薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||
二 鏡
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き 台 ( うてな ) の中に只一人住む。 活 ( い ) ける世を鏡の 裡 ( うち ) にのみ知る者に、 面 ( おもて ) を合わす友のあるべき由なし。
春恋し、春恋しと 囀 ( さえ ) ずる鳥の数々に、耳 側 ( そばだ ) てて 木 ( こ ) の 葉 ( は ) 隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。 鮮 ( あざ ) やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、 幽 ( かす ) かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を 掩 ( おお ) うてまた鏡に向う。河のあなたに 烟 ( けぶ ) る柳の、果ては空とも野とも 覚束 ( おぼつか ) なき間より 洩 ( も ) れ 出 ( い ) づる悲しき 調 ( しらべ ) と思えばなるべし。
シャロットの 路 ( みち ) 行く人もまた 悉 ( ことごと ) くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き 髯 ( ひげ ) の 寛 ( ゆる ) き衣を 纏 ( まと ) いて、長き 杖 ( つえ ) の先に小さき 瓢 ( ひさご ) を 括 ( くく ) しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは 頭 ( かしら ) よりただ一枚と思わるる真白の 上衣 ( うわぎ ) 被 ( かぶ ) りて、眼口も手足も 確 ( しか ) と分ちかねたるが、けたたましげに 鉦 ( かね ) 打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは 癩 ( らい ) をやむ人の前世の 業 ( ごう ) を 自 ( みずか ) ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
旅商人 ( たびあきゅうど ) の 脊 ( せ ) に負える 包 ( つつみ ) の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、 珊瑚 ( さんご ) 、 瑪瑙 ( めのう ) 、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の 眸 ( ひとみ ) には映ぜぬ。
古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして 択 ( えら ) ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに 永 ( なが ) く 停 ( とど ) まる事は天に 懸 ( かか ) る日といえども 難 ( かた ) い。 活 ( い ) ける世の影なればかく 果 ( は ) 敢 ( か ) なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に 馳 ( か ) けよりて思うさま鏡の 外 ( ほか ) なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に 呪 ( のろ ) いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに 跼蹐 ( きょくせき ) せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み 倦 ( う ) めば山に 遯 ( のが ) るる心安さもあるべし。鏡の 裏 ( うち ) なる狭き宇宙の小さければとて、 憂 ( う ) き事の降りかかる十字の 街 ( ちまた ) に立ちて、行き 交 ( か ) う人に気を配る 辛 ( つ ) らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、 万頃 ( ばんけい ) の乱れは 永劫 ( えいごう ) を極めて尽きざるを、渦 捲 ( ま ) く中に 頭 ( かしら ) をも、手をも、足をも 攫 ( さら ) われて、行くわれの 果 ( はて ) は知らず。かかる人を賢しといわば、高き 台 ( うてな ) に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは 阿呆 ( あほう ) の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の 助 ( たすけ ) にて、よそながら 窺 ( うかが ) う世なり。 活殺生死 ( かっさつしょうじ ) の 乾坤 ( けんこん ) を 定裏 ( じょうり ) に 拈出 ( ねんしゅつ ) して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を 躁 ( さわ ) がして窓の 外 ( そと ) なる下界を見んとする。
鏡の長さは五尺に足らぬ。 黒鉄 ( くろがね ) の黒きを 磨 ( みが ) いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る 鑑 ( かがみ ) の霧を含みて、 芙蓉 ( ふよう ) に 滴 ( した ) たる音を 聴 ( き ) くとき、 対 ( むか ) える人の身の上に危うき事あり。
※然 ( けきぜん ) と 故 ( ゆえ ) なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人 末期 ( まつご ) の覚悟せよ。――シャロットの女が 幾年月 ( いくとしつき ) の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。 朝 ( あした ) に向い 夕 ( ゆうべ ) に向い、日に向い月に向いて、 厭 ( あ ) くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする 虞 ( おそれ ) ありとは夢にだも知らず。 湛然 ( たんぜん ) として音なき秋の水に臨むが如く、 瑩朗 ( えいろう ) たる 面 ( おもて ) を過ぐる 森羅 ( しんら ) の影の、 繽紛 ( ひんぷん ) として去るあとは、太古の色なき 境 ( さかい ) をまのあたりに現わす。無限上に徹する 大空 ( たいくう ) を鋳固めて、打てば音ある五尺の 裏 ( うち ) に 圧 ( お ) し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の 傍 ( そば ) に坐りて、夜ごと日ごとの
※ ( はた ) を織る。ある時は明るき ※ ( はた ) を織り、ある時は暗き ※ ( はた ) を織る。シャロットの女の投ぐる 梭 ( ひ ) の音を聴く者は、 淋 ( さび ) しき 皐 ( おか ) の上に立つ、高き 台 ( うてな ) の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき 代 ( よ ) にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の 住居 ( すまい ) である。 蔦 ( つた ) 鎖 ( とざ ) す古き窓より 洩 ( も ) るる梭の音の、 絶間 ( たえま ) なき 振子 ( しんし ) の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。 静 ( しずか ) なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも 勝 ( まさ ) る。恐る恐る高き台を見上げたる 行人 ( こうじん ) は耳を 掩 ( おお ) うて走る。
シャロットの女の織るは不断の
※ ( はた ) である。草むらの 萌草 ( もえぐさ ) の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る 浪 ( なみ ) の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き 地 ( じ ) に、燃ゆる 焔 ( ほのお ) の色にて十字架を描く。 濁世 ( じょくせ ) にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる 経緯 ( たてよこ ) の目にも入ると覚しく、焔のみは ※ ( はた ) を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は 焚 ( や ) け落つるかと怪しまれて明るい。恋の糸と 誠 ( まこと ) の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを 経 ( たて ) に怒りを 緯 ( よこ ) に、 霰 ( あられ ) ふる 木枯 ( こがらし ) の夜を織り明せば、荒野の中に白き 髯 ( ひげ ) 飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき 紅 ( くれない ) と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、 温和 ( おとな ) しき黄と思い上がれる紫を 交 ( かわ ) る 交 ( がわ ) るに畳めば、魔に誘われし 乙女 ( おとめ ) の、 我 ( われ ) は 顔 ( がお ) に高ぶれる 態 ( さま ) を写す。長き 袂 ( たもと ) に雲の如くにまつわるは人に言えぬ 願 ( ねがい ) の糸の乱れなるべし。
シャロットの女は 眼 ( まなこ ) 深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の 上 ( のぼ ) りてより、刻を盛る砂時計の 九 ( ここの ) たび落ち尽したれば、今ははや 午 ( ひる ) 過ぎなるべし。窓を射る日の 眩 ( まば ) ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ 洞窟 ( どうくつ ) の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。 右手 ( めて ) より投げたる 梭 ( ひ ) を 左手 ( ゆんで ) に受けて、女はふと鏡の 裡 ( うち ) を見る。 研 ( と ) ぎ澄したる 剣 ( つるぎ ) よりも寒き光の、 例 ( いつも ) ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに―― 底事 ( なにごと ) ぞ!音なくて 颯 ( さ ) と曇るは霧か、鏡の 面 ( おもて ) は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて 往 ( ゆ ) きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の 瞼 ( まぶた ) は黒き 睫 ( まつげ ) と共に 微 ( かす ) かに 顫 ( ふる ) えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は 一刷 ( いっさつ ) に晴れて、河も柳も人影も元の如くに 見 ( あら ) われる。梭は再び動き出す。
女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
うつせみの世を、
うつつに住めば、
住みうからまし、
むかしも今も。」
うつくしき恋、
うつす鏡に、
色やうつろう、
朝な夕なに。」
鏡の中なる 遠柳 ( とおやなぎ ) の枝が風に 靡 ( なび ) いて動く 間 ( あいだ ) に、 忽 ( たちま ) ち 銀 ( しろがね ) の光がさして、熱き 埃 ( ほこ ) りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を 覘 ( ねら ) う 鷲 ( わし ) の如くに、影とは知りながら 瞬 ( またた ) きもせず鏡の 裏 ( うち ) を 見 ( み ) 詰 ( つむ ) る。十 丁 ( ちょう ) にして尽きた柳の 木立 ( こだち ) を風の如くに 駈 ( か ) け抜けたものを見ると、鍛え上げた 鋼 ( はがね ) の 鎧 ( よろい ) に満身の日光を浴びて、同じ 兜 ( かぶと ) の 鉢金 ( はちがね ) よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ
※々 ( さんさん ) と靡かしている。 栗毛 ( くりげ ) の 駒 ( こま ) の 逞 ( たくま ) しきを、 頭 ( かしら ) も胸も 革 ( かわ ) に 裹 ( つつ ) みて飾れる 鋲 ( びょう ) の数は 篩 ( ふる ) い落せし秋の夜の 星宿 ( せいしゅく ) を一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を 据 ( す ) える。曲がれる 堤 ( どて ) に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に 盾 ( たて ) を懸けたり。女は 領 ( えり ) を延ばして盾に描ける模様を 確 ( しか ) と見分けようとする 体 ( てい ) であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける 勢 ( いきおい ) で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず 梭 ( ひ ) を 抛 ( な ) げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは 兜 ( かぶと ) の 廂 ( ひさし ) の下より 耀 ( かがや ) く眼を放って、シャロットの高き 台 ( うてな ) を見上げる。 爛々 ( らんらん ) たる騎士の眼と、針を 束 ( つか ) ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の 裡 ( うち ) にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の 傍 ( そば ) に 馳 ( か ) け寄って 蒼 ( あお ) き顔を半ば世の中に突き 出 ( いだ ) す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
ぴちりと音がして 皓々 ( こうこう ) たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる 面 ( おもて ) は再びぴちぴちと氷を砕くが如く 粉 ( こな ) 微塵 ( みじん ) になって 室 ( しつ ) の中に飛ぶ。 七巻 ( ななまき ) 八巻 ( やまき ) 織りかけたる 布帛 ( きぬ ) はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、 千切 ( ちぎ ) れ、解け、もつれて 土 ( つち ) 蜘蛛 ( ぐも ) の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが 末期 ( まつご ) の 呪 ( のろい ) を負うて北の 方 ( かた ) へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の 野分 ( のわき ) を受けたる如く、五色の糸と氷を 欺 ( あざむ ) く砕片の乱るる中に
※ ( どう ) と 仆 ( たお ) れる。 薤露行
夏目漱石 (Kairoko) | ||