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 ここに醜怪なる 蝦蟇法師 がまほうし と正反対して、 玲瓏 れいろう 玉を欺く妙齢の美人ありて、黒壁に 住居 すまい せり。 かれ は清川お通とて、親も兄弟もあらぬ 独身 ひとりみ なるが、家を同じくする者とては、わずかに一 にん 老媼 おうな あるのみ、これその なり。

 お通は清川 何某 なにがし とて、五百石を領せし旧藩士の娘なるが、幼にして父を失い、 去々年 おととし また母を失い、全く孤独の身とはなり果てつ、知れる人の嫁入れ、婿 れと要らざる世話を 懊悩 うるさ く思いて、母の一周忌の終るとともに金沢の家を引払い、 去年 こぞ よりここに移りたるなり。もとより巨額の公債を有し、衣食に事欠かざれば、 花車 かしゃ 風流に日を送りて、何の不足もあらざる身なるに、月の如くその かんばせ は一片の雲に おお われて晴るることなし。これ母親の死を かなし 別離 わかれ に泣きし涙の今なお 双頬 そうきょう かか れるを光陰の手も ぬぐ い去るあたわざるなりけり。

 読書、弾琴、月雪花、それらのものは一つとして憂愁を いや すに足らず、 うた た懐旧の なかだち となりぬ。ただ野田山の墳墓を はら いて、母上と呼びながら土に すが りて泣き伏すをば、 此上無 こよな 娯楽 たのしみ として、お通は日課の如く 参詣 さんけい せり。

 七月の十五日は殊に 魂祭 たままつり の当日なれば、 夕涼 ゆうすずみ より家を出でて独り 彼処 かしこ に赴きけり。

 野田山に墓は多けれど 詣来 もうでく る者いと少なく墓 る法師もあらざれば、雑草 生茂 おいしげ りて 卒塔婆 そとば 倒れ

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断塚懐墳 だんちょうかいふん 算を乱して、満目 うた た荒涼たり。

 いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を そそ ぎ、花を手向けて香を くん じ、いますが如く 斉眉 かしず きて 一時余 いっときあまり も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。

  急足 いそぎあし に黒壁さして立戻る、十 けん ばかり あい を置きて、 背後 うしろ よりぬき足さし足、 ひそか に歩を運ぶはかの乞食僧なり。 かれ がお通のあとを追うは ほとん 旬日前 じゅんじつぜん よりにして、美人が外出をなすに うては、影の形に添う如く絶えずそこここ 附絡 つきまと うを、お通は知らねど見たる者あり。この ゆうべ もまた美人をその家まで送り届けし後、杉の根の おもて たたず みて、例の如く鼻に つえ をつきて休らいたり。

 時に 一縷 いちる 暗香 あんこう ありて、垣の内より れけるにぞ法師は鼻を うご めかして、密に うち 差覗 さしのぞ けば、美人は行水を使いしやらむ、浴衣涼しく 引絡 ひきまと い、人目のあらぬ処なれば、 巻帯姿 まきおびすがた 繕わで 端居 はしい したる、胸のあたりの真白きに腰の くれない 照添いて、 まばゆ きばかり うる わしきを、蝦蟇法師は 左瞻右視 とみこうみ あるい は手を り、足を 爪立 つまだ て、操人形が動くが如き奇異なる 身振 みぶり をしたりとせよ、何思いけむ くびす を返し、更に 迂回 うかい して 柴折戸 しおりど のある かた き、言葉より先に笑懸けて、「暖き飯一 ぜん 与えたまえ、」と おおい なる鼻を 庭前 にわさき へ差出しぬ。

  いま だ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに かれ を知れり。且つその狂か、 か、いずれ常識無き 阿房 あほう なるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に 乱鬢 みだれびん の毛を鏡に対して 撫附 なでつ けいたりけり。

 蝦蟇法師はためつすがめつ、さも いぶ かしげに鼻を傾けお通が せる わざ なが めたるが、おかしげなる声を発し、「それは」と美人の手にしたる鏡を指して尋ねたり。妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、「鏡」とばかり答えたり。阿房はなおも 推返 おしかえ して、「 なん の用にするぞ」と問いぬ。「姿を映して見るものなり、 御僧 おんそう も鼻を映して見たまえかし。」といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は 飛退 とびすさ りて、さも恐れたる風情にて鼻を飛ばして 遁去 にげさ りける。

 これを語り次ぎ伝え聞きて黒壁の人々は あきら かに蝦蟇法師の価値を解したり。なお且つ、 渠等 かれら は乞食僧のお通に対して馬鹿々々しき思いを運ぶを知りたれば、いよいよその阿房なることを確めぬ。

 さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を つぶや きたり。

「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、 しか り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今 思出 おもいいだ したる鏡という もの の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」