妖僧記
泉鏡花 (Yosoki) | ||
三
蝦蟇法師 ( がまほうし ) がお通に意あるが如き 素振 ( そぶり ) を認めたる連中は、これをお通が召使の 老媼 ( おうな ) に語りて、且つ 戯 ( たわぶ ) れ、且つ戒めぬ。
毎夕 納涼台 ( すずみだい ) に集る 輩 ( やから ) は、 喋々 ( ちょうちょう ) しく蝦蟇法師の 噂 ( うわさ ) をなして、何者にまれ乞食僧の昼間の住家を探り出だして、その来歴を 発出 ( みいだ ) さむ者には、 賭物 ( かけもの ) として 金 ( きん ) 一円を 抛 ( なげう ) たむと言いあえりき、 一夕 ( いっせき ) お通は例の如く野田山に墓参して、家に帰れば日は暮れつ。火を点じて後、窓を 展 ( ひら ) きて屋外の 蓮池 ( れんち ) を 背 ( せな ) にし、涼を取りつつ机に 向 ( むか ) いて、亡き母の供養のために 法華経 ( ほけきょう ) ぞ写したる。その 傍 ( かたわら ) に老媼ありて、 頻 ( しきり ) に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを 徘徊 ( はいかい ) したりけむ、ふと今ここに 来 ( きた ) れるが、早くもお通の姿を見て、 眼 ( まなこ ) を細め舌なめずりし、 恍惚 ( こうこつ ) たるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を 蠢 ( うごめ ) かし 漸次 ( しだい ) に顔を近附けたる、 面 ( つら ) が格子を 覗 ( のぞ ) くとともに、鼻は遠慮なく内へ 入 ( い ) りて、お通の 頬 ( ほお ) を 掠 ( かす ) めむとせり。
珍客 ( ちんかく ) に驚きて、お通はあれと身を 退 ( の ) きしが、事の余りに 滑稽 ( こっけい ) なるにぞ、老婆も 叱言 ( こごと ) いう 遑 ( いとま ) なく、同時に 吻々 ( ほほ ) と吹き出しける。
蝦蟇法師は
※ ( あやま ) りて、歓心を 購 ( あがな ) えりとや思いけむ、 悦気 ( えつき ) 満面に満ち 溢 ( あふ ) れて、うな、うな、と笑いつつ、 頻 ( しき ) りにものを言い懸けたり。お通はかねて 忌嫌 ( いみきら ) える鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく、役にも立たぬことばかり句切もなさで 饒舌 ( しゃべり ) 散 ( ち ) らす。その 懊悩 ( うるさ ) さに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は 引込 ( ひっこ ) まさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の 尖 ( さき ) を鼻の 天窓 ( あたま ) に突立てぬ。
あわれ乞食僧は 留 ( とどめ ) を刺されて、「痛し。」と 身体 ( からだ ) を 反返 ( そりかえ ) り、 涎 ( よだれ ) をなすりて 逸物 ( いちもつ ) を 撫廻 ( なでまわ ) し撫廻し、ほうほうの 体 ( てい ) にて 遁出 ( にげいだ ) しつ。走り去ること一町ばかり、 俄然 ( がぜん ) 留 ( とどま ) り振返り、蓮池を一つ隔てたる、 燈火 ( ともしび ) の影を 屹 ( きっ ) と見し、 眼 ( まなこ ) の色はただならで、 怨毒 ( えんどく ) を以て満たされたり。その時乞食僧は 杖 ( つえ ) を 掉上 ( ふりあ ) げ、「手段のいかんをさえ問わざれば何の 望 ( のぞみ ) か達せざらむ。」
かくは 断乎 ( だんこ ) として言放ち、大地をひしと 打敲 ( うちたた ) きつ、首を縮め、杖をつき、 徐 ( おもむ ) ろに歩を 回 ( めぐ ) らしける。
その 背後 ( うしろ ) より抜足差足、 密 ( ひそか ) に後をつけて 行 ( ゆ ) く 一人 ( いちにん ) の老媼あり。これかのお通の召使が、 未 ( いま ) だ 何人 ( なんぴと ) も知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、 納涼台 ( すずみだい ) が 賭物 ( かけもの ) したる、若干の 金子 ( きんす ) を得むと、お通の 制 ( とど ) むるをも 肯 ( き ) かずして、そこに追及したりしなり。 呼吸 ( いき ) を殺して従い 行 ( ゆ ) くに、 阿房 ( あほう ) はさりとも知らざる 状 ( さま ) にて、 殆 ( ほとん ) ど足を 曳摺 ( ひきず ) る如く杖に 縋 ( すが ) りて 歩行 ( あゆ ) み 行 ( ゆ ) けり。
人里を 出離 ( いではな ) れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ 嶮峻 ( けんしゅん ) なる絶壁にて、 勾配 ( こうばい ) の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て 点綴 ( てんてつ ) せる山間の谷なれば、緑樹 長 ( とこしえ ) に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の 洞穴 ( どうけつ ) にこそかの摩利支天は 祀 ( まつ ) られたれ。
遥 ( はる ) かに 瞰下 ( みおろ ) す幽谷は、 白日闇 ( はくじつあん ) の別境にて、夜昼なしに 靄 ( もや ) を 籠 ( こ ) め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、 啾々 ( しゅうしゅう ) たる鬼気人を襲う、その 物凄 ( ものすご ) さ 謂 ( い ) わむ方なし。
まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、 魑魅魍魎 ( ちみもうりょう ) 隊をなして、前途に 塞 ( ふさが ) るとも覚しきに、 慾 ( よく ) にも一歩を移し得で、あわれ 立竦 ( たちすくみ ) になりける時、二点の蛍光 此方 ( こなた ) を見向き、一喝して、「何者ぞ。」 掉冠 ( ふりかむ ) れる蝦蟇法師の杖の 下 ( もと ) に老媼は 阿呀 ( あわや ) と 蹲踞 ( うずくま ) りぬ。
蝦蟇法師は 流眄 ( しりめ ) に懸け、「へ、へ、へ、うむ正に 此奴 ( こやつ ) なり、予が顔を傷附けたる、大胆者、 讐返 ( しかえし ) ということのあるを知らずして」 傲然 ( ごうぜん ) としてせせら笑う。
これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体 氷柱 ( つらら ) に化したる如く、いと哀れなる声を発して、「命ばかりはお助けあれ。」とがたがた震えていたりける。
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