妖僧記
泉鏡花 (Yosoki) | ||
四
さるほどに 蝦蟇法師 ( がまほうし ) はあくまで 老媼 ( おうな ) の 胆 ( きも ) を奪いて、「コヤ老媼、 汝 ( なんじ ) の主婦を 媒妁 ( なかだち ) して 我 ( わが ) 執念を晴らさせよ。もし 犠牲 ( いけにえ ) を捧げざれば、お通はもとより汝もあまり 好 ( よ ) きことはなかるべきなり、忘れてもとりもつべし。それまで命を預け置かむ、 命冥加 ( いのちみょうが ) な 老耆 ( おいぼれ ) めが。」と 荒 ( あら ) らかに 言棄 ( いいす ) てて、疾風土を 捲 ( ま ) いて起ると覚しく、恐る恐る 首 ( こうべ ) を 擡 ( もた ) げあぐれば、蝦蟇法師は身を以て 隕 ( おと ) すが如く 下 ( くだ ) り 行 ( ゆ ) き、 靄 ( もや ) に隠れて 失 ( う ) せたりけり。
やれやれ 生命 ( いのち ) を拾いたりと、 真蒼 ( まっさお ) になりて 遁帰 ( にげかえ ) れば、冷たくなれる 納台 ( すずみだい ) にまだ二三人居残りたるが、老媼の姿を見るよりも、「探検し来りしよな、蝦蟇法師の 住居 ( すまい ) は 何処 ( いずこ ) 。」と右左より争い問われて、答うる声も震えながら、「何がなし一件じゃ、これなりこれなり。」と、 握拳 ( にぎりこぶし ) を鼻の上にぞ 重 ( かさね ) たる、乞食僧の人物や、これを 痴 ( ち ) と 言 ( いわ ) むよりはたまた狂と言むより、もっとも魔たるに適するなり。もししからずば少なくとも魔法使に適するなり。
かかりし後法師の鼻は甚だ威勢あるものとなりて、 暗裡 ( あんり ) 人をして恐れしめ、自然黒壁を支配せり。こは一般に 老若 ( ろうにゃく ) が 太 ( いた ) く魔僧を 忌憚 ( いみはばか ) かり、敬して遠ざからむと勤めしよりなり、 誰 ( たれ ) か 妖星 ( ようせい ) の天に帰して、眼界を去らむことを望まざるべき。
ここに最もそのしからむことを望む者は、蝦蟇と、清川お通となり。いかんとなればあまたの人の嫌悪に堪えざる乞食僧の、黒壁に出没するは、蝦蟇とお通のあるためなりと 納涼台 ( すずみだい ) にて語り合えるを美人はふと 聞噛 ( ききかじ ) りしことあればなり、思うてここに到る 毎 ( ごと ) に、お通は執心の恐しさに、「母上、母上」と亡母を念じて、 己 ( おの ) が身辺に 絡纏 ( まつわ ) りつつある 淫魔 ( いんま ) を 却 ( しりぞ ) けられむことを哀願しき。お通の心は世に亡き母の今もその身とともに 在 ( おわ ) して、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず 肯 ( き ) かるべしと信ずるなり。
さりながらいかにせむ、お通は 遂 ( つい ) に乞食僧の犠牲にならざるべからざる由老媼の口より宣告されぬ。
前日、黒壁に 賁臨 ( ふんりん ) せる蝦蟇法師への 貢 ( みつぎ ) として、この美人を捧げざれば、到底 好 ( よ ) き事はあらざるべしと、
恫※的 ( どうかつてき ) に乞食僧より、最も 渠 ( かれ ) を信仰してその魔法使たるを疑わざる 件 ( くだん ) の老媼に 媒妁 ( なかだち ) すべく言込みしを、老媼もお通に言出しかねて 一日 ( いちじつ ) 免 ( のが ) れに 猶予 ( ためらい ) しが、厳しく乞食僧に催促されて、 謂 ( い ) わで果つべきことならねば、止むことを得で取次たるなり。しかるにお通は 予 ( あらかじ ) めその趣を心得たれば、老媼が推測りしほどには驚かざりき。美人は冷然として老媼を諭しぬ、「母上の世に 在 ( いま ) さば何とこれを裁きたまわむ、まずそれを思い見よ、必ずかかる乞食の妻となれとはいいたまわじ。」と謂われて返さむ 言 ( ことば ) も無けれど、老媼は甚だしき迷信 者 ( じゃ ) なれば乞食僧の 恐喝 ( きょうかつ ) を 真 ( まこと ) とするにぞ、 生命 ( いのち ) に関わる大事と思いて、「 彼奴 ( かやつ ) は 神通広大 ( じんずうこうだい ) なる魔法使にて候えば、何を 仕出 ( しい ) ださむも 料 ( はか ) り 難 ( がた ) し。さりとて鼻に従いたまえと 私 ( わたくし ) 申上げはなさねども、よき御分別もおわさぬか。」と熱心に云えば 冷 ( ひやや ) かに、「いや、分別も何もなし、たといいかなることありとも、母上の 御心 ( みこころ ) に合わぬ事は誓ってせまじ。」
と手強き謝絶に取附く島なく、老媼は 太 ( いた ) く 困 ( こう ) じ果てしが、何思いけむ 小膝 ( こひざ ) を 拍 ( う ) ち、「すべて一心 固 ( かたま ) りたるほど、強く恐しき者はなきが、鼻が難題を免れむには、こっちよりもそれ相当の難題を吹込みて、これだけのことをしさえすれば、それだけの 望 ( のぞみ ) に応ずべしとこういう風に談ずるが 第一手段 ( いちのて ) に候なり、 昔語 ( むかしがたり ) にさること 侍 ( はべ ) りき、ここに 一条 ( ひとすじ ) の 蛇 ( くちなわ ) ありて、とある 武士 ( もののふ ) の妻に 懸想 ( けそう ) なし、 頑 ( かたくな ) にしょうじ着きて離るべくもなかりしを、その夫 何某 ( なにがし ) 智慧 ( ちえ ) ある人にて、欺きて蛇に約し、 汝 ( なんじ ) 巨鷲 ( おおわし ) の頭 三個 ( みつ ) を得て、それを我に渡しなば、妻をやらむとこたえしに、蛇はこれを 諾 ( うべな ) いて鷲と戦い 亡失 ( ほろびう ) せしということの候なり。されど今 憖 ( なまじい ) に鷲の首などと 謂 ( い ) う時は、かの恐しき魔法使の整え来ぬとも 料 ( はか ) り難く因りて 婆々 ( ばば ) が思案には、( 其方 ( そなた ) の言分承知したれど、親の 許 ( ゆるし ) のなくてはならず、母上だに 引承 ( ひきうけ ) たまわば 何時 ( なんどき ) にても妻とならん、去ってまず母上に 請来 ( こいきた ) れ)と、かように 貴娘 ( あなた ) が仰せられし、と 私 ( わたくし ) より申さむか、何がさて母君は 疾 ( とく ) に世に亡き 御方 ( おんかた ) なれば、出来ぬ相談と申すもの、とても出来ない相談の出来よう 筈 ( はず ) のなきことゆえ、いかなる鼻もこれには弱りて、しまいに泣寝入となるは 必定 ( ひつじょう ) 、ナニ御心配なされまするな、」と説く処の 道理 ( もっとも ) なるに、お通もうかと 頷 ( うなず ) きぬ。かくて老媼がこのよしを蝦蟇法師に伝えて後、鼻は黒壁に見えずなれり。
さては 旨 ( うま ) いぞシテ 操 ( や ) ったり、とお通にはもとより 納涼台 ( すずみだい ) にも老媼は智慧を誇りけるが、 奚 ( いずく ) んぞ知らむ黒壁に消えし蝦蟇法師の、野田山の墓地に 顕 ( あらわ ) れて、お通が母の墳墓の前に 結跏趺坐 ( けっかふざ ) してあらむとは。
その 夕 ( ゆうべ ) もまたそこに 詣 ( もう ) でし、お通は一目見て 蒼 ( あお ) くなりぬ。
明治三十五(一九〇二)年一月
妖僧記
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