘人、宮の御迎に參る。先陣は粉津に進み、後陣は未興福寺の南大門にゆらへたり。宮は早光明山の鳥居の前にて討れさせ給ぬと聞えしかば、大衆みな力及ばず涙を押へて留りぬ。今五十町許待附させ給はで、討れさせ給けん宮の御運の程こそうたてけれ。