University of Virginia Library

3.5. 佛法僧

うらやすの國ひさしく。民作業をたのしむあまりに。春は花の下に息らひ。秋は錦の 林を尋ね。しらぬ火の筑紫路もしらではと械まくらする人の。富士筑紫の嶺/\を心 にしむるぞそゞろなるかな。伊勢の相可といふ郷に。拝志氏の人。世をはやく嗣に譲 り。忌こともなく頭おろして。名を夢然とあらため従來身に病さへなくて。彼此の旅 寝を老のたのしみとする。季子作之治なるものが生長の頑なるをうれひて。京の人見 するとて。一月あまり二条の別業に逗まりて。三月の末吉野の奥の花を見て。知れる 寺院に七日はかりかたらい。此ついでにいまだ高野山を見ず。いざとて。夏のはじめ 青葉の茂みをわけつゝ。天の川といふより踰て。摩尼の御山にいたる。道のゆくての 嶮しきになづみて。おもはずも日かたふきぬ。壇場。諸堂霊廟。残りなく拝みめぐり て。こゝに宿からんといへど。ふつに答ふるものなし。そこを行人に所の掟をきけば。 寺院僧坊に便なき人は。麓にくだりて明すべし。此山すべて旅人に一夜をかす事なし とかたる。いかゞはせん。さすがにも老の嶮しき山路を來しがうへに。事のよしを聞 きて大きに心倦つかれぬ。作之治がいふ。日もくれ。足も痛みて。いかゞしてあまた のみちをくだらん。弱き身は草に臥とも厭ひなし。只病給はん事の悲しさよ。夢然云。 旅はかゝるをこそ哀れともいふなれ。今夜脚をやぶり。倦つかれて山をくだるともお のが古郷にもあらず。翌のみち又はかりがたし。此山は扶桑第一の霊場。大師の廣徳 かたるに尽ず。殊にも來りて通夜し奉り。後世の事たのみ聞ゆべきに。幸の時なれば。 霊廟に夜もすがら法施したてまつるべしとて。杉の下道のをぐらきを行/\。霊廟の 前なる燈篭堂の簀子に上りて。雨具うぢ敷座をまうけて。閑に念仏しつゝも。夜の更 ゆくをわびてぞある。方五十町に開きて。あやしげなる林も見えず。小石だも掃ひし 福田ながら。さすがにこゝは寺院遠く。陀羅尼鈴錫の音も聞えず。木立は雲をしのぎ て茂さび。道に界ふ水の音ほそ%\と清わたりて物がなしき。寝られぬまゝに夢然か たりていふ。そも/\大師の神化。土石草木も霊を啓きて。八百とせあまりの今にい たりて。いよゝあらたに。いよゝたふとし。遺芳歴踪多きが中に。此山なん第一の道 場なり。太師いまぞかりけるむかし。遠く唐土にわたり給ひ。あの國にて感させ給ふ 事おはして。此三鈷のとゞまる所我道を揚る霊地なりとて。杳冥にむかひて抛させ給 ふが。はた此山にとゝまりぬる。壇場の御前なる三鈷の松こそ此物の落とゞまりし地 なりと聞。すべて此山の草木泉石霊ならざるはあらすとなん。こよひ不思議にもこゝ に一夜をかりたてまつる事。一世ならぬ善縁なり。なんぢ弱きとて努/\信心をこた るべからずと。小やかにかたるも清て心ぼそし。御廟のうしろの林にと覚えて。仏法 /\となく鳥の音山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして。あなめづらし。 あの啼鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此山に栖つるとは聞しかど。まさに其音を 聞しといふ人もなきに。こよひのやどりまことに滅罪生善の祥なるや。かの鳥は清浄 の地をえらみてすめるよしなり。上野の國迦葉山。下野の國二荒山。山城の醍醐の峯。 河内の杵長山。就中此山にすむ事。大師の詩偈ありて世の人よくしれり

寒林獨坐草堂暁三寳之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心性心雲水倶了々

又ふるき歌に

松の尾の峯静なる曙にあふぎて聞けば佛法僧啼

むかし最福寺の延朗法師は世にならびなき法華者なりしほどに。松の尾の御神此鳥を して常に延朗につかへしめ給ふよしをいひ傳ふれば。かの神垣にも巣よしは聞えぬ。 こよひの竒妙既に一鳥聲あり。我こゝにありて心なからんやとて。平生のたのしみと する俳諧風の十七言を。しばしうちかたふいていひ出ける

鳥の音も秘密の山の茂みかな

旅硯とり出て御燈の光に書つけ。今一聲もかなと耳を倚るに。思ひがけずも遠く寺院 の方より。前を追ふ聲の厳敷聞えて。やゝ近づき來たり。何人の夜深て詣給ふやと。 異しくも恐しく。親子顔を見あはせて息をつめ。そなたをのみまもり居るに。はや前 駆の若侍橋板をあらゝかに踏てこゝに來る。おどろきて堂の右に潜みかくるゝを。武 士はやく見つけて。何者なるぞ。殿下のわたらせ給ふ。疾下りよといふに。あはたゝ しく簀子をくだり。土に俯して跪まる。程なく多くの足音聞ゆる中に。沓音高く響て。 烏帽子直衣めしたる貴人堂に上り給へば。従者の武士四五人ばかり左右に座をまうく。 かの貴人人々に向ひて。誰/\はなど來らざると課せらるゝに。やがてぞ参りつらめ と奏す。又一群の足音して。威儀ある武士。頭まろけたる入道等うち交りて。禮たて まつりて堂に昇る。貴人只今來りし武士にむかひて。常陸は何とておそく参りたるぞ とあれば。かの武士いふ。白江熊谷の両士。公に大御酒すゝめたてまつるとて実やか なるに。臣も鮮き物一種調じまいらせんため。御従に後れたてまつりぬと奏す。はや くさかなをつらねてすゝめまいらすれば。万作酌まゐれとぞ課せらる。恐まりて。美 相の若士膝行よりて瓶子を捧ぐ。かなたこなたに杯をめぐらしていと興ありげなり。 貴人又日はく。絶て紹巴が説話を聞ず。召せとの給ふに。呼つぐやうなりしが。我跪 まりし背の方より。大なる法師の。面うちひらめきて。目鼻あざやかなる人の。僧衣 かいつくろひて座の末にまゐれり。貴人古語かれこれ問弁へ給ふに。詳に答へたてま つるを。いと/\感させ給ふて。他に録とらせよとの給ふ。一人の武士かの法師に問 ていふ。此山は大徳の啓き給ふて。土石草木も霊なきはあらずと聞。さるに玉川の流 には毒あり。人飲時は斃るが故に。大師のよませ給ふ哥とて

わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水

といふことを聞傳へたり。大徳のさすがに。此毒ある流をばなど涸ては果し給はぬや。 いぶかしき事を足下にはいかに弁へ給う。法師笑をふくみていふは。此哥は風雅集に 撰み入給ふ。其端詞に。高野の奥の院へまゐる道に。玉川といふ河の水上に毒虫おほ かりけれは。此流を飲まじきよしをしめしおきて後よみ侍りけるとことわらせ給へば。 足下のおぼえ給ふ如くなり。されど今の御疑ひ僻事ならぬは。大師は神通自在にして 隠神を役して道なきをらひらき。巖を鐫には土を穿よりも易く。大蛇を禁しめ。化鳥 を奉仕しめ給ふ事。天が下の人の仰ぎたてまつる功なるを思ふには。此哥の端の詞ぞ まことしからね。もとより此玉河てふ川は國/\にありて。いづれをよめる歌も其流 もきよきを誉しなるを思へば。こゝの玉川も毒ある流にはあらで。哥の意も。かばか り名に負河の此山にあるを。こゝに詣づる人は忘る/\も。流れの清きに愛て手に掬 びつらんとよませ給ふにやあらんを。後の人の毒ありといふ狂言より。此端詞はつく りなせしものかとも思はるゝなり。又深く疑ふときには。此歌の調今の京の初の口風 にもあらず。おほよそ此國の古語に。玉蘰玉簾珠衣の類は。形をほめ清きを賞る語な るから。清水をも玉水玉の井玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど玉てふ語は冠ら しめん。強に佛をたふとむ人の。歌の意に細妙からぬは。これほどの訛は幾らをもし いづるなり。足下は歌よむ人にもおはせで。此歌の意異しみ給ふは用意ある事こそと 篤く感にける。貴人をはじめ人々も此ことわりを頻りに感させ給ふ。御堂のうしろの 方に仏法/\と啼音ちかく聞ゆるに。貴人杯をあげ給ひて。例の鳥絶て鳴ざりしに。 今夜の酒宴に栄あるぞ。紹巴いかにと課せ給ふ。法師かしこまりて。某が短句公にも 御耳すゝびましまさん。こゝに旅人の通夜しけるが。今の夜の俳諧風をまうして侍る。 公にはめづらしくおはさんに召て聞せ給へといふ。それ召せと課せらるゝに。若きさ むらひ夢然が方へむかひ。召給ふぞちかうまゐれと云。夢現ともわかで。おそろしさ のまゝに御まのあたりへはひ出る。法師夢然にむかひ。前によみつる詞を公に申上げ よといふ。夢然恐る/\。何をか申つる更に覚え侍らず。只赦し給はれと云。法師か さねて。秘密の山とは申さゞるや。殿下の問せ給ふ。いそぎ申上よといふ。夢然いよ /\恐れて。殿下と課せ出され侍るは誰にてわたらせ給ひ。かゝる深山に夜宴をもよ ほし給ふや。更にいぶかしき事に侍といふ。法師答へて。殿下と申奉るは関白秀次公 にてわたらせ給ふ。人々は木村常陸介。雀部淡路。白江備後。熊谷大膳。粟野杢。日 比野下野。山口少雲。丸毛不心。隆西入道。山本主殿。山田三十郎。不破万作。かく 云は紹巴法橋なり汝等不思議の御目見えつかまつりたるは。前のことばいそぎ申上げ よといふ。頭に髪あらばふとるべきばかりに凄しく肝魂も虚にかへるこゝちして。振 ふ/\。頭陀嚢より清き紙取出て。筆もしどろに書つけてさし出すを。主殿取てたか く吟じ上る

鳥の音も秘密の山の茂みかな

貴人聞せ給ひて。口がしこくもつかまつりしな。誰此末句をまうせとのたまふに。山 田三十郎座をすゝみて。某つかうまつらんとて。しばしうちかたふきてかくなん

芥子たき明すみじか夜の牀

いかゞあるべきと紹巴に見する。よろしくまうされたりと公の前に出すを見給ひて。 片羽にもあらぬはと興じ給ひて。又杯を揚てめぐらし給ふ。淡路と聞えし人にはかに 色を違へて。はや修羅の時にや。阿修羅ども御迎ひに來ると聞え侍る。立せ給へとい へば。一座の人々忽面に血を潅ぎし如く。いざ石田増田が徒に今夜も泡吹せんと勇み 立躁ぐ。秀次木村に向はせ給ひ。よしなき奴に我姿を見せつるぞ。他二人も修羅につ れ來れと課せある。老臣の人々かけ隔たりて聲をそろへ。いまだ命つきざる者なり。 例の悪業なさせ給ひそといふ詞も。人々の形も。遠く雲井に行がごとし。親子は気絶 てしばしがうち死入けるが。しのゝめの明ゆく空に。ふる露の冷やかなるに生出しか ど。いまだ明きらぬ恐ろしさに。大師の御名をせはしく唱へつゝ。漸日出ると見て。 いそぎ山をくだり。京にかへりて薬鍼の保養をなしける。一日夢然三条の橋を過る時。 悪ぎやく塚の事思ひ出るより。かの寺眺られて白昼ながら物凄しくありけると。京人 にかたりしを。そがまゝにしるしぬ