University of Virginia Library

 近所の者は皆、 年寄 ( エカシ ) は偉い者を背負い込んだものだと云う。 悪魔 ( ニツネカムイ ) に取っつかれたように仕様むねえ 若者 ( ウペンクル ) だと云う者もある。

 完く、豊が、賞むべき若者でないことは、イレンカトムも知っている。仕様むねえとも思うし、困った者だとも思う。が、彼にはどうしてもそれ以上思えないのである。

 いくらなんと云われても、何をしても可愛いには ( ごう ) も変りがない。どこがどう可愛いのかは分らないが、十人が十人口を揃えて悪く云うときでも、俺だけは余計に可愛いような心持がして来る。

 真実血統があるでもない、この「やくざな若者」が、どうしてあんなにも可愛いかと云うことが、 ( はた ) の者の一不思議であるとともに、イレンカトム自身にとっても、確かに一つの神秘であった。

 ときどき、彼は自分と豊との間に ( つなが ) っている、不思議な因縁を考えずにはいられない。

 心配と損失ばかりに報われながら、それでも消すことの出来ない、不思議な愛情に就て、思案せずにはいられない。

 何してこげえに、豊坊が 可愛 ( めん ) げえか……?

 彼は考え始める。

 けれども、彼の思索は決して理論的なものでもなければ、科学的なものでもない。祖先からの遺物であるファンタスティックな空想が、豊と自分とを二つの中心にして、驚くべき力で活動し始めるのである。

 豊という名を思う毎に、イレンカトムの心にはきっと、もう一つの名が浮んで来る。それは早く ( ) くなった妻のペケレマット(照り輝く女という意味)である。死ぬときまで、子供のないことを歎きながら死んだペケレマット……彼は何だか彼女と豊との間には、きっと何か自分の力で知ることの出来ない関係があるように思われて来る。

 若しかすると、豊は彼女から生れるはずであったのを早く死んだばかりで、他の女の腹を借りて自分の処へ来るように成ったのではあるまいか。

 彼にはどうしても、ペケレマットの臨終の願望によって、豊は自分に来たらしく思われる。そして、生きている自分と、霊に成ったペケレマットとの愛情が、ただ彼の上にのみ注ぎ合って、豊はあんなに美くしく生れ出た。 ( たくま ) しい子孫を与えるために、神様が下すった者ではあるまいか、きっとそうに違いない。

 が、そうして見ると、神様は何故あんな道楽者になすったか?

 イレンカトムも、これには困ってしまう。けれども、神の仕事をいつも邪魔するニツネカムイ――悪魔がいたずらをどうしてしないと云えるだろう。

 何にしろ、神が天地を創るときにさえ、太陽を呑んで邪魔しようとしたほどの悪魔だもの、自分に来る子が、余り美くしく、余り立派なのを見て妬まないことがあろう?

 そして、考えれば考えるほど可愛い者は、豊だ、ということに落付くのである。

 こうして見ると、彼の豊に対する愛情は、亡き妻に対し、見えない神に対し、また豊の陰にいれこになっている未見の子孫達に対する愛情とすっかり混り合っているのである。

 自分の不幸な部分は皆悪魔のせいにして、諦めて行こうとする心持も入っている。が、彼はここまでは考えて来ない。万事を、 ( カムイ ) 悪魔 ( ニツネカムイ ) との間に纏めるのである。

 こういう心持を持っているイレンカトムは、豊に就て、真面目に苦しみ、案じている、その苦痛、その愛情を謡わずにはいられない心持をも、また持っていた。

  ( ) った一人で、広い耕地に働いているようなとき……。

  四辺 ( あたり ) には、何の音もしない。ヒッソリとしたうちに、サクッサクッと土を掘り返す音、微かに泥の崩れる音、鍬の調子に連れて出る息の音等が、動くに従って彼の体の囲りに小さく響くばかりである。

 静かなもんじゃなあ、と彼は思う。

 そして、何とはなし、物懐かしいような心持になって首をあげ、あちらこちらを見廻しながら額を拭く。

 拭きながら見上げると、高い高い空は、ちょうど真中頃に飾物のように美くしい 太陽 ( チュプ )

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を転しながら、まるで 瑠璃 ( るり ) 色の 硝子 ( ビンドロ ) のように澄んでいる。眼をシパシパさせながら、なお見ると、ようやく眼の届くような処に ( とんび ) が三羽飛んでいる。

 紙か何かで拵えた 玩具 ( おもちゃ ) の鳶を、天の奥に住んでいる神様の子供が振り廻してでもいるように、クールリクルリと舞っている。

 際どい処で擦違ったり、追い越したりしながら、 ( まあ ) るくまあるく飛んでいる。

 上ったり……下ったり……右へ行ったり……左へ行ったり……

 面白いものだなあと思っているうちに、二つの瞳から入った律動が、だんだんと彼の胸を、想いを揺り動かして来る。

 そして、知らないうちに囁きは ( つぶやき ) になり、呟は謡となってイレンカトムの唇には、燃え出した霊の華が、 絢爛 ( けんらん ) と咲き始めるのである。

 抑えられない感興の波に乗り、眼を瞑り手を拍って我も人もなく大気の下に謡うとき、イレンカトムよ! 卿の額は何という光りで輝き渡る事だろう。

 彼は、その

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太陽を謡う。その
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蒼空を讃美する。

 この 蒼穹 ( そうきゅう ) のように麗わしく、雲のように巧な繍手であったペケレマットよ!

 今巣立ちした、鳥の王なる若鷹のように雄々しい我が息子よ!

 我が父も、そのまた父も耕したこの地に立って、お前方に呼び掛ける、この年老いた父の言葉を、

 我妻よ! 我子よ! どうぞ聞いてくれ!

 母音の多い一言一言が、短かい綴りとなって古風な旋律のままにはるばると謡い出されるとき、彼というものは、その華麗な古語のうちに溶け込んでしまうのが常であった。

 彼は野へ行っても、山へ行っても、興さえ湧けば処かまわず謡い出す。

 悲しいとき、嬉しいとき、昔の思出の堪え難いとき、彼はただ謡うことだけを知っていたのである。

 こうして春と夏とが過ぎて行った。