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15. 拾伍

末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。お常は折々只ぼうっとして空を見ていて、何事も手に附かぬことがある。そんな時には子供の世話も何も出来なくなって、子供が何か欲しいと云えば、すぐにあらあらしく叱る。叱って置いて気が附いて、子供にあやまったり、独りで泣いたりする。女中が飯の菜を何にしようかと問うても、返事をしなかったり、「お前の好いようにおし」と云ったりする。末造の子供は学校では、高利貸の子だと云って、友達に擯斥せられても、末造が綺麗好で、女房に世話をさせるので、目立って清潔になっていたのが、今は五味だらけの頭をして、綻びたままの着物を着て往来で遊んでいることがあるようになった。下女はお上さんがあんなでは困ると、口小言を言いながら、下手の乗っている馬がなまけて道草を食うように、物事を投遣にして、鼠入らずの中で肴が腐ったり、野菜が干物になったりする。

家の中の事を生帳面にしたがる末造には、こんな不始末を見ているのが苦痛でならない。しかしこうなった元は分かっていて、自分が悪いのだと思うので、小言を言うわけにも行かない。それに末造は平生小言を言う場合にも、笑談のように手軽に言って、相手に反省させるのを得意としているのに、その笑談らしい態度が却って女房の機嫌を損ずるように見える。

末造は黙って女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って醒覚したようになって働いていることが多いと云う事である。子供や下女の話を聞いて、この関係を知った時、末造は最初は驚いたが、怜悧な頭で色々に考えて見た。これはする事の気に食わぬ己の顔を見ている間、この頃の病気を出すのだ。己は女房にどうかして夫が冷澹だと思わせまい、疎まれるように感ぜさせまいとしているのに、却って己が内にいる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。こんなつまらぬ事はない。これからは一つ反対にして見ようと末造は思った。

末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰ったりするようになった。しかしその結果は非常に悪かった。早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙って見て いた。遅く帰った時は、最初の度にいつもの拗ねて見せる消極的手段と違って、もう 我慢がし切れない、堪忍袋の緒が切れたと云う風で、「あなた今までどこにいました の」と詰め寄って来た。そして爆発的に泣き出した。その次の度からは早く出ようと すると、「あなた今からどこへ行くのです」と云って、無理に留めようとする。行先 を言えば嘘だと云う。構わずに出ようとすると、是非聞きたい事があるから、ちょい とでも好い、待って貰いたいと云う。着物を掴まえて放さなかったり、玄関に立ち塞 がったり、女中の見る目も厭わずに、出て行くのを妨げようとする。末造は気に食は ぬ事をも笑談のようにして荒立てずに済ます流儀なのに、むしゃぶり附くのを振り放す、女房が倒れると云う不体裁を女中に見られた事もある。そんな時に末造がおとなしく留められて内にいて、さあ、用事を聞こうと云うと、「あなたわたしをどうしてくれる気なの」とか、「こうしていて、わたしの行末はどうなるのでしょう」とか、なかなか一朝一夕に解決の出来ぬ難問題を提出する。要するに末造が女房の病気に試みた早出遅帰の対症療法は全く功を奏せなかったのである。

末造は又考えて見た。女房は己の内にいる時の方が機嫌が悪い。そこで内にいまいとすれば、強いて内にいさせようとする。そうして見れば、求めて己を内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。それに就いて思い出した事がある。和泉 橋時代に金を貸して遣った学生に猪飼と云うのがいた。身なりに少しも構わないと云 う風をして、素足に足駄を穿いて、左の肩を二三寸高くして歩いていた。そいつがど うしても金を返さず、書換もせずに逃げ廻っていたのに、或日青石横町の角で出くわ した。「どこへ行くのです」と云うと、「じきにそこの柔術の先生の所へ行くのだよ。 例のはいずれそのうち」と行って摩り抜けて行った。己はそのまま別れて歩き出す真 似をして、そっと跡へ戻って、角に立って見ていた。猪飼は伊予紋に這入った。己は それを突き留めて置いて、広小路で用を達して、暫く立ってから伊予紋へ押し掛けて 行った。猪飼奴さすがに驚いたが、持前の豪傑気取で、芸者を二人呼んで馬鹿騒ぎを している席へ、己を無理に引き摩り上げて、「野暮を言わずにきょうは一杯飲んでく れ」と云って、己に酒を飲ませやがった。あの時己は始て芸者と云うものを座敷で見 たが、その中に凄いような意気な女がいた。おしゅんと云ったっけ。そいつが酔っ 払って猪飼の前に据わって、何が癪に障っていたのだか、毒づき始めた。その時の詞 を、己は黙って聞いていたが、いまだに忘れない。「猪飼さん。あなたきつそうな風 をしていても、まるでいく地のない方ね。あなたに言って聞かせて置くのですが、女 と云うものは時々ぶんなぐってくれる男にでなくっては惚れません。好く覚えてい らっしゃい」と云ったっけ。芸者には限らない。女と云うものはそうしたものかも知 れない。この頃のお常奴は、己を傍に引き附けて置いてふくれ面をして抗ってばかし いようとしやがる。己にどうかして貰いたいと云う様子が見えている。打たれたいの だ。そうだ。打たれたいのだ。それに相違ない。お常奴は己がこれまで食う物もろく に食わせないで、牛馬のように働かせていたものだから、獣のようになっていて、女 らしい性質が出ずにいたのだ。それが今の家に引き越した頃から、女中を使って、奥 さんと云われて、だいぶ人間らしい暮らしをして、少し世間並の女になり掛かって来 たのだ。そこでおしゅんの云ったようにぶんなぐって貰いたくなったのだ。

そこで己はどうだ。金の出来るまでは、人になんと云われても構わない。乳臭い青二才にも、旦那と云ってお辞儀をする。踏まれても蹴られても、損さえしなければ好いと云う気になって、世間を渡って来た。毎日毎日どこへ往っても、誰の前でも、平蜘蛛のようになって這いつくばって通った。世間の奴等に附き合って見るに、目上に腰の低い奴は、目下にはつらく当って、弱いものいじめをする。酔って女や子供をなぐる。己には目上も目下もない。己に金を儲けさせてくれるものの前には這いつくばう。そうでない奴は、誰でも彼でも一切いるもいないも同じ事だ。てんで相手にならない。打ち遣って置く。なぐるなんと云う余計な手数は掛けない。そんな無駄をする程なら、己は利足の勘定でもする。女房をもその扱いにしていたのだ。

お常奴己になぐって貰いたくなったのだ。当人には気の毒だが、こればかりはお生憎様だ。債務者の脂を柚子なら苦い汁が出るまで絞ることは己に出来る。誰をも打つことは出来ない。末造はこんな事を考えたのである。