University of Virginia Library

2. 二 「いき」の内包的構造

 意識現象の形に於て意味として開示される「いき」の會得の第一の課題として、我々は先づ「いき」の意味内容を形成する徴表を ◎◎◎ ( 内包的 ) に識別してこの意味を ◎◎ ( 判明 ) ならしめねばならない。次で第二の課題として、類似の諸意味とこの意味との區別を ◎◎◎ ( 外延的 ) に明かにしてこの意味に ◎◎ ( 明晰 ) を與へることを計らねばならない。かやうに「いき」の内包的構造と外延的構造とを均しく闡明することによつて、我々は意識現象としての「いき」の存在を完全に會得することが出來るのである。

 先づ内包的見地にあつて、「いき」の第一の徴表は異性に對する「 ◎◎ ( 媚態 ) 」である。異性との關係が「いき」の原本的存在を形成してゐることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といへば異性との交渉に關する話を意味してゐる。なほ「いきな話」とか「いきな事」とかいふうちにはその異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでゐる。近松秋江の「意氣なこと」といふ短篇小説は「女を圍ふ」ことに關してゐる。さうして異性間の尋常ならざる交渉は媚態の皆無を前提としては成立を想像することが出來ない。即ち「いきな事」の必然的制約は何等かの意味の媚態である。然らば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に對して異性を措定し、自己と異性との間に可能的關係を構成する二元的態度である。さうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやつぽさ」「色氣」などはすべてこの二元的可能性を基礎とする緊張に外ならない。いはゆる「上品」はこの二元性の缺乏を示してゐる。さうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であつて、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する。媚態は異性の征服を假想的目的とし、目的の實現と共に消滅の運命をもつたものである。永井荷風が「歡樂」のうちで『得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない』と云つてゐるのは、異性の雙方において活躍してゐた媚態の自己消滅によつて齎らされた『倦怠、絶望、嫌惡』の情を意味してゐるに相違ない。それ故に、二元的關係を持續せしむること、即ち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、從つて「歡樂」の要諦である。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに從つて減少するものではない。距離の接近は却つて媚態の強度を増す。菊池寛の「不壞の白珠」のうちで「媚態」といふ表題の下に次の描寫がある。『片山氏は……玲子と間隔をあけるやうに、なるべく早足に歩かうとした。だが、玲子は、そのスラリと長い脚で……片山氏が、離れようとすればするほど寄り添つて、すれずれに歩いた』。媚態の要は、距離を出來得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は實に動的可能性として可能である。アキレウスは『そのスラリと長い脚で』無限に龜に近迫するがよい。しかし、ヅエノンの逆説を成立せしめることを忘れてはならない。蓋し、媚態とは、その完全なる形に於ては、異性間の二元的動的可能性が可能性の儘に絶對化されたものでなければならない。「繼續された有限性」を繼續する放浪者、「惡い無限性」を喜ぶ惡性者、「無窮に」追跡して仆れないアキレウス、この種の人間だけが本當の媚態を知つてゐるのである。さうして、かやうな媚態が「いき」の基調たる「色つぽさ」を規定してゐる。

 「いき」の第二の徴表は「意氣」即ち「 ◎◎◎ ( 意氣地 ) 」である。意識現象としての存在樣態である「いき」のうちには江戸文化の道徳的理想が鮮かに反映されてゐる。江戸兒の氣慨が契機として含まれてゐる。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粹」の江戸兒は誇りとした。「江戸の花」には命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚んだ。「いき」には「江戸の意氣張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「傳法」などに共通な犯す可らざる氣品氣格がなければならない。『野暮は垣根の外がまへ、三千樓の色競べ、意氣地くらべや張競べ』といふやうに、「いき」は媚態でありながらなほ異性に對して一種の反抗を示す強味をもつた意識である。『鉢卷の江戸紫』に『粹なゆかり』を象徴する助六は『若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい』と云つて喧嘩を賣る助六であつた。『映らふ色やくれなゐの薄花櫻』と歌はれた三浦屋の揚卷も髭の意休に對して『慮外ながら揚卷で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか』といふ思い切つた氣慨を示した。『色と意氣地を立てぬいて、氣立が粹で』とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。「いき」のうちには溌刺として武士道の理想が ◎◎ ( 生き ) てゐる。「武士は食はねど高楊枝」の心がやがて江戸者の「宵越の錢を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴ころ」「不見轉」を卑しむ凛乎たる意氣となつたのである。『傾城は金でかふものにあらず、意氣地にかゆるものとこころへべし』とは廓の掟であつた。『金銀は卑しきものとて手にも觸れず、假初にも物の直段を知らず、泣言を言はず、まことに公家大名の息女の如し』とは江戸の太夫の讚美であつた。『五丁町の辱なり、吉原の名折れなり』といふ動機の下に吉原の遊女は『野暮な大盡などは幾度もはねつけ』たのである。『とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆の下紐を結ぶの神の下心』によつて女郎は心中立をしたのである。理想主義の生んだ「意氣地」によつて媚態が靈化されてゐることが「いき」の特色である。

 「いき」の第三の徴表は「 ◎◎ ( 諦め ) 」である。運命に對する知見に基いて執着を離脱した無關心である。「いき」は垢拔がしてゐなくてはならぬ。あつさり、すつきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によつて生じたのであらうか。異性間の通路として設けられてゐる特殊な社會の存在は戀の實現に關して幻滅の惱みを經驗させる機會を與へ易い。『たまたま逢ふに切れよとは、佛姿にあり乍ら、お前は鬼か清心樣』といふ歎きは十六夜ひとりの歎きではないであらう。魂を打込んだ眞心が幾度か無慘に裏切られ、惱みに惱みを嘗めて鍛へられた心がいつはり易い目的に目をくれなくなるのである。異性に對する淳朴な信頼を失なつてさつぱりと諦むる心は決して無代價で生れたものではない。『思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと』なのである。その裏面には『情ないは唯うつり氣な、どうでも男は惡性者』といふ煩惱の體驗と、『糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻びて』といふ萬法の運命とを藏してゐる。さうしてその上で『人の心は飛鳥川、變るは勤めのならひぢやもの』といふ懐疑的な歸趨と、『わしらがやうな勤めの身で、可愛と思ふ人もなし、思ふて呉れるお客もまた、廣い世界にないものぢやわいな』といふ厭世的な結論とを掲げてゐるのである。「いき」を若い藝者に見るよりは寧ろ年増の藝者に見出すことの多いのは恐らくこの理由によるものであらう

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。要するに「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起原をもつてゐる。さうして「いき」のうちの「諦め」從つて「無關心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を經てすつきりと垢拔した心、現實に對する獨斷的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。『野暮は揉まれて粹となる』といふのはこの謂に外ならない。婀娜つぽい、かろらかな微笑の裏に、眞摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の眞相を把握し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廢の生んだ氣分であるかも知れない。またその藏する體驗と批判的知見とは個人的に獲得したものであるよりは社會的に繼承したものである場合が多いかも知れない。それはいづれであつてもよい。兎も角も「いき」のうちには運命に對する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否み得ない事實性を示してゐる。さうしてまた、流轉、無常を差別相の形式と見、空無、涅槃を平等相の原理とする佛教の世界觀、惡縁にむかつて諦めを説き、運命に對して靜觀を教へる宗教的人生觀が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調し且つ純化しれゐることは疑ひない。

 以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意氣地」と「諦め」との三契機を示してゐる。さうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意氣地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定してゐる。この第二および第三の徴表は第一の徴表たる「媚態」と一見相容れないやうであるが、果して眞に相容れないであらうか。曩に述べたやうに、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。然るに第二の徴表たる「意氣地」は理想主義の齎した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。即ち「意氣地」は媚態の存在性を強調し、その光澤を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意氣地」によつて限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するに外ならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその假想的目的を達せざる點に於て、自己に忠實なるものである。それ故に、媚態が目的に對して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、却つて媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への歸依が運命によつて強要され、可能性の措定が必然性によつて規定されたことを意味してゐる。即ち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」といふ存在樣態に於て、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意氣地」と、佛教の非現實性を背景とする「諦め」とによつて、存在完成にまで限定されるのである。それ故に「いき」は媚態の「粹」

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である。「いき」は安價なる現實の提立を無視し、實生活に大膽なる括弧を施し、超然として中和の空氣を吸ひながら、無目的なまた無關心な自律的遊戲をしてゐる。一言にして云へば、媚態のための媚態である。戀の眞と妄執とは、その現實性とその非可能性によつて「いき」の存在に悖る。「いき」は戀の束縛に超越した自由なる浮氣心でなければならぬ。『月の漏るより闇がよい』といふのは戀に迷つた暗がりの心である。『月がよいとの言草』が即ち戀人にとつては腹の立つ『粹な心』である。『粹な浮世を戀ゆゑに野暮にくらすも心から』といふときも、戀の現實的必然性と、「いき」の超越的可能性との對峙が明示されてゐる。『粹と云はれて浮いた同士』が『つひ岡惚の浮氣から』いつしか恬淡洒脱の心を失つて行つた場合には『またいとしさが彌増して、深く鳴子の野暮らしい』ことを託たねばならない。『蓮の浮氣は一寸惚れ』といふ時は未だ「いき」の領域にゐた。『野暮な事ぢやがこの比翼紋、離れぬ中』となつた時には既に「いき」の境地を遠く去つてゐる。さうして『意氣なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者』といふ皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ『胸の煙は瓦燒く竃にまさる』のは『粹な小梅の名にも似ぬ』のである。スタンダアルのいはゆるamour-passionの陶醉はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒する者はamour-goûtの淡い空氣のうちで蕨を摘んで生きる解脱に達してゐなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るやうな『影に至る迄も一切が ○○○ ( 薔薇色 ) の繪』
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ではない。「いき」の色彩は恐らく『遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴』の ○○○ ( 白茶色 ) であらう。
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 要するに「いき」とは、わが國の文化を特色附けてゐる道徳的理想主義と宗教的非現實性との形相因によつて、質料因たる媚態が自己の存在實現を完成したものであると云ふことが出來る。從つて「いき」は無上の權威を恣にし、至大の魅力を振ふのである。『粹な心についたらされて、嘘と知りてもほんまに受けて』といふ言葉はその消息を簡明に語つてゐる。ケレルマンがその著「日本に於ける散歩」のうちで、日本の至る女に就いて『歐羅巴の女が嘗て到達しない愛嬌を以つて彼女は媚を呈した』

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と云つてゐるのは恐らく「いき」の魅惑を感じたのであらう。我々は最後にこの豐かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現實性とによつて自己の存在を實現する媚態としての「いき」を定義して「 ◎◎◎◎ ( 垢拔して ) (諦)、 ◎◎◎◎ ( 張のある ) (意氣地)、 ◎◎◎◎ ( 色つぽさ ) (媚態)」と云ふことが出來ないであらうか。

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