薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||
一 夢
百、二百、 簇 ( むら ) がる騎士は数をつくして北の 方 ( かた ) なる試合へと急げば、石に 古 ( ふ ) りたるカメロットの 館 ( やかた ) には、ただ王妃ギニヴィアの長く 牽 ( ひ ) く 衣 ( ころも ) の 裾 ( すそ ) の 響 ( ひびき ) のみ残る。
薄紅 ( うすくれない ) の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、 裳 ( もすそ ) のみは 軽 ( かろ ) く 捌 ( さば ) く 珠 ( たま ) の 履 ( くつ ) をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる 階 ( きざはし ) の正面には大いなる花を 鈍色 ( にびいろ ) の奥に織り込める 戸帳 ( とばり ) が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか 聴 ( き ) く。聴きおわりたる横顔をまた 真向 ( まむこう ) に 反 ( か ) えして石段の下を鋭どき眼にて 窺 ( うかが ) う。 濃 ( こま ) やかに 斑 ( ふ ) を流したる大理石の上は、ここかしこに白き 薔薇 ( ばら ) が暗きを 洩 ( も ) れて 和 ( やわら ) かき 香 ( かお ) りを放つ。君見よと 宵 ( よい ) に贈れる花輪のいつ 摧 ( くだ ) けたる 名残 ( なごり ) か。しばらくはわが足に 纏 ( まつ ) わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、 屹 ( き ) と立ち直りて、 繊 ( ほそ ) き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、 眩 ( まば ) ゆき光り矢の如く向い側なる 室 ( しつ ) の中よりギニヴィアの 頭 ( かしら ) に 戴 ( いただ ) ける冠を照らす。輝けるは 眉間 ( みけん ) に 中 ( あた ) る金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を 憚 ( はば ) かり、地を憚かる中に、身も世も 入 ( い ) らぬまで力の 籠 ( こも ) りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を 畏 ( おそ ) れず。
「ギニヴィア!」と 応 ( こた ) えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば 埋 ( うず ) めてまた 捲 ( ま ) き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、 頬 ( ほお ) の色は 釣 ( つ ) り合わず 蒼白 ( あおじろ ) い。
女は幕をひく手をつと放して内に 入 ( い ) る。 裂目 ( さけめ ) を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ 際立 ( きわだ ) ちて見える。左右に開く廻廊には 円柱 ( まるばしら ) の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の 方 ( かた ) なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる 眉 ( まゆ ) に晴れがたき雲の 蟠 ( わだか ) まりて、弱き 笑 ( わらい ) の 強 ( し ) いて 憂 ( うれい ) の 裏 ( うち ) より洩れ 来 ( きた ) る。
「贈りまつれる薔薇の 香 ( か ) に 酔 ( え ) いて」とのみにて男は高き窓より表の 方 ( かた ) を見やる。折からの五月である。館を 繞 ( めぐ ) りて 緩 ( ゆる ) く 逝 ( ゆ ) く江に千本の柳が明かに影を
※ ( ひた ) して、空に 崩 ( くず ) るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて 木 ( こ ) の 間 ( ま ) 隠れに白く ※ ( ひ ) く筋の、 一縷 ( いちる ) の糸となって 烟 ( けむり ) に入るは、立ち 上 ( のぼ ) る朝日影に 蹄 ( ひづめ ) の 塵 ( ちり ) を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の 方 ( かた ) へと飛ばせたる本道である。「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る 憂 ( う ) き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの 縁 ( えにし ) とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、 珊瑚 ( さんご ) の唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に 堰 ( せ ) かるるあの世までも 渝 ( かわ ) らじ」と男は黒き 瞳 ( ひとみ ) を返して女の顔を 眤 ( じっ ) と見る。
「さればこそ」と女は右の手を高く 挙 ( あ ) げて広げたる 掌 ( てのひら ) を 竪 ( たて ) にランスロットに向ける。 手頸 ( てくび ) を 纏 ( まと ) う 黄金 ( こがね ) の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の 香 ( か ) に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。 束 ( つか ) の間に危うきを 貪 ( むさぼ ) りて、長き 逢 ( お ) う 瀬 ( せ ) の 淵 ( ふち ) と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、 戛然 ( かつぜん ) と瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の 叶 ( かな ) わばこの黄金、この 珠玉 ( たま ) の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる 様 ( さま ) である。白き 腕 ( かいな ) のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに 靡 ( なび ) きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の 袖 ( そで ) は、胸を過ぎてより豊かなる 襞 ( ひだ ) を描がいて、裾は強けれども 剛 ( かた ) からざる線を三筋ほど 床 ( ゆか ) の上まで引く。ランスロットはただ 窈窕 ( ようちょう ) として眺めている。前後を 截断 ( せつだん ) して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
機微の 邃 ( ふか ) きを照らす鏡は、女の 有 ( も ) てる 凡 ( すべ ) てのうちにて、 尤 ( もっと ) も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが 頭 ( かしら ) を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の 疾 ( と ) きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す 蜘蛛 ( くも ) の巣と消えて 剰 ( あま ) すは 嬉 ( うれ ) しき人の 情 ( なさけ ) ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき 間 ( ひま ) に際どく 擦 ( す ) り込む石火の楽みを、 長 ( とこし ) えに 続 ( つ ) づけかしと念じて両頬に 笑 ( えみ ) を 滴 ( したた ) らす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と 少時 ( しばし ) して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の 痕 ( あと ) を追い懸けて病 癒 ( い ) えぬと申し給え。この頃の 蔭口 ( かげぐち ) 、二人をつつむ 疑 ( うたがい ) の雲を晴し給え」
「さほどに人が 怖 ( こわ ) くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き 室 ( しつ ) の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この 帳 ( とばり ) の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって 寂寞 ( じゃくまく ) の 故 ( もと ) に帰る。
「 宵 ( よべ ) 見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には 忽 ( たちま ) ち 紅 ( こう ) 落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心 躁 ( さわ ) ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に 臥 ( ふ ) したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一 疋 ( ぴき ) の蛇は 黄金 ( こがね ) の 鱗 ( うろこ ) を細かに身に刻んで、 擡 ( もた ) げたる 頭 ( かしら ) には 青玉 ( せいぎょく ) の 眼 ( がん ) を 嵌 ( は ) めてある。
「わが冠の肉に 喰 ( く ) い入るばかり焼けて、頭の上に 衣 ( きぬ ) 擦 ( す ) る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を 繞 ( めぐ ) りて動き出す。頭は君の 方 ( かた ) へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る 間 ( ま ) に、君とわれは 腥 ( なまぐ ) さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに 術 ( すべ ) なし。たとい 忌 ( いま ) わしき 絆 ( きずな ) なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる 心遣 ( こころや ) りなりき。 囓 ( か ) まるるとも 螫 ( さ ) さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の 紅 ( くれない ) なるが、めらめらと燃え 出 ( いだ ) して、 繋 ( つな ) げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる 一尋 ( ひとひろ ) 余りは、 真中 ( まなか ) より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき 臭 ( にお ) いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて 失 ( う ) せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は 醒 ( さ ) めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、 宵 ( よべ ) の名残かと骨を 撼 ( ゆる ) がす」と落ち付かぬ眼を長き 睫 ( まつげ ) の裏に隠してランスロットの 気色 ( けしき ) を 窺 ( うかが ) う。七十五度の闘技に、馬の 脊 ( せ ) を 滑 ( すべ ) るは無論、 鐙 ( あぶみ ) さえはずせる事なき勇士も、この夢を 奇 ( く ) しとのみは思わず。快からぬ眉根は 自 ( おのずか ) ら 逼 ( せま ) りて、結べる口の奥には歯さえ喰い 締 ( し ) ばるならん。
「さらば行こう。 後 ( おく ) れ 馳 ( ば ) せに北の 方 ( かた ) へ行こう」と 拱 ( こまぬ ) いたる手を振りほどいて、六尺二寸の 躯 ( からだ ) をゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと 踵 ( くびす ) を 回 ( めぐ ) らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき 百合 ( ゆり ) の 花弁 ( はなびら ) をひたふるに吸える心地である。ランスロットは 後 ( あと ) をも見ずして石階を馳け降りる。
やがて三たび馬の 嘶 ( いなな ) く 音 ( ね ) がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは 高殿 ( たかどの ) を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に 倚 ( よ ) りて、かの人の 出 ( いづ ) るを遅しと待つ。黒き馬の 鼻面 ( はなづら ) が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を 掠 ( かす ) めて砕くるばかりに石の上に落つる。
槍 ( やり ) の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き 兜 ( かぶと ) と 挿毛 ( さしげ ) のさと 靡 ( なび ) くあとに、残るは 漠々 ( ばくばく ) たる 塵 ( ちり ) のみ。
薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||