University of Virginia Library

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 二十日ばかり前のことであった。

 或る晩、房は医者に行った。一ヵ月程以前から彼女は健康が冬じゅうのようでないのを感じていた。去年の秋、須田の家へ仲働きとして入って以来、何ともなかったのに、時候が暖かくなるにつれ、 ( かえっ ) て工合が悪かった。客があり、二階へ往復の劇しかった夜など、四肢の ( ) るさと、亢奮とで、気持わるく体をほてらせたまま一睡も出来ないことがあった。二年前に、彼女は肋膜を煩って、久しく床についた経験があった。それを思い出し、主婦にも勧められ、医者へ出かけたのであった。彼女の杞憂したようなことは診察の結果ないことが明かになった。ただ、休養が絶対に必要ということであった。

「今のうち悠くり二三ヵ月も保養をすれば決して心配なことはないね。けれども、このまま働きつづけちゃあ迚も堪るまい――奥さんには私からもよく話して上げよう。ま、当分家へでも行って、たっぷりお母さんに甘えて来るこったね」

 房は、ぼんやり考えこみながら、夜店の並んだ通りを歩いて来た。春先に珍しく風のない、空の美しい夜であった。彼女は、角の化粧品屋へよってピンを買った。リボンや、帯留、半衿などが綺麗な色 暖簾 ( のれん ) のように、長く短く垂れている間をよけ、飾り棚を覗いた。紺 天鵞絨 ( ビロード ) を敷きつめた、燭光の強い光の海に近頃流行のビーズ細工の袋や、透彫の飾ピンが、影もなく輝いている。彼女のすぐ耳の側で、若い娘の囁く声がした。

「ねえ私あれが欲しいわ、恰好が一番いいわよあれが」

 母らしい、どこか娘のに似た声が、更に小さい声で囁くのまで耳に入った。

「だって――真物だろうあれは――」

「違う――ほら、あっちの――」

 娘は、ふっくら膨らました前髪を硝子に押しつけ、熱心に小指で、自分の欲しい飾ピンの方をさし示した。

「あの右から一、二、三つ目の、分って? あれよ、ね?」

 房は、母娘の睦じい様子と、娘の余念ない顔つきに牽きこまれ、覚えず小指の示す方角を見た。そこには、外見だけでは真物としか思えないセルロイド 鼈甲 ( べっこう ) の気取った飾ピンが、カルメンの活動にあったような形で派手に横わっていた。房も、年をいえばあどけない素振りで母にねだっている娘と大して違わなかった。行って来た処、云われたこと、自分にはこの娘のように安心して甘える母のないことなどがたたまって、房は、ざわめく夜の散歩の中で、ひどく自分を孤独に感じた。胸がきゅうと、引緊るようになった。彼女は、泣きたくなるのを堪える時の癖で、くんと顎を突出すような、負けずぎらいな顔付で大股に店を出ようとした。その途端、ひょいと一人、女が横から出て、彼女の行手を遮った。房は、感情がこみあげていたので、相手を見定める余裕なく、すりぬけて猶進もうとした。すると、前にふさがった女は、一層彼女に擦りつき、攻めるような、からかうような快活な凝視で、房の注意を促した。

「一寸! いやなひと、忘れたの?」

 房は瞬間仏頂面で視た。

「――まあ、あなた」

 彼女は、俄に気が和むと一緒に、何と挨拶してよいか判らない感動に打たれた。

「まあ――どうしてわかって?――でも、まあ、本当に、こんな処で会おうと思わなかった!」

 志野の方は、房に比べればずっと落付き、

「さっきね、ふいとここを通りがかると、何だかあなたみたいな人がいるだろ、私、まさかと思ってね、でも念のためだと思って傍へよって見ると、矢張りあなたなんだもの――」

 補習科時代からすると、別人のように志野は女らしくなっていた。房々軟かそうな黒褐色の前髪を傾け、彼女はさもおかしそうにメリンス羽織の肩をすくめて笑った。

「――あの顔ったら――昔の通りね」

 ――房は、帰る時間は気になるし、この思いがけない廻り合いを、これぎり打ちきる気はなし、せき込んで訊ねた。

「あなた、そいで今どこにいるの?」

「私?――あなたは?」

「私はついそこの坂を登りきって左へ入った処よ――須田さんて家」

「なあんだ、あすこ? あすこなら毎日通ってるわ――私、電話局に通ってるのよ、停留場んところの氷屋に間借りして……」

 志野はどうせ暇だからと云って、須田の家まで房を送って来た。

 四五日経って、房が氷屋の二階へ行った。

 濡れた 大鋸屑 ( おがくず ) が、車庫のような 混擬土 ( コンクリート ) の店先に散ばっていた。横手の階子を、土足で登って行く――。登りきった処に、並んで二つ、それと直角に一つ、西洋扉がある。それらが五燭の、見捨てられたような電燈に照らされている。――

 志野は、大きな室の真中で、長襦袢の衿をつけ更えていた。

「まあ、よく来てくれたわね、直き済んじゃうから入って頂戴」

 志野が、こんな荒涼とした建物の中でも、快活で、平気で、花弁の大きい白い花のような顔付をしているので、房もやっと自分の平静さをとり戻した。

「今晩はね、お暇いただいて来たから私ゆっくりして行けるのよ。仕事もって来たげたわ」

 房は、志野に会った夜、帰って黙っていられない程悦びを感じた。丁度細君が仕立てに出そうとしていた縫いなおしのお召があった。彼女は、志野の内職の足しにそれを持って来たのであった。

 志野は、横坐りのまま縫物材料を指先でいじった。房は失望を感じた。が、相手を引立てるように説明を加えた。

「縫いなおしじゃ厭かも知れないけど、うんと上手く縫って頂戴、そしたら、私、これからお上のもんは、皆あなたに頼むようにするわ」

「結構よ、これで――でも、あなた親切なのね、有難う。……体どんな?」

「同じだわ」

「国へ帰んないの?」

 房は苦笑した。

「だって――あなただって威張って帰れなけりゃいやでしょう」

 志野は、強く否定した。

「私とは違うわ、あなたんとこなんかお金持じゃあないの、自分の好きでただ来てるんでしょう、だもん……」

「喧嘩して来たんだから、いや」

「頑固なひと!――あなたみたいにいつまでも学生みたいな人ありゃしないわ――そのままにしていたら、だって、悪くなるばっかりよ。死んじまってよ」

「お暇いただいて、呑気に養生するわ」

 志野は、顔をしかめるようにして尋ねた。

「養生するって――どうするのあなた、今の家やめたら……困るでしょう」

「三月や四月遊ぶ位のことは出来るのよ」

 二人は、それぎり黙って、房の土産のバナナを食べた。突然、志野が弾んで天井にぶつかりそうな調子で云った。

「いいことがあるわ! あなた、ここへ来るのいや?」

 房は、とっさ、返事に窮した。

「そりゃ、家は随分穢いけど、呑気は呑気よ、なまじっか、素人家にいるよりよくてよ。室だってちゃんと一つ一つ区切れてるから。――私は、どうせ昼間一杯留守なんだから、あなたの好き自由だし――あなただっていきなり知りもしないところで間借りしたって、きっと淋しくって仕様がないに定ってるわ」

 それは、図星であった。房は、勝気だが神経質で、貸間の女主などが、勤めにも出ず、あまり金持とも見えない弱そうな自分をどんなに観察するか、それを想うと、実際躊躇していたのだ。

「それに第一、一人で暮すよりどんなにか経済よ」

 志野は、打明けた、飾りない言葉で話した。

「私だって、まるで助かっちゃうわ――局の月給なんて、たった、あなた二十八円よ、室代を十四円とられて御覧なさい、やって行けたものじゃあなくてよ。だから、お裁縫なんかするんだけど――一日根からして働いて来て、また肩を凝らす程やって見たって、ね……若し、あなたさえいやでなかったら本当に来ない? 室代半分助かるわよ、お互に……」

 房は、その晩は不決断のまま帰宅した。二三度、縫物を持って往来するうちに、次第に第一印象の暗さが薄らいで来た。却て便利らしい点が残った。須田の子供達にもなつき、ミシンの稽古をさせて貰っていた房は、一時の休養のために、まるきり暇をとりきるのは不本意であった。四五町の場所に室を持ち、気分でもよくなったら運動がてら、中の男の子を迎え位する――ゆとりと、変化も相当ある快い生活法ではあるまいか。

 房は、楽しみをもって引移った。