University of Virginia Library

大衆揃

搦手に向ふ老僧共大將軍には源三位入道頼政、乘圓房阿闍梨慶秀律成房阿闍梨日胤、帥法印禪智、禪智が弟子義寶、禪永を始として、都合其勢一千人、手々に燒松もて、如意が峯へぞ向ひける。大手の大將軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光、大衆には圓滿院大輔源覺、成喜院荒土佐、律成房伊賀公、法輪院鬼佐渡、是等は力の強さ、弓箭打物もては、鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。平等院には、因幡竪者荒大夫、角六郎房、島阿闍梨、筒井法師に、郷阿闍梨、惡少納言、北院には、金光院の六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後等也。松井肥後、證南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乘圓房阿闍梨慶秀が房人、六十人の内、加賀光乘、刑部春秀、法師原には一來法師に如ざりき。堂衆には、筒井淨妙明秀、小藏尊月、尊永、慈慶、樂住、鐡拳玄永、武士には渡邊省播磨次郎、授薩摩兵衞、長七唱、競瀧口、與右馬允、續源太、清、勸を先として、都合其勢一千五百餘人三井寺をこそ打立けれ。

宮入せ給て後は大關小關堀切て、堀ほり逆茂木引いたりければ、堀に橋渡し、逆茂木ひき除などしける程に、時刻おし移て、關路の鷄啼あへり。伊豆守宣けるは、「爰で鳥鳴ては、六波羅は白晝にこそ寄んずれ、如何せん。」と宣へば、圓滿院大輔源覺、又先の如く進出て僉議しけるは、「昔秦昭王のとき、孟嘗君召禁られたりしに、后の御助に依て、兵三千人を引具して、逃免れけるに、函谷關に至れり。鷄啼ぬ限は、關の戸を開く事なし。孟嘗君が三千の客の中に、てんかつと云ふ兵有り。鷄の啼眞似をありがたくしければ鷄鳴とも云れけり。彼鷄鳴高き所に走上り、鷄の鳴眞似をしたりければ、關路の鷄聞傳て、皆鳴ぬ。其時關守鳥の虚音にばかされて、關の戸開てぞ通しける。是も敵の謀にや鳴すらん、唯寄よ。」とぞ申ける。かゝりし程に、五月の短夜ほの%\とこそ明にけれ。伊豆守宣けるは、「夜討にこそさりともと思つれ共、晝軍には如何にも叶ふまじ。あれ呼返せや。」とて、搦手は如意が嶺よりよび返す。大手は松坂より取て返す。若大衆共、「是は一如房阿闍梨が長僉議にこそ夜は明たれ。 押寄せて其坊きれ。」とて、坊を散々にきる。防ぐ處の弟子同宿、數十人討れぬ。一 如房阿闍梨這々六波羅に參て老眼より涙を流いて此由訴申けれ共、六波羅には軍兵數萬騎馳集て騒ぐ事もなかりけり。

同廿三日の曉、宮は此の寺ばかりでは叶ふまじ、山門は心替し、南都は未參らず。後日に成ては惡かりなんとて、三井寺を出させ給ひて、南都へぞ入せ座ます。此宮は蝉折、小枝と聞えし漢竹の笛を二つ持せ給へり。彼蝉折と申は、昔鳥羽院の御時金を千兩、宋朝の御門へ、送らせ給ひたりければ、返報と覺くて、生たる蝉の如くに、節の附たる笛竹を、一節贈らせ給ふ。如何が是程の重寶をば左右なうはゑらすべきとて、 三井寺の大進僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して、彫せ給へる御笛也。或 時高松中納言實平卿參て、此御笛を吹れけるに、尋常の笛の樣に思忘て、膝より下に 置れたりければ、笛や尤けん、其時蝉折にけり。さてこそ蝉折とは付られたれ。笛の 御器量たるに依て、此宮御相傳有けり。されども今を限とや思食れけん、金堂の彌勒 に參らさせおはします。龍華の曉、値遇の御爲かと覺えて、哀也し事共なり。

老僧共には皆暇賜で、留めさせ坐ます。しかるべき若大衆惡僧共は參りけり。源三位入道の一類引具して、其勢一千人とぞ聞えし。乘圓房阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがりて、宮の御前に參り、老眼より涙をはら/\と流いて申けるは、「何迄も御供仕べう候へ共、齡既に八旬にたけて、行歩叶ひがたう候。弟子で候刑部房俊秀を參らせ候。是は一年平治の合戰の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、六條河原で討死仕り候し相摸國住人山内須藤刑部丞俊通が子で候。いさゝか縁候間、跡懷でおほしたてて、心の底迄能知て候。何迄も召具せられ候べし。」とて、涙を抑て留りぬ。宮もあはれに思召て、何の好にかうは申らんとて、御涙せきあへさせ給はず。