University of Virginia Library

 けれども、豊はとうとうイレンカトムを負かし、或は悪戯者の悪魔が祷りに勝って、彼は総ての点において成功してしまった。

 地所も売り、その代金全部を自分の懐に入れ、それを鳴らしながら、彼の理想通りの出立をしたのである。

 イレンカトムは、涙をこぼしながら、息子が行ける処まで行って見ようと云って出掛けた報知を受取ると、直ぐ、昔から親切に家畜や地所のことで世話をしてもらっている山本さんという家へ出かけた。

 そして、S山の方へ引込みたいから、どうぞそのように取計って下さいと云った。

 S山と云うのは、ずうっと海岸に近い処で、彼はそこにも土地を持っていたのである。

 山本さんの息子や、宿っている学校の先生等は、ただでさえ淋しいのにあんな処へ独りぼっちで引籠っては良くないと云って止めるにも拘らず、イレンカトムは、是非そうして下さいと云って聞かない。

 そこで終に、今までの家は貸家にして、S山に新らしい小屋を建てることになったのである。

 すっかり昔のアイヌ振りで拵えた小屋の、北と東は雑木の山続きで、東側は十六七丁先きの方で、美くしく海に突き出たY岬になり、西には人家へ降る小山やまた、他の遠い山々の裾に連っていた。

 そして、南側には彼の飲料水を供給する澄んだ小流れが、ササササ、ササササと走っている。その他には何もない。この 寂寞 ( せきばく ) のうちに、四方を茅で囲った新らしい小屋が、いかにも可愛い巣のように、イレンカトムと、二代目の黒とを迎え入れたのである。

 彼は、思い付く毎に小屋の戸口に立っては、足跡で踏み堅めた小道の方を眺める。また或るときは、彼方の小山に昇って、遠く下を通っている往還を眺める。

 沢山の荷馬が通ることもある。

 勢のいい自転車が、キラキラと車輪を光らせながら小燕のように ( ) けるときもある。

 または、四五年前に豊がしたように、鞭を廻し廻し馬車を追って行く子供もある。

 人が通り、車が通り、犬が馳ける……。けれども彼の待っている物は見えない。

  ( まった ) く、イレンカトムは、昼でも夜中でも、西側の小山の路へ、ヒョイとせり出しのように現われて来る唯一の、若い、美くしい頭を待ちに待っていたのである。

「飛んで来い」はいつも、きっと元の場所まで戻って来るときまっているだろうか?

 けれども、イレンカトムは待っていた。そして、出た者は必ず戻って来ることを信じている。いつ戻って来るか? それは解らない。それだから、彼は絶えず、待

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ち、望
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んでいたのである。

 T港で、豊の姿を見掛けたという噂だけを聞いて、イレンカトムの小屋は、雪に降り埋められる時候となった。

 平常でさえ余り楽でない路を、雪に閉されてはどうすることも出来ない。

 全く人間界から隔離されてしまった彼は、二十日に一度、一月に一度と、味噌や塩の買出しに降りるときだけ、僅かに人間の声を聞いて来るのである。

 その一冬は、彼にとって、どんなに淋しいものであったろう。

 ほんとうの独りぽっちで、気の紛れがないから、考えは始終同じ問題にこびり付いていなければならない。

 考えれば、考えるほど、心はさか落しに滅入って来て、どうにもこうにもならなくなる。そこで、仕方がないから、ちょっとばかりの酒でも飲んで炉辺でごろ寝をするような癖の付いたイレンカトムは、従って人の眠る夜になると、否でも応でも眼を覚していなければならなく成ってしまった。

 窓の隙間から蒼白くホーッと差し込む雪明りに照らされる陰気な小屋のうちで、彼は死んだような厳めしい静寂と、次第に募って来る身の置処のない苦しさに圧迫され、強迫されて、頭はだんだんと理由の解らない興奮状態に陥って来る。

 小屋の中じゅう、どこへ行っても、何ものかが満ち ( はびこ ) っていて、自分を拒絶したり、抵抗したりするような心持のするイレンカトムは、じっと一つ処に落付いてはいられない。

 知らず知らず、ブツブツと口小言を云いながら、あちらこちらと歩き廻る。

 そして歩き廻りながら、眠りもしないで、こんなことをしている自分は普通でないなと思って来る。

 一体どうしてこうなのだろう?

 彼は、炉の火を掻き起して、明るくしたり、パタパタと何かを払うように耳を叩いて見たりする。けれども、益々、心持は落付かない。どうもおかしい。このとき、彼の心には、明かに、「夜」に対する伝説的恐怖が目覚めて来るのである。

 怪鳥が人間の魂を狙って飛び廻るとき、死人が蘇返って動き出すとき、悪霊、死霊が跳梁するとき、それが、彼の子供のときから頭に ( ) み込んでいる夜の観念である。

 暗い夜に外を歩くと、化物に出会って、逃げる間もなく殺されるぞと云われ云われした彼は、今もなお、囲い一重外の夜、闇に対して、深い恐怖と神秘とを抱いている。

 その遺伝的な恐怖が湧き上ると、彼は居堪れないように成って、神々に祷りをあげる。

 一生懸命に謡を歌う。犬にふざける。そして、暁の薄明りが差し始めると、ようよう疲れ切った眠りに入るのである。

 斯様に、S山で余り寂しすぎる一冬を送った彼は、すっかり頭を悪くした。体も悪くなった。けれども、イレンカトムは、自分の転居が失敗だったとは思わない。彼は一言も洩さなかったけれども、自分が若し万一病気にでも成れば、部落ではすぐ近所の者が知っていろいろな物を盗もうとするかもしれない。がここにいれば、人に知らせず、山本さんだけに万事委せることが出来るから、よほど安心だ、と思っていたのである。

 唯一人の彼が臥たら、誰が山本さんまでの使をするだろう? けれども、彼はそこまでは考えたことがなかった。

 追々、雪が薄くなって、木の芽が ( ふくら ) むような時候になると、彼は、小屋の東側に僅かの地面を耕してそこに、馬鈴薯と 豌豆 ( えんどう ) を蒔いた。

 誰かは訪ねて来る人も出来、気を変える仕事も出来て来て、イレンカトムは草木とともにようよう生気が出たように見えたのである。