University of Virginia Library

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 月末になった。

 志野は、頻りに金の勘定をしていた。

「――困っちゃったな、私……」

 房は黙っていた。

「ね、お房さん、私お金足りないわ、下へやる――」

「月給どうしたの」

「先月局の人に借りてた分をかえしたし、それに、出て歩いたり、あの人に袖買ってやったりしたから――」

 志野は、この間大垣にルビーの入った指環を貰った。その代り、彼がセルの下に着るという見たところ絽の袖を縫ってやっていた。

「――すまないけど、どうか今月だけ三円よけいに出しといてくれない?」

「…………」

「本当にあなたを当にしたようで悪いけど、勘弁してね。私下のお神さんに、それ見ろ、間代も払えないと思われるの癪なんだもの」

「あなた、ちっともお裁縫もしない罰よ」

「そうなの。だってこの頃――特別なんだもの。その代り家を持ったら、私二月でも三月でも置いたげてよ。ね、二度と云わないから、ね」

 大垣が盛に出入りするようになってから、房は経済的に迷惑を蒙った。志野は、大垣をもてなすためには、自分のもの、他人のもの、見境がなくなるらしかった。大垣も亦、そういう点では大してやかましやでなかった。二人とも、実に見事な消化力を持っている。いつの間にか、あった筈のビスケットがない。おやと思っていると、大垣は次に来た時晴れ晴れ、

「こないだのビスケット美味かったな、もうあれない?」

と、請求した。

「いやな人! ばれちゃったじゃないの、はっはっはっ」

 志野は奇妙な徳をもって生れついているものと見えた。彼女が可愛い喉を仰向け、実にからりとした声ではっはっはっと笑うと、房はどうしても腹立ちを持ちつづけていられなくなった。腹の空いた二匹の仲よい鼠でも見つけたようにふと気がほぐれ、

「いじきたな! あなた達に会っちゃ破産しちまう」

と、笑って損をさせられてしまうのであった。

 明日休みという日、志野は朝から出かけた。十一時廻って、階子口から、

「ああ、ああ、私全くへたばったわ」

という声がした。房は、待ちかねて出て見た。後から誰かがついて来た。

「一人じゃないの」

「――僕」

 大垣であった。志野は、

「さ」

と大垣を先に室に入れ、畳の上に坐ると、直ぐ脚を揉み始めた。

「――家なんてないもんね、いざ探すとなると。小さくていい家なんてとても在るもんじゃあないわ」

「どの辺歩いたのよ、一体」

「本郷と神田――お友達で日暮里の方に住んでる人があるって、行って見たけど、駄目よ、やっぱり」

「――郊外へ行けばいいんだろうけどね」

「いやいや郊外はいや。――今日は。ギュ、と殺されたりするの私御免さ」

 彼等は、薄暗い露台の方で顔を拭いた。

「――お房さん、ずっといたの? うちに――」

「一寸出たわ」

「明日降られちゃやりきれないな」

 大垣が先に室に戻った。彼は、房がやっている絹糸の編物に触った。

「お房さん、編物がお得意だな、この前のと違うんでしょう、これ」

「違うわ」

「何なの? 何が違うって?」

 志野が遠くから口を挾んだ。

「編物さ――冬んなったら、僕も一つしゃれた襟巻でも編んで貰おうかな」

 髪をかき上げながら入って来た志野が、

「襟巻なんぞなら、私編んだげてよ」

と云った。

「ほほう」

 志野は、さっと赧くなった。

「何が、ほほう?」

「――ほほうだから、ほほう、さ」

「こいつめ!」

「静かにしなさいよ! 今頃」

 ふざけかけた二人は、びっくりしておとなしくなった。房は、むっとしたように下を向いたまんま、途方もなく速く編針を動かしている。志野が、くつくつ笑い、大垣に目交せした。大垣もにやにやして頷いた。その途端、房がひょいと頭をあげて二人を見た。

「ふわあ、恐ろしや」

 これには房も笑った。

「さ、また明日があるから寝ましょうか。――今夜、純吉さん泊めてよ」

「夜具は?」

「いいわ、どうだってなるわよ、ね?」

「うん」

 房は、東窓を足にし、志野は西を足にし、大垣と床についた。志野は床の中へ塩豌豆の袋を持ち込んだ。

「――どうあなたもたべない」

という声を、房は夢現にきいた。

 翌日は、爽やかな好い天気であった。志野が勢よく朝飯の仕度をした。

「私一寸、おみおつけの実買って来るわ」

 志野が出て行くと、大垣は、房が髪結うのを側に立って眺めた。

「君の髪、立派だなあ、こんなにあるとは思わなかった。あいつなんて、猫の尻尾みたいだ」

 大垣は、ずっと傍によって来た。

「一寸いじらしてくれない」

「何云うのよ。――邪魔だからそっちへどいてなさいよ、男のくせに」

「は、は、男だから、さ。全く髪のいいのいいな。早く君に会ってりゃよかった、あんな棕櫚箒みたいなの!」

 房は不快になり、強い声を出した。

「あなたいやな人ね、案外。五分もいないと直ぐお志野さんの悪口なんぞ云う。承知しないから」

 変に落着かない朝飯がすむと、二人はまた家さがしに出かけた。房は、やっと朝の快い静けさを味わおうと坐ったばかりのところへ、一旦出た志野が戻って来た。

「なあに――忘れもの?」

「あなた小銭もってない? いくらでもいいのよ、一日かして」

「あの人持ってないの」

「うん、困っちゃう。――持ってるだろうと思ったら、空々なんだもの――」

 房は、六十銭渡した。

 目白の方に、いよいよ家が見つかった。志野は帰ると、眠るまでその家のことを喋り通した。

「ね、嘘だと思ったら行って御覧なさい、全くいいったらないのよ、駅から直きだし、日当りはいいし、新しいし。三軒建った真中だから要心も大丈夫なの――あなた、本当にいらっしゃい、ここなんかと空気は比べもんにならないわ」

「――有難う――でも私やめるわ」

「何故? 折角三人で賑やかに暮そうと思ってるのに――部屋だって、ちゃんとあなたの分があるのにさ」

「まあ二人だけで暮す方がいいわよ」

「――詰んないわ、それじゃ」

 志野の引越の日、房は須田に行っていた。志野のために、結局利用されたようなところも決してなくはないのに、別れるとなると房は辛かった。荷物の出てゆくのを見る気がしなかった。

「じゃあ、大垣さんによろしくね、私、温泉へ行ったら手紙出すわ」

「きっとね。私も明日すぐちゃんとした所書をあげるから、帰って気が向いたら、家へ来て頂戴」

 さようならと云ったら、それが永久のさようならとなりそうな、異様に淋しい気が房にした。

 彼女は、頭で、

「じゃあ」

と会釈し、外へ出た。

 毎日晴れ渡った初夏の日が続いた。廊下の西窓から、夕方、目の醒めるような夕栄えが展望された。房はその空のように広々し、同時に物寂しかった。国の傍の温泉へ十日も行き、須田へ戻る計画であった。志野から、やっと三日目、房が明日出るという日に手紙が来た。水色角封筒の裏に、つぼみ、志野よりとしてある。房は、なかをよんだ。

「そちらにいるうちに、本当にいろいろ御厄介になりました。厚くお礼申します。生みの姉のような御親切、決して決して忘れません。こちらは、家が急に都合悪く、隣の家に貸間のあったのを幸、そこへ一先ず落付きました。二間あります。やっぱり間借りですが、スイト・ホームよ。どうかお体を御大切に、大垣さんからよろしくということです」

 房は、表裏をかえし、封筒の中まであらためたが、所書は出て来なかった。