University of Virginia Library

高野之卷

瀧口入道、三位中將を見奉り、「こは現共覺え候はぬ者哉。八島より是迄は何として逃させ給て候やらん。」と申ければ、三位中將宣ひけるは、「さればとよ、人なみ/\に、都を出て、西國へ落下りたりしかども、故郷に留置し少者共の戀しさ、いつ忘るべしとも覺えねば、其物思ふ氣色の言ぬにしるくや見えけん、大臣殿も、二位殿も、此人は池大納言の樣に、二心有りなどとて思ひ隔て給ひしかば、有にかひなき吾身哉と、いとゞ心も留まらであくがれ出てこれまではのがれたるなり。如何にもして山傳ひに都へ上て戀しき者共を今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中將の事口惜ければ其も叶はず。同くは是にて出家して、火の中水の底へも入ばやと思ふ也。但熊野へ參らんと思ふ宿願あり。」と宣へば、「夢幻の世の中は、とてもかくても候なん。長き世の闇こそ心うかるべう候へ。」とぞ申ける。やがて瀧口入道先達にて、堂塔巡禮して、奧院へ參り給ふ。

高野山は帝城を去て二百里、京里を離て無人聲、晴嵐梢を鳴して、夕日の影靜也。八葉の峰、八の谷、誠に心も澄ぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ、墻に苔むして、星霜久く覺えたり。抑延喜帝の御時、御夢想の御告有て、檜皮色の御衣を參らせられしに、勅使中納言資澄卿、般若寺僧正觀賢を相具して、此御山に參り、御廟の扉を開いて、御衣を著せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たて、大師拜まれさせ給はず。こゝに觀賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出て、師匠の室に入しより以來いまだ禁戒を犯せず。さればなどか拜奉らざらん。」とて五體を地に投げ、發露啼泣し給ひしかば、漸霧晴て、月の出が如くして、大師拜まれ給けり。時に觀賢隨喜の涙を流いて、御衣を著せ奉る。御ぐしの長く生させ給ひたりしかば、剃奉るこそめでたけれ。勅使と僧正とは拜み奉給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたりけるが、大師を拜み奉らずして、嘆き沈で御座けるが、僧正手をとて、大師の御膝に押當られたりければ、其手一期が間、香しかりけるとかや。其移り香は、石山の聖教に移て今に有とぞ承る。大師御門の御返事に申させ給ひけるは、「我昔薩に逢て、まの當り悉印明を傳ふ。無比の誓願を發して、邊地の異域に侍り。晝夜に萬民を哀んで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を證して、慈氏の下生を待つ。」とぞ申させ給ひける。彼摩訶迦葉の足の洞に籠て、翅頭の春の風を期し給ふらんも、かくやとぞ覺えける。御入定は承和二年三月二十一日寅の一點の事なれば、過にし方も三百餘歳、行末も猶五十六億七千萬歳の後、慈尊出世三會の曉を待せ給ふらんこそ久しけれ。