薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||
五 舟
「
※ ( かぶと ) に巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も 覚 ( さ ) むべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を 仆 ( たお ) して、引き挙ぐる 間際 ( まぎわ ) に始めてわが名をなのる。驚く人の 醒 ( さ ) めぬ 間 ( ま ) を、ラヴェンと共に 埒 ( らち ) を出でたり。行く末は 勿論 ( もちろん ) アストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。「ランスロット?」と父は驚きの 眉 ( まゆ ) を張る。女は「あな」とのみ髪に 挿 ( さ ) す花の色を 顫 ( ふる ) わす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの 槍 ( やり ) を受け損じてか、 鎧 ( よろい ) の胴を二寸 下 ( さが ) りて、左の 股 ( また ) に 創 ( きず ) を負う……」
「深き創か」と女は 片唾 ( かたず ) を呑んで、懸念の眼を
※ ( みは ) る。「 鞍 ( くら ) に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、 蒼 ( あお ) き 夕 ( ゆうべ ) を草深き原のみ行けば、馬の 蹄 ( ひづめ ) は露に 濡 ( ぬ ) れたり。――二人は 一言 ( ひとこと ) も 交 ( か ) わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを 偲 ( しの ) ぶ。風渡る 梢 ( こずえ ) もなければ馬の 沓 ( くつ ) の地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十 哩 ( マイル ) じゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬の 頭 ( かしら ) を右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの 方 ( かた ) へ―― 後 ( あと ) より呼ぶわれを顧みもせで 轡 ( くつわ ) を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも 嘶 ( いなな ) ける事なり。嘶く声の 果 ( はて ) 知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の 足掻 ( あがき ) の常の如く、わが 手綱 ( たづな ) の思うままに運びし時は、ランスロットの影は、 夜 ( よ ) と共に 微 ( かす ) かなる奥に消えたり。――われは鞍を 敲 ( たた ) いて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声を 揃 ( そろ ) えて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、 闇 ( やみ ) 押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに 鞭 ( むちう ) って長き路を一散に 馳 ( か ) け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる 真似 ( まね ) して行く。 幽 ( かす ) かに聞えたるは 轡 ( くつわ ) の音か。怪しきは差して急げる様もなきに 容易 ( たやす ) くは追い付かれず。 漸 ( ようや ) くの事 間 ( あいだ ) 一丁ほどに 逼 ( せま ) りたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。 合点 ( がてん ) 行かぬわれは 益 ( ますます ) 追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか 躓 ( つまず ) きて前足を折る。 騎 ( の ) るわれは 鬣 ( たてがみ ) をさかに 扱 ( こ ) いて前にのめる。 戞 ( かつ ) と打つは石の上と心得しに、われより先に 斃 ( たお ) れたる人の 鎧 ( よろい ) の袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は 魂 ( たま ) 消 ( ぎ ) ゆるほどの声に、椅子の 端 ( はじ ) を握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の 袂 ( たもと ) の柳の 裏 ( うち ) に、人住むとしも見えぬ 庵室 ( あんしつ ) あるを、試みに敲けば、世を 逃 ( のが ) れたる隠士の 居 ( きょ ) なり。幸いと冷たき人を 担 ( かつ ) ぎ入るる。 兜 ( かぶと ) を脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを 蘇 ( よみがえ ) してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と 択 ( えら ) ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の 香 ( かお ) りも、煮えたる 頭 ( かしら ) には一点の涼気を吹かず。……」
「 枕辺 ( まくらべ ) にわれあらば」と 少女 ( おとめ ) は思う。
「 一夜 ( いちや ) の 後 ( のち ) たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の 眠 ( ねむり ) 覚めて、病む人の顔色の、 今朝 ( けさ ) 如何 ( いかが ) あらんと 臥所 ( ふしど ) を 窺 ( うかが ) えば―― 在 ( あ ) らず。 剣 ( つるぎ ) の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」
「 逃 ( のが ) れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。 茫々 ( ぼうぼう ) と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は 極 ( きわ ) めがたければ、 独 ( ひと ) り帰り来ぬ。――隠士はいう、 病 ( やまい ) 怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る 方 ( かた ) はカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは 確 ( しか ) と、さは思わず」と語り終って 盃 ( さかずき ) に盛る苦き酒を一息に飲み干して 虹 ( にじ ) の如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
花に戯むるる 蝶 ( ちょう ) のひるがえるを見れば、春に 憂 ( うれい ) ありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ 闇 ( やみ ) に隠るる 宵 ( よい ) を思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の 爪 ( つめ ) ほど 小 ( ちいさ ) きものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに 甲斐 ( かい ) なき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは 淋 ( さび ) しかろう。エレーンは長くは持たぬ。
エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が 跪 ( ひざま ) ずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、 地 ( じ ) は黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれと念ずる思いの、いつか心の 裏 ( うち ) を抜け出でて、かくの通りと盾の表にあらわれるのであろう。かくありて後と、あらぬ 礎 ( いしずえ ) を一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を 蹴 ( け ) 返 ( かえ ) す時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが 傍 ( そば ) にあるべき 所謂 ( いわれ ) はなし。離るるとも、 誓 ( ちかい ) さえ 渝 ( かわ ) らずば、千里を繋ぐ 牽 ( ひ ) き 綱 ( つな ) もあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙が 溢 ( あふ ) れる。
涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には 洩 ( も ) れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は 褪 ( あ ) せる。
死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって 易 ( やす ) きかとも思う。 罌粟 ( けし ) 散るを 憂 ( う ) しとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
衰えは春野焼く火と小さき胸を 侵 ( お ) かして、 愁 ( うれい ) は衣に堪えぬ 玉骨 ( ぎょっこつ ) を 寸々 ( すんずん ) に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと 貪 ( むさぼ ) る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、 束 ( つか ) の 間 ( ま ) の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く 蕾 ( つぼみ ) の中にも 恨 ( うらみ ) はあり。 円 ( まる ) く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの 文 ( ふみ ) かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「 天 ( あめ ) が 下 ( した ) に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。 陽炎 ( かげろう ) 燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、 土水 ( どすい ) の因果を受くる 理 ( ことわり ) なしと思えば。 睫 ( まつげ ) に宿る露の 珠 ( たま ) に、写ると見れば砕けたる、君の面影の 脆 ( もろ ) くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば 濺 ( そそ ) げ。 基督 ( キリスト ) も知る、死ぬるまで清き 乙女 ( おとめ ) なり」
書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の 顫 ( ふる ) えたるは、 老 ( おい ) のためとも 悲 ( かなしみ ) のためとも知れず。
女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの 文 ( ふみ ) を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき 衣 ( きぬ ) にわれを着飾り給え。 隙間 ( すきま ) なく黒き布しき詰めたる 小船 ( こぶね ) の中にわれを載せ給え。山に野に白き 薔薇 ( ばら ) 、白き 百合 ( ゆり ) を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く 期 ( ご ) なし。父と兄とは 唯々 ( いい ) として遺言の 如 ( ごと ) く、憐れなる 少女 ( おとめ ) の 亡骸 ( なきがら ) を舟に運ぶ。
古き江に 漣 ( さざなみ ) さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り 罩 ( こ ) むる陰を離れて中流に 漕 ( こ ) ぎ 出 ( い ) づる。 櫂操 ( かいあやつ ) るはただ一人、白き髪の白き 髯 ( ひげ ) の 翁 ( おきな ) と見ゆ。ゆるく 掻 ( か ) く水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ 睡蓮 ( すいれん ) の睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。 蕚 ( うてな ) 傾けて舟を通したるあとには、 軽 ( かろ ) く 曳 ( ひ ) く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の 静 ( しずけ ) さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
舟は 杳然 ( ようぜん ) として 何処 ( いずく ) ともなく去る。美しき 亡骸 ( なきがら ) と、美しき 衣 ( きぬ ) と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人を 鞭 ( むちう ) って 起 ( た ) たしめたるか、櫂を動かす腕の 外 ( ほか ) には 活 ( い ) きたる所なきが如くに見ゆる。
と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く 悠然 ( ゆうぜん ) と水を練り行く。長き 頸 ( くび ) の高く 伸 ( の ) したるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を 傍目 ( わきめ ) もふらず、 舳 ( へさき ) に立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の 羽 ( は ) に裂けたる波の合わぬ 間 ( ま ) を 随 ( したが ) う。両岸の柳は青い。
シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の 寂寞 ( じゃくまく ) を破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音はあとを引いて、引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、 艫 ( とも ) に坐る翁のみ。翁は耳さえ借さぬ。ただ長き櫂をくぐらせてはくぐらする。思うに 聾 ( つんぼ ) なるべし。
空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を 挟 ( はさ ) む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて 濛々 ( もうもう ) と烟る。 娑婆 ( しゃば ) と 冥府 ( めいふ ) の 界 ( さかい ) に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの 気色 ( けしき ) である。 画 ( え ) に似たる 少女 ( おとめ ) の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。
舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く 峙 ( そばだ ) てる楼閣の黒く水に映るのが 物凄 ( ものすご ) い。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、城中の 男女 ( なんにょ ) が 悉 ( ことごと ) く集まる。
エレーンの 屍 ( しかばね ) は 凡 ( すべ ) ての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる 黄金 ( こがね ) の髪に 埋 ( うず ) めて、笑える如く 横 ( よこた ) わる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を 拭 ( ぬぐ ) い去って、霊その物の面影を 口鼻 ( こうび ) の間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に 忌 ( いま ) わしきものの 痕 ( あと ) なければ土に帰る人とは見えず。
王は 厳 ( おごそ ) かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は 唖 ( おうし ) の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を 下 ( くだ ) りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る 文 ( ふみ ) を取り上げて何事と封を切る。
悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き 徹 ( とお ) るエレーンの額に、 顫 ( ふる ) えたる唇をつけつつ「美くしき少女!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
十三人の騎士は目と目を見合せた。
薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||