University of Virginia Library

 野も山も差別なく馳け廻っては馬を追い、鳥を追いして育った豊は、まるで野の精のように 慓悍 ( ひょうかん ) な息子になった。

 偉い者になるなるとは云いながら、小学の三年を終るまでに、四五年も掛った彼は、業を煮やして翌年の春から、もう学校へ行くことは止めてしまった。

 そして、彼の意見に従えば、出世の近路である馬車追いが、十三の彼の職業として選ばれたのである。

 イレンカトムは、単純に、息子が早く一人前の稼ぎ人になれることを喜んで、むしろ進んで賛成した。

 豊坊も、とうとう今度は立派な 青年 ( ウペンクル ) に成るのだ、馬車追いになるのだというような事を、彼一流の控え目勝な調子で触れ廻りながら、イレンカトムは、ほくほくしずにはいられなかった。いくら強情だとか、腕白だとか云っても、貴方達の十三の息子に、馬車追いの ( うで ) がありますかというような、誇らしい心持にもなる。彼は嬉しまぎれに、空前の三円と云う大金を小遣に遣って、部落から三里ほど西の、町の馬車屋に棲み込ませた。

 豊は馬車屋に寝起きして、日に一度ずつその町から、イレンカトムの部落を通って、もう一つ彼方の町まで、客を乗せて往復するはずなのである。

 毎朝毎朝、眼を覚すや否や、飯もそこそこにして、豊坊の雄姿を楽しみに、往還へ出え出えしていた彼は、或る朝、彼方の山を廻って来る馬車が、いつもとは違う御者を乗せているのを発見した。

 イレンカトムは、幾年振りかで強く鼓動する胸の上に腕を組みながら、ジッと瞳を定めて見ると、確かに! 御者は紛うかたも無い、豊坊である。

 いかにも気取った風で、 鞣革 ( なめしがわ ) の鞭を右の手で大きく廻しながら横を向いて、傍の客と何か話している彼の洋服姿は、愛すべきイレンカトムの心に、いかほどの感動を与えたことだろう。

 笑う毎にキラキラする白い歯、丸い小さい帽子の下で 敏捷 ( すば ) しこく働く目の素晴らしさ。

 見ているうちに馬車はだんだん近づく。

 そして、彼の立っている処からは、一二町の距離ほかなくなった。

 すると、今まで傍を向きっきりだった豊は、迅速に顔を向けなおすやいな、いきなり体を浮かすようにして、

 ホーレ!

と一声叫ぶと、思い切った勢で馬の背を叩きつけた。

 不意を喰った馬は堪らない。土を掻いて飛び上ると、死物狂いになって馳け始めた。

 小石だらけの往還を、弾みながら転がって行く車輪の響。馬具のガチャガチャいう音。

 火花の散るような蹄の音と、巻き上る塵の渦巻の上に飛んで行く騒音の集団の真中に、豊坊は得意の絶頂で飛んで来る。来る! 来る! 来る!!

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 そして一瞬の間にイレンカトムの目前を通ってしまった。

  ( ) せそうな 塵埃 ( じんあい ) の雲を透して、なおも飛んで行く豊坊の、小さい帽子に向って、イレンカトムは思わず、

「ウッウッーッ!」

と声を出しながら拳を握って四股を踏んだ。それから、溶けそうな眼をして、ソロソロと長い髭を撫で下した。

 斯様にして、当分の間はイレンカトムも、仕合わせな 年寄 ( エカシ ) であった。

 僅かの間に、豊坊の身なりはめきめきと奇麗になって来るし、馬の扱いは益々手に入って来る。

 体もぐんぐん大きくなって、どことなく大人らしく 成熟 ( ませ ) た豊は、離れて暮さなければならないイレンカトムの心に、唯一の偶像であった。

 実際、大胆で無智で、野生のままの少年は、その容貌なり態度なりに、一種の魅力を持っている。確かに醜くはない。

 澄み渡った声で悪口を云いながら、ちょっと左の方へ歪める意地悪そうな真赤な唇。いつも皆を鼻で ( あしら ) うようにジロリと横目を使う大きな眼。それ等は色彩の濃い、田舎のハイカラ洋服ときっちり調和して、狭い御者台の上にパッと光っていたのである。

 馬の扱いが巧者になるに連れて、豊は煙草の持ちかたも、酒の飲みかたも覚えた。

 いつの間にかは、馬車賃をちょろまかすことも平気になって、イレンカトムが黒を相手に、ポツポツと種を蒔き、種を刈入れている間に、豊の生活は彼の想像も及ばないように変って行った。

 昨日までの子供であった豊の目前に、急に展開せられた種々雑多の世界に対しても、彼は矢張り、「すかんぼう」を振り廻して飛んで行った息子である。

 行かれる処へ大胆に、陽気に侵入して行く彼の勇気を傷けるものは何もない。

 自分の行為を判断する道徳も、臆病も、持ち合わせない彼にとって、 煽動 ( おだて ) 御輿 ( みこし ) に王様然と倚りながら、担ぎ廻られることは決して詰らないことではない。

 ただでは云わないお世辞で、自分の容貌、 ( うで ) 等に法外の自信を持った十七の彼は、借金も自分の代りに償ってくれる者を控えている心強さから、存分の 放埒 ( ほうらつ ) をした。

 豊は、時々主人の処へ行って、二三十円立替えてくれと云う。主人の方も、イレンカトムがいるから、雑作なく貸してやる。

 すると、その金で早速、金の彫刻のついた指環を買って来て、獲った者にはそれを遣ろうと、女達の真中に投げ込む。

 そして、キャアキャア云いながら、引掻いたり、 ( ころが ) し合って奪い合う様子を、例の横目で眺めながら、

「何たら ( ざま ) だ! 馬鹿野郎、そんなに欲しいか、ハハハハハハ」

と、さも心持よさそうに哄笑する。

 これが彼である。もう 黄棟樹 ( ニガキ ) で頭をたでてもらった豊坊ではない。気前が好くて、道楽者の、稲田屋の豊さんに成り終せたのである。

 いくら三里離れているといっても、まさかこのことがイレンカトムに知れないことはない。

 豊に対するあらゆる非難は、皆彼の処へ集まっていたのである。

 けれども、イレンカトムは、かつて豊が悪い奴だと云ったこともなければ、勿論思ったこともない。彼はただ、困ったものだ、早く目が覚めてくれれば好いと云うだけである。

 また、実際イレンカトムは、他の人々が驚くほど楽観していた。

 高慢で、馬鹿ではない豊のことだから、遠からずそんな駄々羅遊びには飽きるだろう、そしたら、気に入った女房でも貰ってやれば、少ばかりの借金くらいは働いて戻すにきまっている。これがイレンカトムの考えであった。

 彼はそうなるにきまっていると思っていたのである。

 けれども、その年の末、豊の借金のために七頭も 土産馬 ( どさんば ) を手放さなければならなくなったときは、さすがのイレンカトムも、心を痛めずにはいられなかった。が、彼は、

「ええ加減に止めるべし、な、豊坊。俺あ困るで……」

と云っただけであった。