薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||
四 罪
アーサーを 嫌 ( きら ) うにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアの 己 ( おの ) れにのみ語る胸のうちである。
北の 方 ( かた ) なる試合果てて、行けるものは皆 館 ( やかた ) に帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の 便 ( たよ ) りは絶えて、思わぬものの
※ ( くつわ ) を連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、 遂 ( つい ) に両手の指を 悉 ( ことごと ) く折り尽して十日に至る 今日 ( こんにち ) までなお帰るべしとの 願 ( ねがい ) を掛けたり。「遅き人のいずこに 繋 ( つな ) がれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる 気色 ( けしき ) もなくいう。
高き 室 ( しつ ) の正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き 毛氈 ( もうせん ) にて 蔽 ( おお ) う。段の上なる、 大 ( おおい ) なる 椅子 ( いす ) に豊かに 倚 ( よ ) るがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、 床几 ( しょうぎ ) の上に、 纎 ( ほそ ) き指を組み合せて、 膝 ( ひざ ) より下は長き 裳 ( もすそ ) にかくれて 履 ( くつ ) のありかさえ定かならず。
よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ 躍 ( おど ) るを。話しの種の思う坪に 生 ( は ) えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「 後 ( おく ) れて行くものは後れて帰る 掟 ( おきて ) か」といい添えて 片頬 ( かたほ ) に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、 錐 ( きり ) に刺されし 痛 ( いたみ ) を受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には 颯 ( さ ) と音がして熱き血を 注 ( さ ) す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの 袖 ( そで ) の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き 挿毛 ( さしげ ) に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る 幾 ( いく ) 日 ( ひ ) を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き 履 ( くつ ) に三たび石の 床 ( ゆか ) を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
夫に 二心 ( ふたごころ ) なきを神の道との 教 ( おしえ ) は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを 嬉 ( うれ ) しと見しも君がためなり。 春風 ( しゅんぷう ) に心なく、花 自 ( おのずか ) ら開く。花に罪ありとは 下 ( くだ ) れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の 明 ( あきらか ) なるは鏡の徳なり。かく観ずる 裡 ( うち ) に、人にも世にも振り 棄 ( す ) てられたる時の 慰藉 ( いしゃ ) はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は 覆 ( くつが ) えされて、 踵 ( くびす ) を 支 ( ささ ) うるに 一塵 ( いちじん ) だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば 咎 ( とが ) も恐れず、世を 憚 ( はばか ) りの 関 ( せき ) 一重 ( ひとえ ) あなたへ越せば、生涯の 落 ( お ) ち 付 ( つき ) はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を 冥府 ( よみ ) へ 隕 ( お ) つる。わが 坐 ( す ) わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床 崩 ( くず ) れて、わが踏む大地の 殻 ( こく ) 裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も 摧 ( くだ ) けよと 圧 ( お ) す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の 悶 ( もだえ ) を人知れぬ 方 ( かた ) へ 洩 ( も ) らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また 己 ( おのれ ) を 誣 ( し ) いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に 咽 ( のど ) を 転 ( まろ ) び 出 ( い ) でたり。
ひく 浪 ( なみ ) の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を 噛 ( か ) む 勢 ( いきおい ) の、前よりは 凄 ( すさま ) じきを、浪 自 ( みずか ) らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、 油然 ( ゆうぜん ) として常よりも切なきわれに 復 ( かえ ) る。何事も解せぬ 風情 ( ふぜい ) に、驚ろきの 眉 ( まゆ ) をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは 少 ( しば ) らく前のアーサーにあらず。
人を 傷 ( きずつ ) けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど 悔 ( くい ) の 甚 ( はなはだ ) しきはあらず。聖徒に向って 鞭 ( むち ) を加えたる非の恐しきは、 鞭 ( むちう ) てるものの身に 跳 ( は ) ね返る罰なきに、 自 ( みずか ) らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは 悚然 ( しょうぜん ) として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、 嫁 ( とつ ) ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、 御身 ( おんみ ) のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、 二十日 ( はつか ) を、帰るを、忘るべきに、 罵 ( のの ) しるは 卑 ( いや ) し」とアーサーは王妃の 方 ( かた ) を見て不審の顔付である。
「美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては 憐 ( あわれ ) を寄せたりとも見えず。
アーサーは椅子に倚る身を半ば 回 ( めぐ ) らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。 丈 ( じょう ) に余る石の十字を深く地に 埋 ( うず ) めたるに、 蔦 ( つた ) 這 ( は ) いかかる春の頃なり。 路 ( みち ) に迷いて 御堂 ( みどう ) にしばし 憩 ( いこ ) わんと入れば、銀に 鏤 ( ちり ) ばむ祭壇の前に、空色の 衣 ( きぬ ) を肩より流して、 黄金 ( こがね ) の髪に雲を起せるは 誰 ( た ) ぞ」
女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。 床 ( ゆか ) しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、 忽然 ( こつぜん ) と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、 凋 ( しお ) れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、 天 ( あま ) つ 下 ( くだ ) れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
逝 ( ゆ ) ける日は追えども帰らざるに逝ける事は 長 ( とこ ) しえに暗きに葬むる 能 ( あた ) わず。思うまじと誓える心に 発矢 ( はっし ) と 中 ( あた ) る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして 何処 ( いずこ ) へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を 抑 ( おさ ) えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は 屍 ( しかばね ) を 抱 ( いだ ) くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、 罵 ( ののし ) る如き幾多の声は次第にアーサーの室に 逼 ( せま ) る。
入口に掛けたる厚き幕は 総 ( ふさ ) に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く 丈 ( たけ ) 高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて 入 ( い ) るはアグラヴェン、 逞 ( たく ) ましき腕の、 寛 ( ゆる ) き袖を洩れて、 赭 ( あか ) き 頸 ( くび ) の、かたく衣の 襟 ( えり ) に 括 ( くく ) られて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の 後 ( あと ) には物色する 遑 ( いとま ) なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを 一人 ( ひとり ) 前に、ずらりと並ぶ、数は 凡 ( すべ ) てにて十二人。何事かなくては 叶 ( かな ) わぬ。
モードレッドは、王に向って会釈せる 頭 ( かしら ) を 擡 ( もた ) げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは 王者 ( おうしゃ ) の事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という 面持 ( おももち ) である。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
アーサーは我とわが胸を 敲 ( たた ) いて「黄金の冠は 邪 ( よこしま ) の頭に 戴 ( いただ ) かず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩に 括 ( くく ) る 緋 ( ひ ) の衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君が 傍 ( かたえ ) に坐せる女をも許さじ」とモードレッドは 臆 ( おく ) する気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの 眉間 ( みけん ) を 指 ( さ ) す。ギニヴィアは 屹 ( き ) と立ち上る。
茫然 ( ぼうぜん ) たるアーサーは雷火に打たれたる 唖 ( おし ) の如く、わが前に立てる人――地を 抽 ( ぬ ) き出でし 巌 ( いわお ) とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を 誣 ( し ) いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。 詐 ( いつわ ) りは天も照覧あれ」と 繊 ( ほそ ) き手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と 鷹 ( たか ) の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は 逃 ( のが ) れず」と口々にいう。
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に 扶 ( たす ) けて「ランスロット!」と 幽 ( かすか ) に叫ぶ。王は迷う。肩に 纏 ( まつ ) わる緋の衣の裏を半ば返して、 右手 ( めて ) の 掌 ( たなごころ ) を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が
石※ ( せきちょう ) に 響 ( ひびき ) を 反 ( かえ ) して、 窈然 ( ようぜん ) と遠く鳴る 木枯 ( こがらし ) の如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、 錆 ( さ ) びたる鉄鎖に 軋 ( きし ) らせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。 只事 ( ただごと ) ではない。 薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||