歌よみに与ふる書 (Utayomi ni atauru sho) | ||
六 ( む ) たび歌よみに与ふる書
御書面を見るに愚意を誤解 被致 ( いたされ ) 候。 殊 ( こと ) に変なるは御書面中四、五行の間に 撞著 ( どうちゃく ) 有之候。 初 ( はじめ ) に「客観的景色に重きを 措 ( お ) きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思はれず」 云々 ( うんぬん ) とあるは如何。生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客観に重きを置けと申したる事もなけれどこの方は愚意に近きやう覚え候。「皇国の歌は感情を 本 ( もと ) として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。ことさらに皇国の歌はなど言はるるは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと 被怪 ( あやしまれ ) 候。「いづれの世にいづれの人が理窟を読みては歌にあらずと定め候 哉 ( や ) 」とは驚きたる 御問 ( おんとい ) に有之候。理窟が文学に 非 ( あら ) ずとは古今の人、東西の人 尽 ( ことごと ) く一致したる定義にて、もし理窟をも文学なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候。
客観主観感情理窟の語につきて、あるいは愚意を誤解 被致 ( いたされ ) をるにや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を 竢 ( ま ) たず。例へば橋の 袂 ( たもと ) に柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、 元 ( も ) とこの歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は 勿論 ( もちろん ) にて、ただうつくしいとか、 綺麗 ( きれい ) とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を 著 ( つ ) くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。 但 ( ただし ) 和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも 此処 ( ここ ) の事を意味すると見れば 差支 ( さしつかえ ) 無之候。また主観客観の区別、感情理窟の限界は実際判然したる者に非ずとの 御論 ( ごろん ) は 御尤 ( ごもっとも ) に候。それ故に善悪可否巧拙と評するも 固 ( もと ) より画然たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは 毫 ( ごう ) も 紛 ( まぎ ) るる所あらねど、巧と拙との中間にある者は巧とも拙とも申し 兼 ( かね ) 候。感情と理窟の中間にある者はこの場合に当り申候。
「同じ用語同じ花月にてもそれに対する 吾人 ( ごじん ) の観念と古人のと相違する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれど、そんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を 忖度 ( そんたく ) するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は 風帆船 ( ふうはんせん ) が早かつた時代もありしかど、蒸気船を知りてをる眼より見れば、風帆船は遅しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも、前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば、貫之を下手と評することまた至当に候。歴史的に貫之を 褒 ( ほ ) めるならば生も 強 ( あなが ) ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的にその人物を評するにあらず、文学的にその歌を評するが目的に有之候。
「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは何事ぞ。代々の 勅撰集 ( ちょくせんしゅう ) の如き者が日本文学の城壁ならば、実に頼み少き城壁にて、かくの如き薄ツぺらな城壁は、大砲一発にて 滅茶滅茶 ( めちゃめちゃ ) に 砕 ( くだ ) け可申候。生は国歌を破壊し尽すの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の 髯 ( ひげ ) づらどもが大砲を 発 ( はな ) たうが地雷火を 仕掛 ( しか ) けうが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき 心願 ( しんがん ) 有之、しかも生を助けてこの心願を 成就 ( じょうじゅ ) せしめんとする 大檀那 ( おおだんな ) は天下一人もなく、数年来 鬱積 ( うっせき ) 沈滞せる者 頃日 ( けいじつ ) 漸 ( ようや ) く出口を得たる事とて、 前後 ( ぜんご ) 錯雑 ( さくざつ ) 序次 ( じょじ ) 倫 ( りん ) なく 大言 ( たいげん ) 疾呼 ( しっこ ) 、われながら狂せるかと存候ほどの次第に御座候。傍人より見なば定めて狂人の言とさげすまるる事と存候。なほこのたび新聞の余白を借り得たるを機とし思ふ様愚考も述べたく、それだけにては愚意分りかね候に付、愚作をも連ねて御評願ひたく存じをり候へども、あるいは先輩諸氏の怒に触れて差止めらるるやうな事はなきかと、それのみ心配 罷 ( まかり ) あり候。心配、 恐懼 ( きょうく ) 、喜悦、感慨、希望等に悩まされて従来の病体益々神経の過敏を致し、 日来 ( ひごろ ) 睡眠に不足を生じ候次第、愚とも狂とも御笑ひ 可被下 ( くださるべく ) 候。
従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と 為 ( な ) さんとするは、弓矢 剣槍 ( けんそう ) を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を 購 ( あがな ) ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、 畢竟 ( ひっきょう ) 日本国を固むるに外ならず、されば 僅少 ( きんしょう ) の金額にて購ひ得べき外国の文学思想 抔 ( など ) は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、 随 ( したが ) つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。委細後便。
追て、伊勢の神風、宇佐の神勅云々の語あれども、文学には合理非合理を論ずべき者にては無之、従つて非合理は文学に非ずと申したる事無之候。非合理の事にて文学的には面白き事 不少 ( すくなからず ) 候。生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の 謂 ( いい ) にては無之候。油画師は必ず写生に依り候へども、それで神や 妖怪 ( ようかい ) やあられもなき事を面白く画き申候。しかし神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、ただありのままを写生すると、一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様の事に候。これらは大誤解に候。
(明治三十一年二月二十四日)
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