氷蔵の二階
宮本百合子 (Koorigura no nikai) | ||
四
時候がよくなったせいか、志野はよく勤めの帰途どこかへ廻った。夕飯をしまってから、更めて出なおすこともある。
「お房さん、あなたも行って見ない? 矢張り元局にいた人で、そりゃ面白い人よ」
「――私はよすわ」
「じゃそこいら辺までつき合わない?」
遅くかえったりした時、志野は何か気がかりな風で室を見廻しながら、房に訊いた。
「誰も来やしなかって、留守に」
二三度、
「芦沢さんとこの人来なかったこと」
などとも訊いた。志野が留守の間、房は湯に行くか、須田へ行って数時間女中部屋と子供室とで費して来るか、単調に暮した。その単調な無為が生理的に必要と見え、房はちっとも退屈でなかった。
志野の生活の全幅も、追々理解されて来た。彼女が始めからぼんやり推察していた通り、まだ面前に現われない数人の男が、小綺麗で、たよたよしく、その癖どこにか平気みたいなところのある志野を取繞んでいるらしかった。志野は何を警戒してか、その方面のことは一言も房に話さなかった。
照りつづけた揚句、夜中から穏かな雨が降り出した。ふと目をさまし、トタン屋根に粒々落ちる雨の音を聴いた時、房は嬉しい心地がした。ぐっすり眠って起きた時は、志野の出た後であった。雨はまだやまない。しとしと軟かく繁く屋根を打つ雨脚、点滴の 長閑 ( のど ) かな音、電車の響もぼやけ遠のいて聞える。房は久しぶりの雨で魂まで潤されたように感じ、ゆるゆる髪を梳きながら開かない露台の裡から外景を眺めた。街路樹の梧桐の濡れた若葉が、硝子を流れる雨水のせいで溶けるように、世にも鮮かな緑で見えた。下に、赤いポストがあるのも愛らしい。房は、好物な苺のジャムをつけてパンを食べ、牛乳を飲んだ。飽きずに雨の音を聴いた。降る雨は一様でも、雫る場所によって音が違う。――
昼から房は下へ降りた。上って来ると、隣の芦沢の室の戸が珍らしく開いていた。廊下――房がその前を通って自分の室に行かなければならない――方へ、瑞々した丸髷を向け、派手な装の女が草履の鼻緒をなおしている。房が傍へ来ると、女は自然に頭を擡げた。
「いいおしめりですことね」
すらりとした調子であった。房は、顔を赧らめた。
「ほんとにね」
女は、はたはた前掛をはたいて立ち上った。
「ちっと寄って話していらっしゃいな、いいでしょう、今誰もいないんですよ」
気持よい女なので寧ろ意外であった。室は八畳で、安ものながら箪笥や長火鉢や、すっかり世帯道具が揃っていた。座布団も鏡かけもぱっとしたメリンスずくめであった。
「――あなたがいらしたってことは、下のお神さんにきいてたんですよ……いかが? お気に入りましたか」
房は、黙って笑った。
「――あなたんとこ、よくこんな綺麗にしていらっしゃること」
女は、嬉しそうに、
「割にいいでしょ」
と云った。
「まるでがたがたなんですものねこの家ったら。――せめて自分達のいる処でも心持よくしとかなけりゃ――そりゃそうと、私ったらまだ自分の名も云わないで」
芦沢の細君は、姉らしく笑った。
「あなたの名は、下できいたんだけど……」
「房、どうぞよろしく」
「ああそうそう、お房さん、いい名ね、私は滑稽でしょ、森律子と同じなんですよ、名ばかり同じだって、こんなおたふくじゃ何にもならないわね」
律は、勤め先のカフェーが今建て増しで休業中なこと、そこにもう三年勤め、一番の古株になったことなど話した。
「いくら古参になったって大したこともないんですよ、でもやめられない訳があるんでね……もう一年――うちがM大学を出るまで――あなたは? お志野さんと御一緒だったんですか?」
「ええ、国の補習科の時分――」
「へえ、じゃあ同じ局じゃあないんですか」
房は、簡単に自分の境遇を説明した。
「まあ、私はずっと御一緒かと思ってた――そうですか、じゃあ、余りあのひとのこともお知んなさらないわけですわね――今じゃ元気になったけど、来たばかりの時ったら、そりゃお話になりませんでしたよ」
房は、二時間ばかりいて、自分の部屋に戻った。――直ぐには何も手につかない気持であった。このようなことがあるから、志野は、隣の人、カフェーの女給などと自分に警戒を加えて置いたのだろうか。
六時頃、志野が帰って来た。
「ああひどいひどい。御覧なさい、この通り――自動車の泥よけなんて何にもなりゃしないわ」
はねの上った紺絣の合羽を、露台へ乾しに出ようとし、彼女はふと机の上にのっている半紙包に目をつけた。
「あら――」
志野は、睨むような 流眄 ( ながしめ ) で房を視た。
「あなた、お隣へ行ったの?」
「ええ」
「面白かった?――あの人んとこ、いつでもこのお菓子よ」
蹲んで、志野は、蚕絹糸でくるんだような四角い、小さいキャンデーを口に入れた。気にかけまいと努め、終にやりきれなくなった風で、彼女は、曖昧な、どうでも変化させられる薄笑いを泛べながら訊いた。
「――珍聞があった?――……私の噂してたでしょう」
房は、穏に、真面目に云った。
「いろんなこと聞いたわ」
「…………」
志野は、黙って顔を見ていたが急に房の手をつかんで自分の方へ引ぱった。
「ね、あなた私信じてくれるでしょ? ね?」
「信じるって――噂なの? あの人の云ったことみんな――あなたが変にかくしだてしたから、私却って何だか……」
「だって――云えないんですものそんなこと、恰好が悪くて。……あなた、憤っちゃった? もう私みたいな女と暮すのなんかいや?」
房は、いじらしいような、自分迄切ないような気持がした。
「そんなことありゃしなくってよ――謂わば、一つの不仕合みたいなものだったんじゃあないの」
「――あなたほんとにそう思っててくれる?」
志野は、感動で涙ぐんだ顔付になった。
「――あなたさえそう思ってくれれば、私全く有難いわ。――心配してたんですもの」
そして、見る者の心も動かす嬉しそうな笑顔で云った。
「ああ私さばさばしちゃった!」
対手の心持の判った安心と、何も隠すに及ばなくなった安心とで、志野は一時に当時の辛さを打ちあけ始めた。
「――実際あの気持――とても口で云えないわ。その男――今泉っての――お邸を出てから、私が悠くり寝ていられる二階を紅梅町へ借りたって云うんでしょ、私だって、まさか嘘だと思いやしないわ、わざわざ出かけて行って探したの探さないのって……いくら歩いて見たって、飯村なんて家ないから、やっと交番を見つけて訊くと、東か西かっての。町が東と西とになっていたのよ、その紅梅町っての! いいえ、ただ紅梅町だけですって云うと、巡査ったら、ニヤニヤ笑うのよ、あなた。そして、何番地かって。千六十九番地ですって云うと、そんな番地どこにもありゃしないってんですもの、私――」
志野は、
「ああ、思い出しても厭んなっちゃう」
と吐息をついた。
「でもね、今中さんてお産婆さん、親切だったから私助かったのよ、ひょいと看板を見て入ったんだけど。……そのお婆さんがここを知っててね、それで私来るようになった訳なのよ、実は――」
房は、その辺まで律に聞かされていた。その時から、彼女の気になっていることが一つある。房は、低い声で訊いた。
「――そいで――どうしたの――その生れた……」
「ああ」
志野は、早口でさも事なげに答えた。
「一週間ばかりで死んじゃったわ」
それをきくと、房は何故だかぞーッとした。
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