University of Virginia Library

 ところが、その春はたださえ霧っぽい附近の海から、例年にないほどの 濃霧 ( ガス ) が、毎日毎日流れ始めた。

 ずうっと沖合いから押し寄せて来るガスは、海岸へ来ると二手に分れる。

 一方は、そのままY岬へ登って馳け、他の一方はずうっと 迂回 ( うかい ) して、Y岬とは向い合ったL崎の ( はな ) から動き出す。

 そして、その二流はちょうどS山の上で落ち合って、ずうっと奥へ流れ去る。これは、平地を抱えて海まで延びている山の地勢の、当然な結果ではあるのだけれども、その潮路に当るところは堪らない。

 下の部落にそんなにひどくないときでも、山々を流れて行く霧は、灰色に濃くかたまって音のしそうな勢に見える。

 それ故、切角春になると直ぐイレンカトムの小屋は、日の目も見えないほど、霧に攻められなければならなかった。

 今日も霧、明日も霧。

 潮気を含んで、重く湿っぽいガスは、特有のにおいを満たしながら、茅葺き小屋のらんまで透して、湿らせる。

 ちょうど、梅雨期のような不愉快さ、不健康さを弱り目に受けて、イレンカトムは、始終頭痛がしていた。寝ても覚めても、耳の中で、虫が巣くいでもしたような、ジージー、ブーンブンと云う音がする。

 体中から、精、根が抜け切ってしまったように思う彼は、過敏になって、自分の飼犬の姿にさえザワザワとすることがある。

 ときどき、ひどい癇癪を起して、訳なしにあんなにも大切にする黒を蹴ったりするようなこともある。山本さんの家の者は、 年寄 ( エカシ ) はこの頃少し痩せたようだね、と云うくらいのことで、別に注意もしないし、彼自身は勿論自分の神経に就て考えるような男ではない。そうしてそのまま日が経って行った。

 或る夕方。久し振りで晴れ渡った空が見えるように天気の好い暮方である。

 畑で、草 ( むし ) りをしていたイレンカトムは、何だか、妙に頭がグラグラするような心持なので、炉辺に引込んで、煙草を ( ) んでいた。

 すると、戸口の傍で人声がする。何か小さい声で相談でもするように、ボソボソと云っている。

 まだ若そうな女の声が、一言二言何か云うと、元気のあるのをようよう小声にしているような若い男の声が、それに答える。声の響きで見ると、アイヌ語を使っている。

 何を喋っていることやら……

 イレンカトムは、今に入口の垂れを持ちあげて訪ねて来る二人の若い者を待っていた。

 待って待って、待ちくたびれるほど、待っても入って来ない。

 そこで彼は自分から立ち上って、迎に出た。たぶん極りを悪がってでもいるのだろうと思ったのである。

 出て見ると、小屋の隅に、頭を垂れた若い女が案の定立っていて、少しはなれたところに腕組みの男がいる。

 誰だか知らないが、来た者はお入り、と云うアイヌ振りの挨拶をして、中に入って待つ。未だ来ない。入りもしないで、相変らず喋っている。喋ること、喋ること、声の高さは変らないが、素敵な早口で、男が喋る。女が喋る。そして、終いには、両方がごっちゃになって何か云う。

 余り人を馬鹿にしていると思ったイレンカトムが、少し腹を立てて、

「お入りと云ったら、どうして入らないのか?」

と、アイヌ語で云いながら、もう一遍戸口に出て見ると……これはどうしたことだ、今の今まで声のした二人は、もうどこへか隠れて、後影も見えはしない。

 はて! これはどういうことだ?

 彼も少なからず不審に思った。

 いろいろ考えて見ても、どうしても、若い男と女とを見たのは確かである。女が紫色の小帯をしめて、重ねた上の方のどの指かに、白い指環のあったのさえ見たのだから……

 その日は、それなり、妙なこともあるものだですんでしまった。

 ところが、それはその日だけでは済なかった。翌日もその翌日も、彼は声を聞く。或るときは四五人の者が来たようであり、或るときは十人以上が群れているように聞えるときもある。

 アイヌ語や日本語で、だんだんはっきりと意味の聞きとれる言葉を喋る。

 それも、決して、行儀よく話すのではない。どこかずうっとY岬の先の方から、風と一緒に喋りながら、やって来る。そして、小屋の周囲を馳け廻ったり、小屋の中を跳び廻ったりしながら、イレンカトムの「胆の焼ける」ようなことを、罵ったり、 揶揄 ( からか ) ったり、茶化したりするのである。

 魚を焼いていると、魚が食べたいとねだる。米を煮ると、それを呉れと云う。

 そして、始めには、夕方だけ来たものが、追々朝から付きまとって、夜眠ろうとでもすると、寝させまいとして、途方もないいたずらをする。喉を ( しめ ) に掛ったり、息もつけないように口を ( ふさ ) いだりして、叱りつければちょっと遠のいて、また始める。

 そんなにされながらも、イレンカトムは、ただ声と、 気合 ( けは ) いだけを相手にして、怒ったり、怒鳴ったりするだけなのである。

 理窟を云って追い払おうとすれば、なかなか負けずにやり返す。

 こうなっては、彼もどうかしないではいられない。一生懸命になって、聞いただけの昔話の中から、声ばかりの化物に就ていってあるのを漁り始めたのである。

 考えて考えた末、彼はとうとう、子供の時分父親から聞かされた、コロポックルという小人の話を思い出した。