氷蔵の二階
宮本百合子 (Koorigura no nikai) | ||
三
初めての日曜日、風の烈しく吹き捲る晴れた日であった。
房は、一吹き荒れる毎にどーっと塵埃を吹きつけ、ガタガタ鳴る露台の硝子の面を靄でもかかるように曇らして行く風勢を眺めていた。
「――こんな風――私始めてだわ」
「ここは特別なのよ何故だか」
志野は、伊達巻だけしめた上に羽織を着、下から借りて来た時事漫画を腹這いになって見ながら答えた。
「折角日曜だっていうのに、これじゃあ外へ出ることも出来やしない」
穢い硝子、穢い建物に、バッと日が明るく差し込むだけ余計塵っぽく、悩ましい。房は、隅っこの壁によりかかって、編物を始めた。腹這のまま、頬杖をついて今度はその手元を見守っていた志野が、やや暫くして訊いた。
「何編み?――それ」
「さあ、なんていうんだろ、知らないわ名は。外国雑誌から教えて下すったのよ」
「……何が出来るの」
「お嬢様のスウェター」
眺め飽きると、志野は手を延し、脇の小棚から懐中鏡をとり出した。鏡を開いて片手に持ち、片方の指で頻りに鼻毛を抜き出した。円いくくれた顎をつき出し、一心に目を据えてぐっと引張るが、なかなか抜けて来ない。気合をこめて引張っては擽ったそうな顔をする。房が到頭ふき出した。
「何よ、それは――はっはっはっ」
つられて、志野も笑い出した。
「――だけれど、あなたみたいに 装 ( なり ) ふりかまわないひとはなくてよ――学校にいた時分からそんな髪だったじゃないの」
「そうね」
「もう少し何とかすればいいのにさ。十八九の時分と、二十過ても同じじゃ余り可哀そうよ」
やがて志野は、
「どれ、一寸私にいじらせて御覧なさい」
と、気軽に房の後に廻った。彼女は、器用に、長い、たっぷりした髪を梳き始めた。
「こんなにあるのに――私なら素敵な髪に結って見せるわ――髪の形で 喫驚 ( びっくり ) する程ひとって変るもんよ」
自分の毛筋立てや鬢かき迄持ち出し、志野は自分が結っているような洋髪に結い始めた。
「さ、これ持ってて」
彼女は、房に鏡を持たせた。一ところへ形をつけては、
「どう?」
と背後から顔を重ねて自分も鏡を覗きこんだ。
「いいじゃあないの、すっかり可愛くなっちゃうわ」
房は、好奇心の動く、一方、極りの悪そうな表情で云った。
「私の髪、どっさりあったって 強 ( こわ ) いから駄目よ、こんなの」
「結いつけないから、そりゃいきなり理想的には行かなくてよ。――まあ黙って見ていらっしゃい」
出来上るにつれ、房は大きい髪を持てあました。
「本当にいやあよ、私。私じゃあない人間みたいだわよ、これじゃ」
「どれ」
志野は、素ばしこく前に廻って検査した。
「そんなことあるもんですか! トテ、シャンになったわよ」
遊んでいると、階段を登って来る下駄の音がした。
「おや――、芦沢さん、出ていたのかしら」
然し、下駄の音は隣に行かず、志野の扉の前で止った。
「――今日は」
櫛を持ったまま耳を立てていた志野は声を聞くと、ひどく迷惑な顔した。
「――何の用があるんだろう」
「私なら、かまわないことよ」
「いいのよ」
志野は、ずかずか取繕わない風で立って行った。
「浅田さん――いますか」
志野は、体で入口をふさぐようにして 扉 ( ドアー ) をあけた。
「――今日は――いつ来たの」
「さっき」
「……今日は駄目よ」
「誰かいるの」
「お友達――お房さんて――」
ききとれない低声で、二人は何か囁き合った。
「――だって――そんなこと駄目よ、ね、だから……」
甘えたように高まった志野の声が、再びひそひそと沈む。やがて、
「じゃ、さようなら」
勢よく戸を閉め、戻って来ると、志野は照れかくしのように、舌を出した。房は、少し居心地わるい気がした。
「――邪魔じゃあなかったの?」
「いいのよ、あんな奴」
「――誰なの」
「元、下で働いていた男――今もういないんだけどね――いやんなっちゃう――おや、あなた、解くの」
不自然なところのある快活さで、志野はまた髪をいじり始めた。――
このことを忘れた数日後の或る夜、志野と房は電燈の下で、静かに互の仕事をしていた。志野は裁縫、房は編物。ひっそりした晩春の宵ががらんとした室をもみたす心持がされた。房は、平和な、充実した気分であった。彼女は時々頭をあげて志野を見た。志野も、和らいだ夜に心を鎮められて、針仕事に没頭していた。志野にこのようなことは珍らしい。彼女は、大抵亢奮しているか、さもなくばだらけているか、どちらかだ。
折々、電車が 駛 ( はし ) り過ぎた。畳の上で鋏が光っている。……
房は、きくともなく、下の若者が吹くらしい口笛を小耳に挾んだ。よく近頃レコードできく、舞踏曲らしい。なかなかうまい口笛であった。暫くしてやんだ。階下で笑声がする。――手馴れた竹の編棒、滑りよい絹混りの毛糸、あたりの浄らかな静けさ。三つが一つに調子を合わせ、また心を吸取られていると、意外に近いところでさっきの口笛が起った。一頻り吹いて静かになった。間を置き、今度は、二声ずつに区切って鋭くヒューヒューと鳴った。
房は思わず志野の顔を見た。志野はまるでうんざりした表情だ。彼女は、何か云おうとする房を、いそいで眼で制した。手招きをして、房の頭を運ばせ、耳に囁いた。
「一寸戸をあけて見て来てくれない?」
せき立てるように、また階子口で口笛が鳴った。志野は立ちかねている房を、拝む真似をした。指の先を擦り合わせて。
房は、さっと内から戸をあけ、五燭の蠅の糞のこびりついた電燈の光で、廊下を見た。男が戸の方を向いて立っていた。が彼女を見ると、急に 外方 ( そっぽ ) を向き、別な間借人の出て来るのを今一寸待ち合わせているという風に、呑気らしく、 窓框 ( まどかまち ) に 靠 ( もた ) れて脚をぶらぶらさせた。
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