University of Virginia Library

4. 四「いき」の自然的表現

今迄は意識現象としての「いき」を考察して來た。今度は客觀的表現の形を取つた「いき」を、理解さるべき存在樣態と見て行かねばならぬ。意味としての「いき」の把握は、後者を前者の上に基礎附け、同時に全體の構造を會得する可能性に懸つてゐる。さて「いき」の客觀的表現は、 ◎◎◎◎ ( 自然形式 ) としての表現、即ち自然的表現と、 ◎◎◎◎◎ ( 藝術的表現 ) としての表現、即ち藝術的表現との二つに區別することが出來る。この兩表現形式が果して截然たる區別を許すかの問題

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、即ち自然形式とは畢竟藝術形式に外ならないのではないかといふ問題は極めて興味ある問題であるが、今はその問題には觸れずに、單に便宜上、通俗の考へ方に從つて自然形式と藝術形式との二つに分けて見る。先づ自然形式としての表現に就て考へて見よう。自然形式と云へば、いはゆる「象徴的感情移入」の形で自然界に ◎◎◎◎ ( 自然象徴 ) を見る場合、例へば柳や小雨を「いき」と感ずる如き場合をも意味し得るが、ここでは特に「本來的感情移入」の範圍に屬する ◎◎◎◎◎ ( 身體的發表 ) を自然形式と考へて置く。

 身體的發表としての「いき」の自然形式は、 ◎◎ ( 聽覺 ) としては先づ言葉づかひ、即ちものの言振りに表はれる。『男へ對しそのものいひは、あまえずして色氣あり』とか『言の葉草も野暮ならぬ』とかいふ場合がそれであるが、この種の「いき」は普通は一語の發音の仕方、語尾の抑揚などに特色をもつて來る。即ち、一語を普通よりも稍長く引いて發音し、然る後、急に抑揚を附けて言ひ切ることは言葉遣としての「いき」の基礎をなしてゐる。この際、長く引いて發音した部分と、急に言ひ切つた部分とに、言葉のリズムの上の二元的對立が存在し、且つ、この二元的對立が「いき」のうちの媚態の二元性の客觀的表現と解される。音聲としては、甲走つた最高音よりも、稍さびの加はつた次高音の方が「いき」である。さうして、ことばのリズムの二元的對立が次高音によつて構成された場合に、「いき」の質料因と形相因とが完全に客觀化されるのである。しかし、身體的發表としての「いき」の表現の自然形式は ◎◎ ( 視覺 ) において最も明瞭な且つ多樣な形で見られる

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 視覺に關する自然形式としての表現とは、姿勢、身振その他を含めた廣義の表情と、その表情の支持者たる基體とを指して云ふのである。先づ、全身に關しては、 ◎◎◎◎◎◎◎ ( 姿勢を輕く崩す ) ことが「いき」の表現である。鳥居清長の繪には男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味に於て、またあらゆるニュアンスに於て、この表情が驚くべき感受性をもつて捉へてある。「いき」の質料因たる二元性としての媚態は、姿體の一元的平衡を破ることによつて、異性へ向ふ能動性および異性を迎ふる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現實的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加へて、放縱なる二元性の措定を妨止する。『白楊の枝の上で體をゆすぶる』セイレネスの妖態や『サチロス仲間に氣に入る』バックス祭尼の狂態、即ち腰部を左右に振つて現實の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。姿勢の相稱性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移に於て、非現實的理想主義を自覺することが、「いき」の表現としては重要なことである。

 なほ、全身に關して「いき」の表現と見られるのは ◎◎◎◎◎◎◎◎◎ ( うすものを身に纒ふ ) ことである。『明石からほのぼのとすく緋縮緬』といふ句があるが、明石縮を着た女の緋の襦袢が透いて見えることを云つてゐる。うすもののモティーフは屡々浮世繪にも見られる。さうしてこの場合、「いき」の質料因と形相因との關係が、うすものの透かしによる異性への通路開放と、うすものの覆ひによる通路封鎖として表現されてゐる。メディチのヴェヌスは裸體に加へた兩手の位置によつて特に媚態を言表してゐるが、言表の仕方が餘りにあからさまに過ぎて「いき」とは云へない。また、巴里のルヴューに見る裸體が「いき」に對して何等の關係をももつてゐないことは云ふ迄もない。

 「いき」な姿としては ◎◎◎◎◎ ( 湯上がり姿 ) もある。裸體を囘想として近接の過去にもち、あつさりした浴衣を無造作に着てゐるところに媚態とその形相因とが表現を完うしてゐる。『いつも立寄る湯歸りの、姿も粹な』とは「春色辰巳園」の米八だけに限つたことではない。「垢拔」した湯上り姿は浮世繪にも多い畫面である。春信も湯上り姿を描いた。それのみならず既に紅繪時代に於てさへ奧村政信や鳥居清滿などによつて畫かれてゐることを思へば、いかに特殊の價値をもつてゐるかがわかる。歌麿も「婦女相學十躰」の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかつた。然るに西洋の繪畫では、湯に入つてゐる女の裸體姿は往々あるに拘らず、湯上り姿は殆んど見出すことが出來ない。

 表情の支持者たる基體に就ていへば、 ◎◎◎◎◎◎ ( 姿が細つそり ) して柳腰であることが、「いき」の客觀的表現の一と考へ得る。この點に就て殆んど狂信的な信念を聲明してゐるのは歌麿である。また、文化文政の美人の典型も元祿美人に對して特にこの點を主張した。「浮世風呂」に『細くて、お綺麗で、意氣で』といふ形容詞の一聯がある。「いき」の形相因は非現實的理想性である。一般に非現實性、理想性を客觀的に表現しようとすれば、勢ひ細長い形を取つて來る。細長い形状は肉の衰へを示すと共に靈の力を語る。精神自體を表現しようとしたグレコは細長い繪ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としてゐる。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもつてゐる。「いき」が靈化された媚態である限り、「いき」な姿は細つそりしてゐなくてはならぬ。

 以上は全身に關する「いき」であつたが、なほ顏面に關しても、基體としての顏面と、顏面の表情との二方面に「いき」が表現される。基體としての顏面、即ち顏面の構造の上からは、一般的に云へば丸顏よりも ◎◎ ( 細おもて ) の方が「いき」に適合してゐる。『當世顏は少し丸く』と西鶴が言つた元祿の理想の豐麗な丸顏に對して、文化文政が細面の瀟洒を善しとしたことはそれを證してゐる。さうして、その理由が、姿全體の場合と同樣の根據に立つてゐるのは云ふ迄もない。

 顏面の表情が「いき」なるためには、 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎ ( 眼と口と頬とに弛緩と緊張 ) とを要する。これも全身の姿勢に輕微な平衡破却が必要であつたのと同じ理由から理解出來る。 ( ) に就ては、流眄が媚態の普通の表現である。流眄、即ち、流し目とは瞳の運動によつて、媚を異性にむかつて流し遣ることである。その樣態化としては横目、上目、伏目がある。側面に異性を置いて横目を送るのも媚であり、下を向いて上目ごしに正面の異性を見るのも媚である。伏目もまた異性に對して色氣ある恥しさを暗示する點で媚の手段に用ひられる。これらすべてに共通するところは、異性への運動を示すために、眼の平衡を破つて常態を崩すことである。しかし、單に「色目」だけでは未だ「いき」ではない。「いき」であるためには、なほ眼が過去の潤ひを想起させるだけの一種の光澤を帶び、瞳はかろらかな諦めと凛乎とした張りとを無言のうちに有力に語つてゐなければならぬ。 ( ) は、異性間の通路としての現實性を具備してゐることと、運動に就て大なる可能性をもつてゐることとに基いて、「いき」の表現たる弛緩と緊張とを極めて明瞭な形で示し得るものである。「いき」の無目的な目的は唇の微動のリズムに客觀化される。そうして口紅は唇の重要性に印を押してゐる。 ( ) は、微笑の音階を司つてゐる點で、表情上重要なものである。微笑としての「いき」は快活な長音階よりは寧ろ稍悲調を帶びた短音階を擇ぶのが普通である。西鶴は頬の色の『薄花櫻』であることを重要視してゐるが、「いき」な頬は吉井勇が『うつくしき女なれども小夜子はも凄艶なれば秋にたとへむ』と云つてゐるやうな秋の色を帶びる傾向をもつてゐる。要するに顏面に於ける「いき」の表現は、片目を塞いだり、口部を突出させたり、『雙頬でジヤズを演奏する』などの西洋流の野暮さと絶縁することを豫件としてゐる。

 なほ一般に顏の粧ひに關しては、 ◎◎◎ ( 薄化粧 ) が「いき」の表現と考へられる。江戸時代には京阪の女は濃艶な厚化粧を施したが、江戸ではそれを野暮と卑しんだ。江戸の遊女や藝者が「婀娜」と云つて貴んだのも薄化粧のことである。『あらひ粉にて磨きあげたる貌へ、仙女香をすりこみし薄化粧は、ことさらに奧ゆかし』と春水も云つてゐる。また西澤李叟は江戸の化粧に關して『 かみがた ( 上方 ) の如く白粉べたべたと塗る事なく、至つて薄く目立たぬをよしとす、元來女は男めきたる氣性ある所の故なるべし』と云つてゐる。「いき」の質料因と形相因とが、化粧を施すといふ媚態の言表と、その化粧を暗示に止めるといふ理想性の措定とに表はれてゐる。

  ◎◎◎◎◎◎◎ ( 髮は略式のもの ) が「いき」を表現する。文化文政には正式な髮は丸髷と島田髷とであつた。且つ島田髷としては殆んど文金高髷に限られた。これに反して、「いき」と見られた結振りは銀杏髷、樂屋結など略式の髮が、さもなくば島田でも潰し島田、投げ島田など正形の崩れたものであつた。また特に粹を標榜してゐた深川の辰巳風俗としては、油を用ひない水髮が喜ばれた。『後ろを引詰め、たぼは上の方へあげて水髮にふつくりと少し出し』た姿は『他所へ出してもあたま許りで辰巳仕入と見えたり』と「船頭深話」は云つてゐる。正式な平衡を破つて、髮の形を崩すところに異性へ向つて動く二元的「媚態」が表はれて來る。またその崩し方が輕妙である點に「垢拔」が表現される。『結ひそそくれしおくれ髮』や『ゆふべほつるる鬢の毛』がもつ「いき」も同じ理由から來てゐる。然るにメリサンドが長い髪を窓外のペレアスに投げかける所作には「いき」なところは少しもない。また一般にブロンドの髮のけばけばしい黄金色よりは、黒髮のみどりの方が「いき」の表現に適合性をもつてゐる。

 なほ「いき」なものとしては ◎◎◎◎ ( 拔き衣紋 ) が江戸時代から屋敷方以外で一般に流行した。襟足を見せるところに媚態がある。喜田川守貞の「近世風俗志」に『首筋に白粉ぬること一本足と號つて、際立たす』といひ、また特に遊女、町藝者の白粉に就いて『頸は極て濃粧す』と云つてゐる。さうして首筋の濃粧は主として拔き衣紋の媚態を強調するためであつた。この拔き衣紋が「いき」の表現となる理由は、衣紋の平衡を輕く崩し、異性に對して肌への通路をほのかに暗示する點に存してゐる。また、西洋のデコルテのやうに、肩から胸部と背部との一帶を露出する野暮に陷らないところに、拔き衣紋の「いき」としての味があるのである。

  ◎◎ ( 左褄 ) を取ることも「いき」の表現である。『歩く拍子に紅のはつちと淺黄縮緬の下帶がひらりひらりと見へ』とか『肌の雪と白き浴衣の間にちらつく緋縮緬の湯もじを蹴出すうつくしさ』とかは確かに「いき」の條件に適つてゐるに相違ない。「春告鳥」の中で『入り來る婀娜者』は『褄をとつて白き足を見せ』てゐる。浮世繪師も種々の方法によつて脛を露出させてゐる。さうして、およそ裾さばきのもつ媚態をほのかな形で象徴化したものが即ち左褄である。西洋近來の流行が、一方には裾を短くして殆んど膝まで出し、他方には肉色の靴下をはいて錯覺の効果を豫期してゐるに比して、『ちよいと手がるく褄をとり』といふのは、遙かに媚態としての纖巧を示してゐる。

  ◎◎ ( 素足 ) もまた「いき」の表現となる場合がある。『素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや』と云ひながら、江戸藝者は冬も素足を習とした。粹者の間にはそれを眞似て足袋を履かない者も多かつたといふ。着物に包んだ全身に對して足だけを露出させるのは確かに媚態の二元性を表はしてゐる。しかし、この着物と素足との關係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反對の方向を採つてゐる。そこにまた素足の「いき」たる所以がある。

 手は媚態と深い關係をもつてゐる。「いき」の無關心な遊戲が男を誘惑する「手管」は單に「手附」に存する場合も決して少なくない。「いき」な手附は ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎ ( 手を輕く反らせることや曲げること ) のニュアンスのうちに見られる。歌麿の繪のうちには全體の重心が手一つに置かれてゐるのがある。しかし、更に一歩を進めて、手は顏に次いで、個人の性格を表はし、過去の體驗を語るものである。我々はロダンが何故に屡々手だけを作つたかを考へて見なければならぬ。手判斷は決して無意味なものではない。指先まで響いてゐる餘韻によつて魂そのものを判斷するのは不可能ではない。さうして、手が「いき」の表現となり得る可能性も畢竟この一點に懸つてゐる。

 以上、「いき」の身體的發表

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を、特にその視覺的發表を、全身、顏面、頭部、頸、脛、足、手に就て考察した。およそ意識現象としての「いき」は、異性に對する二元的措定としての媚態が、理想主義的非現實性によつて完成されたものであつた。その客觀的表現である自然形式の要點は、一元的平衡を輕妙に打破して二元性を暗示するといふ形を採るものとして闡明された。さうして、平衡を打破して二元性を措定する點に「いき」の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現實性が認められた。

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