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大嘗會沙汰

同二十七日、都には九郎判官義經、檢非違使五位尉になされて、九郎大夫判官とぞ申ける。さる程に十月にも成ぬ。八島には浦吹く風も烈しく、磯打つ波も高かりければ、兵も攻來らず、商客の行通ふも稀なれば、都の傳も聞まほしく、何しか空かき曇り、霰打散り、いとゞ消入る心地ぞし給ひける。都には大嘗會あるべしとて御禊の行幸有けり。内辨は徳大寺左大將實定公、其比内大臣にておはしけるが勤められけり。おとゝし先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公、節下にておはせしが節下の幄屋につき、前に龍の旗立て居給ひたりし景氣、冠際、袖のかゝり、表袴のすそ迄も、殊に勝れて見え給へり。其外一門の人々三位中將知盛、頭中將重衡以下近衞司、御綱に候はれしには、又立竝ぶ人も無しぞかし。今日は九郎判官義經、先陣に供奉す。木曾などには似ず、京慣てはありしか共、平家の中のえりくづよりも猶劣れり。

同十一月十八日大嘗會遂行はる。去ぬる治承養和の比より、諸國七道の人民百姓等、源氏の爲に惱され平家の爲に亡され、家かまどを棄て山林にまじはり、春は東作の思を忘れ、秋は西收の營にも及ばず。如何にしてか樣の大禮も行はるべきなれ共、さてしもあるべき事ならねば、形の如くぞ遂られける。

參河守範頼、やがて續いて責給はゞ、平家は亡べかりしに、室、高砂に休居て、遊君遊女共召聚め、遊び戯れてのみ月日を送られけり。東國の大名小名多しといへども、大將軍の下知に從ふ事なれば力及ばず。唯國の費え民の煩のみ有て、今年も既に暮にけり。

平家物語卷第十