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14. 拾肆

朝の食事の跡始末をして置いて、お常が買物に出掛ける時、末造は烟草を呑みつつ新聞を読んでいたが、帰って見れば、もう留守になっていた。若し内にいたら、なんと云って好いかは知らぬが、とにかく打っ附かって、むしゃぶり附いて、なんとでも云って遣りたいような心持で帰ったお常は拍子抜けがした。午食の支度もしなくては ならない。もう間もなく入用になる子供の袷の縫い掛けてあるのも縫わなくてはなら ない。お常は機械的に、いつものように働いているうちに、夫に打っ附かろうと思っ た鋭鋒は次第に挫けて来た。これまでもひどい勢で、石垣に頭を打ち附ける積りで、 夫に衝突したことは、度々ある。しかしいつも頭にあらがう筈の石垣が、腕を避ける 暖簾であるのに驚かされる。そして夫が滑かな舌で、道理らしい事を言うのを聞いて いると、いつかその道理に服するのではなくて、只何がなしに萎やされてしまうので ある。きょうはなんだか、その第一の襲撃も旨く出来そうには思われなくなって来る。 お常は子供を相手に午食を食べる。喧嘩をする子供の裁判をする。袷を縫う。又夕食 の支度をする。子供に行水を遣わせて、自分も使う。蚊遣をしながら夕食を食べる。 食後に遊びに出た子供が遊び草臥れて帰る。女中が勝手から出て来て、極まった所に 床を取ったり、蚊帳を弔ったりする。手水をさせて子供を寝かす。夫の夕食の膳に蠅 除を被せて、火鉢に鉄瓶を掛けて、次の間に置く。夫が夕食に帰らなかった時は、い つでもこうして置くのである。

お常はこれだけの事を機械的にしてしまった。そして団扇を一本持って蚊屋の中へ這入って据わった。その時けさ途で逢った、あの女の所に、今時分夫が往っているだろうと云うことが、今更のようにはっきりと想像せられた。どうも体を落ち着けて、据わってはいられぬような気持がする。どうしよう、どうしようと思ううちに、ふらふらと無縁坂の家の所まで往って見たくなる。いつか藤村へ、子供の一番好きな田舎饅頭を買いに往った時、したて物の師匠の内の隣と云うのはこの家だなと思って、見て通ったので、それらしい格子戸の家は分かっている。ついあそこまで往って見たい。 火影が外へ差しているか。話声が微かにでも聞えているか。それだけでも見て来たい。 いやいや、そんな事は出来ない。外へ出るには女中部屋の傍の廊下を通らぬわけには 行かない。この頃はあの廊下の所の障子がはずしてある。松はまだ起きて縫物をして いる筈である。今時分どこへ往くのだと聞かれた時、なんとも返事のしようがない。 何か買いに出ると云ったら、松が自分で行こうと云うだろう。して見れば、どんなに 往って見たくても、そっと往って見ることは出来ない。ええ、どうしたら好かろう。 けさ内へ帰る時は、ちっとも早くあの人に逢いたいと思ったが、あの時逢ったら、わ たしはなんと云っただろう。逢ったら、わたしの事だから、取留のない事ばかり言っ たに違いない。そうしたらあの人が又好い加減の事を言って、わたしを騙してしまっ ただろう。あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしてはかなわない。いっそ黙ってい ようか。しかし黙っていてどうなるだろうか。あんな女が附いていては、わたしなん ぞはどうなっても構わぬ気になっているだろう。どうしよう。どうしよう。

こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何遍か思想が初の発足点に跡戻をする。そのうちに頭がぼんやりして来て、何がなんだか分からなくなる。しかしとにかく烈しく夫に打っ附かったって駄目だから、よそうと云うことだけは極めることが出来た。

そこへ末造が這入って来た。お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。

「おや。又変な様子をしているな。どうしたのだい」上さんがいつもする「お帰りな さい」と云う挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。機嫌が好いからである。

お常は黙っている。衝突を避けようとは思ったが、夫の帰ったのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。

「又何か下だらない事を考えているな。よせよせ」上さんの肩の所に手を掛けて、二 三遍ゆさぶって置いて、自分の床に据わった。

「わたしどうしようかと思っていますの。帰ろうと云ったって、帰る内は無し、子供 もあるし」

「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたって好いじゃないか。天下 は太平無事だ」

「それはあなたは太平楽を言っていられますでしょう。わたしさえどうにかなってし まえば好いのだから」

「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいれば好 い」

「たんと茶にしてお出なさい。いてもいなくっても好い人間だから、相手にはならな いでしょう。そうね。いてもいなくってもじゃない。いない方が好いに極まっている のだっけ」

「いやにひねくれた物の言いようをするなあ。いない方が好いのだって。大違だ。い なくては困る。子供の面倒を見て貰うばかりでも、大役だからな」

「それは跡へ綺麗なおっ母さんが来て、面倒を見てくれますでしょう。継子になるの だけど」

「分からねえ。二親揃って附いているから、継子なんぞにはならない筈だ」

「そう。きっとそうなの。まあ、好い気な物ね。ではいつまでも今のようにしている 積なのね」

「知れた事よ」

「そう。別品とおたふくとに、お揃の蝙蝠を差させて」

「おや。なんだい、それは。お茶番の趣向見たいな事を言っているじゃないか」

「ええ。どうせわたしなんぞは真面目な狂言には出られませんからね」

「狂言より話が少し真面目にして貰いたいなあ。一体その蝙蝠てえのはなんだい」

「分かっているでしょう」

「分かるものか。まるっきり見当が附かねえ」

「そんなら言いましょう。あの、いつか横浜から蝙蝠買って来たでしょう」

「それがどうした」

「あれはわたしばかしに買って下すったのじゃなかったのね」

「お前ばかしでなくて、誰に買って遣るものかい」

「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買った序に、ふいと思い附いて、わたしのをも買って来たのでしょう」さっきから蝙蝠の話はしていても、こう 具体的に云うと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るように感ずるのである。

お手の筋」だとでも云いたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対に呆れたような顔をして見せた。「べらぼうな話だなあ。何かい。その、お前に買った傘と同じ傘を、吉田さんの女が持っているとでも云うわけかい」

「それは同じのを買って遣ったのだから、同じのを持っているに極まっています」声 が際立って鋭くなっている。

「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買って遣っ た時は、サンプルで来たのだと云うことだったが、もう今頃は銀座辺でざらに売って いるに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云うのだ。そ して何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢ったとでも云うのかい。好く分 かったなあ」

「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」にく にくしい声である。これまでは末造がしらばっくれると、ついそうかと思ってしまっ たが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たように感じているので、 末造の詞を、なる程そうでもあろうかとは、どうしても思われなかった。

末造はどうして逢ったか、話でもしたのかと、種々に考えていながら、この場合に根掘り葉掘り問うのは不利だと思って、わざと追窮しない。「別品だって。あんなのが別品と云うのかなあ。妙に顔の平べったいような女だが」

お常は黙っていた。しかし憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。

この晩にも物を言い合って興奮した跡の夫婦の中直りがあった。しかしお常の心には、刺されたとげの抜けないような痛みが残っていた。