歌よみに与ふる書 (Utayomi ni atauru sho) | ||
五 ( いつ ) たび歌よみに与ふる書
といふは 春海 ( はるみ ) のなりしやに覚え候。これは不尽の 裾 ( すそ ) より見上げし時の即興なるべく、生も実際にかく感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語 如何 ( いかが ) や、心あてに見し処は少くも 半腹 ( はんぷく ) 位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、ただ心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く 壮 ( さかん ) なる様を詠まんとならば、今少し力強き歌ならざるべからず、この歌の姿弱くして到底不尽に 副 ( そ ) ひ申さず候。 几董 ( きとう ) の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に 叙 ( じょ ) し去りたれども不尽の趣はかへつて善く現れ申候。
契沖 ( けいちゅう ) の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。この歌の伝称せらるるは、いふまでもなく八重一重の 掛合 ( かけあわせ ) にあるべけれど、余の攻撃点もまた 此処 ( ここ ) に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と、他の人の極めて 誹 ( そし ) る処とは同じ点にある者に候。八重霞といふもの 固 ( もと ) より八段に分れて霞みたるにあらねば、一重といふこと一向に利き不申、また 初 ( はじめ ) に「 藻汐 ( もしお ) 焼く」と置きし故、後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処、いよいよ俗に 堕 ( お ) ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐 焚 ( や ) く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬまでもかかる 厭味 ( いやみ ) は出来申間敷候。
この 躬恒 ( みつね ) の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも 無之 ( これなき ) 駄歌に御座候。この歌は 嘘 ( うそ ) の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる 気遣 ( きづかい ) 無之候。趣向嘘なれば趣も 糸瓜 ( へちま ) も 有之不申 ( これありもうさず ) 、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例へば「 鵲 ( かささぎ ) のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ 更 ( ふ ) けにける」面白く候。躬恒のは 瑣細 ( ささい ) な事をやたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、 家持 ( やかもち ) のは全くない事を空想で現はして見せたる故面白く 被感 ( かんぜられ ) 候。嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。雀が舌を 剪 ( き ) られたとか、 狸 ( たぬき ) が 婆 ( ばば ) に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、 真面目 ( まじめ ) らしく人を 欺 ( あざむ ) く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて 楽 ( たのし ) む歌よみが多く候へども、これらも面白からぬ嘘に候。 総 ( すべ ) て嘘といふものは、一、二度は善けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。まして面白からぬ嘘はいふまでもなく候。「露の音」「月の 匂 ( におい ) 」「風の色」などは 最早 ( もはや ) 十分なれば、今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。
「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに 被成 ( なされ ) ては 如何 ( いかが ) や。闇の梅に限らず、普通の梅の香も『古今集』だけにて十余りもあり、それより今日までの代々の歌よみがよみし梅の香は、おびただしく数へられもせぬほどなるに、これも善い加減に打ちとめて、香水香料に御用ゐ被成候は格別、その外歌には一切これを入れぬ事とし、鼻つまりの歌人と 嘲 ( あざけ ) らるるほどに御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。
(明治三十一年二月二十三日)
歌よみに与ふる書 (Utayomi ni atauru sho) | ||