University of Virginia Library

5.8. 青頭巾

むかし快庵禅師といふ大徳の聖おはしまりけり。総角より教外の旨をあきらめ給ひて。 常に身を雲水にまかせたまふ。美濃の國の龍泰寺に一夏を満しめ。此秋は奥羽のかた に住とて。旅立給ふ。ゆき/\て下野の國に入給ふ。冨田といふ里にて日入りはてぬ れば。大きなる家の賑はゝしげなるに立よりて一宿をもとめ給ふに。田畑よりかへる 男等。黄昏にこの僧の立るを見て。大きに怕れたるさまして。山の鬼こそ來りたれ。 人みな出でよと呼のゝじる。家の内にも騒きたち。女童は泣さけび展轉びて隅%\に 竄る。あるじ山枴をとりて走り出。外の方を見るに。年紀五旬にちかき老僧の。頭に 紺染の巾をかづき。身に墨衣の破たるを穿て。裹たる物を背におひたるが。杖をもて さしまねき。檀越なに事にてかばかり備へ給ふや。遍參の僧今夜ばかりの宿をかり奉 らんとてこゝに人を待しに。おもひきやかく異しめられんとは。痩法師の強盗などな すべきにもあらぬを。なあやしみ給ひそといふ。荘主枴を捨て手を拍て笑ひ。渠等が 愚なる眼より客僧を驚しまいらせぬ。一宿を供養して罪を贖ひたてまつらんと。禮ま ひて奥の方に迎へ。こゝろよく食をもすゝめて饗しけり。荘主かたりていふ。さきに 下等が御僧を見て鬼來りしとおそれしもさるいはれの侍るなり。こゝに希有の物がた りの侍る。妖言ながら人にもつたへ給へかし。此里の上の山に一宇の蘭若の侍る。故 は小山氏の菩提院にて。代々大徳の住給ふなり。今の阿闍梨は何某殿の猶子にて。こ とに篤斈修行の聞えめでたく。此國の人は香燭をはこびて帰依したてまつる。我荘に もしば/\詣給ふて。いともうらなく仕へしが。去年の春にてありける。越の國へ水 丁の戒師にむかへられ給ひて。百日あまり逗まり給ふが。他國より十二三歳なる童児 を倶してかへり給ひ。起臥の扶とせらる。かの童児が容の秀麗なるをふかく愛させた まふて。年來の事どもゝいつとなく怠りがちに見え給ふ。さるに茲年四月の比。かの 童児かりそめの病に臥けるが。日を經ておもくなやみけるを痛みかなしませ給ふて。 國府の典薬のおもだゝしきをまで迎へ給へども。其しるしもなく終りにむなしくなり ぬ。ふところの璧をうばはれ。挿頭の花を嵐にさそはれしおもひ。泣に涙なく。叫ぶ に聲なく。あまりに歎かせたまふまゝに。火に焼。土に葬る事をもせで。臉に臉をも たせ。手に手をとりくみて日を經給ふが。終に心神みだれ。生てありし日に違はず戯 れつゝも。其肉の腐り爛るを吝みて。肉を吸骨を嘗て。はた喫ひつくしぬ。寺中の 人々。院主こそ鬼になり給ひつれと。連忙迯さりぬるのちは。夜/\里に下りて人を 驚殺し。或は墓をあばきて腥/\しき屍を喫ふありさま。実に鬼といふものは昔物が たりには聞もしつれど。現にかくなり給ふを見て侍れ。されどいかゞしてこれを征し 得ん。只戸ごとに暮をかぎりて堅く関してあれば。近曽は國中へも聞えて。人の往來 さへなくなり侍るなり。さるゆゑのありてこそ客僧をも過りつるなりとかたる。快庵 この物がたりを聞せ給ふて。世には不可思議の事もあるものかな。凡人とうまれて。 佛菩薩の教の廣大なるをもしらず。愚なるまゝ。慳しきまゝに世を終るものは。其愛 慾邪念の業障に攬れて。或は故の形をあらはして恚を報ひ。或は鬼となり蠎となりて 祟りをなすためし。住古より今にいたるまで算ふるに盡しがたし。又人活ながらにし て鬼に化するもあり。楚王の宮人は蛇となり。王含が母は夜叉となり。呉生が妻は蛾 となる。又いにしへある僧卑しき家に旅寝せしに。其夜雨風はげしく。燈さへなきわ びしさにいも寝られぬを。夜ふけて羊の鳴こゑの聞えけるが。頃刻して僧のねふりを うかゞひてしきりにかぐものあり。僧異しと見て。枕におきたる禅杖をもてつよく撃 ければ。大きに叫んでそこにたをる。この音に主の嫗なるもの燈を照し來るに見れば。 若き女の打たをれてぞありける。嫗泣/\命を乞。いかゞせん。捨て其家を出しが。 其のち又たよりにつきて其里を過しに。田中に人多く集ひてものを見る。僧も立より て何なるぞと尋ねしに。里人いふ。鬼に化したる女を捉へて。今土にうづむなりとか たりしとなり。されどこれらは皆女子にて男たるものゝかゝるためしを聞ず。凡女の 性の慳しきには。さる淺ましき鬼にも化するなり。又男子にも隋の煬帝の臣家に麻叔 謀といふもの。小児の肉を嗜好て。潜に民の小児を偸み。これを蒸て喫ひしもあなれ ど。是は淺ましき夷心にて。主のかたり給ふとは異なり。さるにてもかの僧の鬼にな りつるこそ。過去の因縁にてぞあらめ。そも平生の行徳のかしこかりしは。佛につか ふる事に志誠を盡せしなれば。其童子をやしなはざらましかば。あはれよき法師なる べきものを。一たび愛慾の迷路に入て。無明の業火の熾なるより鬼と化したるも。ひ とへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。心放せば妖魔となり。收むる則は仏果 を得るとは。此法師がためしなりける。老訥もしこの鬼を教化して本源の心にかへら しめなば。こよひの饗の報ひともなりなんかしと。たふときこゝろざしを發し給ふ。 荘主頭を畳に摺て。御僧この事をなし給はゞ。此國の人は浄土にうまれ出たるがごと しと。涙を流してよろこびけり。山里のやどり貝鐘も聞えず。廿日あまりの月も出て。 古戸の間に洩たるに。夜の深きをもしりて。いざ休ませ給へとておのれも臥戸に入り ぬ山院人とゝまらねば。楼門はうばらおひかゝり。經閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網をむ すびて諸佛を繋ぎ。燕子の糞護摩の牀をうづみ。方丈廊房すべて物すざましく荒はて ぬ。日の影申にかたふく比。快庵禅師寺に入て錫を鳴し給ひ。遍参の僧今夜ばかりの 宿をかし給へと。あまたたび叫どもさらに應なし。眠蔵より痩槁たる僧の漸/\とあ ゆみ出。咳たる聲して。御僧は何地へ通るとこゝに來るや。此寺はさる由縁ありてか く荒はて。人も住ぬ野らとなりしかば。一粒の斎糧もなく。一宿をかすべきはかりこ ともなしはやく里に出よといふ。禅師いふ。これは美濃の國を出て。みちの奥へいぬ る旅なるが。この麓の里を過るに。山の霊水の流のおもしろさにおもはずもこゝにま うづ。日も斜なれば里にくだらんもはるけし。ひたすら一宿をかし給へ。あるじの僧 云。かく野らなる所はよからぬ事もあなり。強とゞめがたし。強てゆけとにもあらず。 僧のこゝろにまかせよとて復び物をもいはず。こなたよりも一言を問はで。あるじの かたはらに座をしむる。看/\日は入果て。宵闇の夜のいとくらきに。燈を點ざれば まのあたりさへわかぬに。只澗水の音ぞちかく聞ゆ。あるじの僧も又眠蔵に入て音な し。夜更て月の夜にあらたまりぬ。影玲瓏としていたらぬ隈もなし。子ひとつともお もふ此。あるじの僧眠蔵を出て。あはたゝしく物を討ぬ。たづね得ずして大いに叫び。 禿驢いづくに隠れけん。こゝもとにこそありつれと禅師が前を幾たび走り過れども。 更に禅師を見る事なし。堂の方に駈りゆくかと見れば。庭をめぐりて躍りくるひ。遂 に疲れふして起來らず。夜明て朝日のさし出ぬれば。酒の醒たるごとくにして。禅師 がもとの所に在すを見て。只あきれたる形にものさへいはで。柱にもたれ長嘘をつぎ て黙しゐたりける。禅師ちかくすゝみよりて。院主何をか歎き給ふ。もし飢給ふとな らば野僧が肉に腹をみたしめ給へ。あるじの僧いふ。師は夜もすがらそこに居させた まふや。禅師いふ。こゝにありてねふる事なし。あるじの僧いふ。我あさましくも人 の肉を好めども。いまだ佛身の肉味をしらず。師はまことに佛なり。鬼畜のくらき眼 をもて。活佛の來迎を見んとするとも。見ゆべからぬ

[_]
[1]
な るかな。あなたふとゝ頭を低て黙しける。禅師いふ。里人のかたるを聞けば。汝一旦 の愛慾に心神みだれしより。忽鬼畜に堕罪したるは。あさましとも哀しとも。ためし さへ希なる悪因なり。夜/\里に出て人を害するゆゑに。ちかき里人は安き心なし。 我これを聞て捨るに忍びず。恃來りて教化し本源の心にかへらしめんとなるを。汝我 をしへを聞や否や。あるじの僧いふ。師はまことに佛なり。かく淺ましき悪業を頓に わするべきことわりを教給へ。禅師いふ。汝聞とならばこゝに來れとて。簀子の前の たひらなる石の上に座せしめて。みづからかづき給ふ紺染の巾を脱て僧が頭にかづか しめ。證道の哥二句を授給ふ

江月照松風吹永夜清宵何所為

汝こゝを去ずして徐に此句の意をもとむべし。意解ぬる則はおのづから本來の佛 心に會ふなるはと。念頃に教て山を下り給ふ。此のちは里人おもき災をのがれしとい えども。猶僧が生死をしらざれば。疑ひ恐れて人/\山にのぼる事をいましめけり。 一とせ速くたちて。むかふ年の冬十月の初旬快庵大徳。奥路のかへるさに又こゝを過 給ふが。かの一宿のあるじが荘に立よりて。僧が消息を尋ね給ふ。荘主よろこび迎へ て。御僧の大徳によりて鬼ふたゝび山をくだらねば。人皆浄土にうまれ出たるごとし。 されど山にゆく事はおそろしがりて。一人としてのぼるものなし。さるから消息をし り侍らねど。など今まで活ては侍らじ。今夜の御泊りにかの菩提をとふらひ給へ。誰 も随縁したてまつらんといふ禅師いふ。他善果に基て遷化せしとならば道に先達の師 ともいふべし。又活てあるときは我ために一個の徒弟なり。いづれ消息を見ずばあら じとて。復び山にのぼり給ふに。いかさまにも人のいきゝ絶たると見えて。去年ふみ わけし道ぞとも思はれず。寺に入てみれば。荻尾花のたけ人よりもたかく生茂り。露 は時雨めきて降こぼれたるに。三の徑さへわからざる中に。堂閣の戸右左に頽れ。方 丈庫裏に縁りたる廊も。朽目に雨をふくみて苔むしぬ。さてかの僧を座らしめたる篁 子のほとりをもとむるに。影のやうなる人の。僧俗ともわからぬまでに髭髪もみだれ しに。葎むすぼふれ。尾花おしなみたるなかに。蚊の鳴ばかりのほそき音して。物と も聞えぬやうにまれ/\唱ふるを聞けば

江月照松風吹永夜清宵何所為

禅師見給ひて。やがて禅杖を拿なほし。作[mo ]生何所為ぞと。一喝して他が頭を撃給 へば。忽氷の朝日にあふがごとくきえうせて。かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとゞまり ける。現にも久しき念のこゝに消じつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこ そ。されば禅師の大徳雲の裏海の外にも聞えて。初祖の肉いまだ乾かずとぞ称歎しけ るとなり。かくて里人あつまりて。寺内を清め。修理をもよほし。禅師を推たふとみ てこゝに住しめけるより。故の密宗をあらためて。曹洞の霊場をひらき給ふ。今なほ 御寺はたふとく栄えてありけるとなり

[_]
[1]The Ueda Akinari Zenshu reads 見ゆべからぬ理りなるかな。