歌よみに与ふる書 (Utayomi ni atauru sho) | ||
九 ( ここの ) たび歌よみに与ふる書
一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に 遷 ( うつ ) り候べく候。
箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる 技倆 ( ぎりょう ) には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の 造詣 ( ぞうけい ) の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。
新古今に移りて二、三首を挙げんに
( 実定 ( さねさだ ) )
この歌の如く客観的に景色を善く写したるものは、新古今以前にはあらざるべく、これらもこの集の特色として見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が 疵 ( きず ) にて候。一面にたなびきたる霞に間といふも 可笑 ( おか ) しく、 縦 ( よ ) し間ありともそれはこの趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。
( 信明 ( のぶあき ) )
これも客観的の歌にて、けしきも 淋 ( さび ) しく 艶 ( えん ) なるに、語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。
( 西行 ( さいぎょう ) )
西行の心はこの歌に現れをり候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて、この歌などはかへつて知る人少きも口 惜 ( おし ) く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は、西行ならでは 得 ( え ) 言はざるべく、特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が 新 ( あらた ) に俳諧を興せしも 寂 ( さび ) は「庵を並べん」などより 悟入 ( ごにゅう ) し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと 被思 ( おもわれ ) 候。
( 能因 ( のういん ) )
これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとてやや混雑に陥りたれど、葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。
( 慈円 ( じえん ) )
趣味ありて句法もしつかりと致しをり候。この種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く、下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。
(読人しらず)
実景をそのままに写し 些 ( さ ) の 巧 ( たくみ ) を 弄 ( もてあそ ) ばぬ所かへつて興多く候。
( 俊恵 ( しゅんえ ) )
神祇 ( じんぎ ) の歌といへば千代の八千代のと 定文句 ( きまりもんく ) を並ぶるが常なるにこの歌はすつぱりと言ひはなしたる、なかなかに神の 御心 ( みこころ ) にかなふべく覚え候。句のしまりたる所、半ば客観的に叙したる所など注意すべく、神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響きをり候。
( 伝教 ( でんぎょう ) )
いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今 未曾有 ( みぞう ) にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なればさまで口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらとにもあらざるべけれど、この所はことさらとにも九字位にする必要有之、もし七字句などを以て止めたらんには、上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために、後にも字余りの句を置かねばならぬ場合はしばしば有之候。もし字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は、字余りの趣味を解せざるものにや候べき。
(明治三十一年三月三日)
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