University of Virginia Library

「いまの、あの 婦人 ( ふじん ) ( ) いて ( ) 嬰兒 ( あかんぼ ) ですが、 ( こひ ) か、 ( すつぽん ) ででも ( ) りさうでならないんですがね。」

「…………」

  ( わたし ) は、 ( だま ) つて 工學士 ( こうがくし ) ( ) ( かほ ) ( ) た。

「まさかとは ( おも ) ひますが。」

  赤坂 ( あかさか ) 見附 ( みつけ ) ( ちか ) い、 ( ) ある 珈琲店 ( コオヒイてん ) 端近 ( はしぢか ) 卓子 ( テエブル ) で、 工學士 ( こうがくし ) 麥酒 ( ビイル ) 硝子杯 ( コツプ ) ( ひか ) へて ( ) つた。

  ( わたし ) 卷莨 ( まきたばこ ) ( ) けながら、

「あゝ、 結構 ( けつこう ) ( わたし ) は、それが 石地藏 ( いしぢざう ) で、 ( いま ) のが 姑護鳥 ( うぶめ ) でも ( かま ) ひません。けれども、それぢや、 貴方 ( あなた ) 世間 ( せけん ) ( ) まないでせう。」

 六 ( ぐわつ ) ( すゑ ) であつた。 府下 ( ふか ) 澁谷 ( しぶや ) ( へん ) ( ある ) 茶話會 ( さわくわい ) があつて、 ( ) 工學士 ( こうがくし ) ( ) ( せき ) ( のぞ ) むのに、 ( わたし ) ( さそ ) はれて 一日 ( あるひ ) 出向 ( でむ ) いた。

  談話 ( はなし ) 聽人 ( きゝて ) ( みな ) 婦人 ( ふじん ) で、 綺麗 ( きれい ) ( ひと ) 大分 ( だいぶ ) ( ) えた、と ( ) ( たち ) のであるから、 羊羹 ( やうかん ) ( いちご ) 念入 ( ねんいり ) ( むらさき ) 袱紗 ( ふくさ ) 薄茶 ( うすちや ) 饗應 ( もてなし ) まであつたが―― 辛抱 ( しんばう ) をなさい―― ( さけ ) ( ) ふものは 全然 ( まるで ) ない。が、 ( かね ) ての 覺悟 ( かくご ) である。それがために 意地汚 ( いぢきたな ) く、 歸途 ( かへり ) ( ) うした 場所 ( ばしよ ) 立寄 ( たちよ ) つた 次第 ( しだい ) ではない。

  本來 ( ほんらい ) なら ( ) ( せき ) で、 工學士 ( こうがくし ) ( はな ) した 或種 ( あるしゆ ) 講述 ( かうじゆつ ) を、こゝに 筆記 ( ひつき ) でもした ( はう ) が、 ( ) まるゝ 方々 ( かた/″\ ) 利益 ( りえき ) なのであらうけれども、それは 殊更 ( ことさら ) 御海容 ( ごかいよう ) ( ねが ) ふとして ( ) く。

  ( じつ ) 往路 ( いき ) にも 同伴立 ( つれだ ) つた。

  ( ) ( かた ) へ、 煉瓦塀 ( れんぐわべい ) 板塀 ( いたべい ) ( つゞ ) きの ( ほそ ) ( みち ) ( とほ ) る、とやがて ( ) 會場 ( くわいぢやう ) ( あた ) ( いへ ) 生垣 ( いけがき ) で、 其處 ( そこ ) ( ) つの 外圍 ( そとがこひ ) 三方 ( さんぱう ) ( わか ) れて 三辻 ( みつつじ ) ( ) る…… 曲角 ( まがりかど ) 窪地 ( くぼち ) で、 日蔭 ( ひかげ ) 泥濘 ( ぬかるみ ) ( ところ ) が―― ( そら ) ( くも ) つて ( ) た―― ( のこ ) ンの ( ゆき ) かと ( おも ) ふ、 散敷 ( ちりし ) いた ( はな ) 眞白 ( まつしろ ) であつた。

  ( した ) ( ) くと 學士 ( がくし ) 背廣 ( せびろ ) ( あかる ) いくらゐ、 ( いま ) ( さかり ) ( そら ) ( ) く。 ( えだ ) ( こずゑ ) ( たわゝ ) 滿 ( ) ちて、 仰向 ( あをむ ) いて 見上 ( みあ ) げると 屋根 ( やね ) よりは ( たけ ) ( ) びた ( ) が、 ( つゐ ) ( なら ) んで 二株 ( ふたかぶ ) あつた。 ( すもゝ ) 時節 ( じせつ ) でなし、 卯木 ( うつぎ ) ( あら ) ず。そして、 木犀 ( もくせい ) のやうな ( あま ) ( にほひ ) が、 ( いぶ ) したやうに ( かを ) る。 楕圓形 ( だゑんけい ) ( ) は、 羽状複葉 ( うじやうふくえふ ) ( ) ふのが 眞蒼 ( まつさを ) ( うへ ) から 可愛 ( かはい ) ( はな ) をはら/\と ( つゝ ) んで、 ( さぎ ) ( みどり ) なす ( みの ) ( かつ ) いで、 ( たゝず ) みつゝ、 ( さつ ) ( ひら ) いて、 雙方 ( さうはう ) から ( つばさ ) ( かは ) した、 比翼連理 ( ひよくれんり ) 風情 ( ふぜい ) がある。

  ( わたし ) ( もと ) よりである。…… 學士 ( がくし ) にも、 ( ) 香木 ( かうぼく ) ( ) ( わか ) らなかつた。

  當日 ( たうじつ ) ( せき ) でも 聞合 ( きゝあは ) せたが、 居合 ( ゐあ ) はせた 婦人連 ( ふじんれん ) ( また ) ( たれ ) ( ) らぬ。 ( ) ( くせ ) 佳薫 ( いゝかをり ) のする ( はな ) だと ( ) つて、 ( ちひ ) さな ( えだ ) ながら 硝子杯 ( コツプ ) ( ) して ( ) たのがあつた。 九州 ( きうしう ) ( さる ) ( ねら ) ふやうな ( つま ) ( なまめ ) かしい 姿 ( すがた ) をしても、 下枝 ( したえだ ) までも ( とゞ ) くまい。 小鳥 ( ことり ) ( ついば ) んで ( おと ) したのを ( とほ ) りがかりに ( ひろ ) つて ( ) たものであらう。

「お ( ちゝ ) のやうですわ。」

  一人 ( ひとり ) 處女 ( しよぢよ ) ( ) ( ) つた。

  成程 ( なるほど ) 近々 ( ちか/″\ ) ( ) ると、 ( しろ ) ( ちひ ) さな ( はな ) の、 ( うつす ) りと 色着 ( いろづ ) いたのが ( ひと ) ( ひと ) ツ、 ( うつくし ) 乳首 ( ちゝくび ) のやうな ( かたち ) ( ) えた。

  却説 ( さて ) ( ) ( ) れて、 ( ) 歸途 ( かへり ) である。

  ( わたし ) たちは 七丁目 ( なゝちやうめ ) 終點 ( しうてん ) から ( ) つて 赤坂 ( あかさか ) ( はう ) ( かへ ) つて ( ) た……あの ( あひだ ) 電車 ( でんしや ) ( ) して 込合 ( こみあ ) ( ほど ) では ( ) いのに、 ( そら ) ( あや ) しく 雲脚 ( くもあし ) ( ひく ) ( さが ) つて、 ( いま ) にも 一降 ( ひとふり ) ( ) さうだつたので、 人通 ( ひとどほ ) りが ( あわたゞ ) しく、 一町場 ( ひとちやうば ) 二町場 ( ふたちやうば ) 近處 ( きんじよ ) ( よう ) たしの ( ぶん ) 便 ( たよ ) つたらしい、 停留場 ( ていりうぢやう ) ( ごと ) 乘人 ( のりて ) ( かず ) ( おほ ) かつた。

 で、 何時 ( いつ ) 何處 ( どこ ) から 乘組 ( のりく ) んだか、つい、それは ( ) らなかつたが、 ( ちやう ) ( わたし ) たちの ( なら ) んで ( ) けた ( むか ) ( がは ) ―― 墓地 ( ぼち ) とは 反對 ( はんたい ) ――の ( ところ ) に、二十三四の ( いろ ) ( しろ ) 婦人 ( ふじん ) ( ) る……

  ( ) づ、 ( いろ ) ( しろ ) ( をんな ) ( ) はう、が、 ( ゆき ) なす ( しろ ) さ、 ( つめた ) さではない。 薄櫻 ( うすざくら ) ( かげ ) がさす、 ( おぼろ ) ( にほ ) ( よそほひ ) である。……こんなのこそ、 ( はだへ ) ( ) ふより、 不躾 ( ぶしつけ ) ながら ( にく ) ( ) はう。 ( その ) ( むね ) は、 合歡 ( ねむ ) ( はな ) ( しづく ) しさうにほんのりと ( あらは ) である。

  藍地 ( あゐぢ ) ( こん ) 立絞 ( たてしぼり ) 浴衣 ( ゆかた ) ( たゞ ) 一重 ( ひとへ ) ( いと ) ばかりの ( くれなゐ ) ( ) せず 素膚 ( すはだ ) ( ) た。 ( えり ) をなぞへに ( ふつく ) りと ( ちゝ ) ( くぎ ) つて、 ( きぬ ) ( あを ) い。 ( あを ) いのが ( ) ( ) えて、 先刻 ( さつき ) ( しろ ) ( はな ) 俤立 ( おもかげだ ) つ…… 撫肩 ( なでがた ) をたゆげに ( おと ) して、すらりと ( なが ) ( ひざ ) ( うへ ) へ、 和々 ( やは/\ ) 重量 ( おもみ ) ( ) たして、 ( ) ( うで ) ( しな ) やかに ( ) いたのが、 ( それ ) 嬰兒 ( あかんぼ ) で、 仰向 ( あをむ ) けに ( ) ( かほ ) へ、 ( しろ ) 帽子 ( ばうし ) ( ) けてある。 寢顏 ( ねがほ ) 電燈 ( でんとう ) ( いと ) つたものであらう。 嬰兒 ( あかんぼ ) ( かほ ) ( ) えなかつた、だけ ( それ ) だけ、 懸念 ( けねん ) ( ) へば 懸念 ( けねん ) なので、 工學士 ( こうがくし ) が―― ( こひ ) ( すつぽん ) か、と ( ) つたのは ( これ ) であるが……

  ( ) ( なま ) めいた ( むね ) のぬしは、 顏立 ( かほだ ) ちも 際立 ( きはだ ) つて ( うつく ) しかつた。 鼻筋 ( はなすぢ ) 象牙彫 ( ざうげぼり ) のやうにつんとしたのが ( なん ) ( ) へば 強過 ( つよす ) ぎる……かはりには ( ) 恍惚 ( うつとり ) と、 ( なに ) 物思 ( ものおも ) ( てい ) 仰向 ( あをむ ) いた、 細面 ( ほそおも ) 引緊 ( ひきしま ) つて、 口許 ( くちもと ) とともに 人品 ( じんぴん ) ( くづ ) さないで ( ) ( ) がある…… ( ) ( かほ ) だちが ( おび ) よりも、きりゝと 細腰 ( ほそごし ) ( ) めて ( ) た。 ( おもて ) ( ) めた 姿 ( すがた ) である。 皓齒 ( しらは ) ( ひと ) つも 莞爾 ( につこり ) ( ほころ ) びたら、はらりと ( ) けて、 ( おび ) 浴衣 ( ゆかた ) ( ) のまゝ ( ) えて、 ( はだ ) ( しろ ) ( いろ ) ( さつ ) ( むらが ) つて ( ) かう。 ( かすみ ) ( はな ) ( つゝ ) むと ( ) ふが、 ( ) ( をんな ) ( はな ) ( かすみ ) ( つゝ ) むのである。 ( はだへ ) ( きぬ ) ( ) すばかり、 ( ) 浴衣 ( ゆかた ) ( あを ) いのにも、 胸襟 ( むねえり ) のほのめく ( いろ ) はうつろはぬ、 ( しか ) 湯上 ( ゆあが ) りかと ( おも ) ( あたゝか ) さを 全身 ( ぜんしん ) ( みなぎ ) らして、 ( かみ ) ( つや ) さへ ( したゝ ) るばかり 濡々 ( ぬれ/\ ) として、 ( それ ) がそよいで、 硝子窓 ( がらすまど ) ( かぜ ) ( ひたひ ) ( まつ ) はる、 ( あせ ) ばんでさへ ( ) たらしい。

 ふと ( ) いた ( まど ) 横向 ( よこむ ) きに ( ) つて、ほつれ ( ) 白々 ( しろ/″\ ) とした ( ゆび ) ( ) くと、あの ( はな ) ( ) ( つよ ) ( かを ) つた、と ( おも ) ふと ( みどり ) 黒髮 ( くろかみ ) に、 ( おな ) ( しろ ) ( はな ) 小枝 ( こえだ ) ( ) きたる ( うてな ) 湧立 ( わきた ) ( しべ ) ( ゆる ) がして、 ( びんづら ) ( ) して ( ) たのである。

  ( ) ( ) ( とき ) 工學士 ( こうがくし ) ( ) が、 ( しか ) ( わたし ) ( ) ( にぎ ) つた。

( ) りませう。 是非 ( ぜひ ) 談話 ( はなし ) があります。」

  ( ) つて 見送 ( みおく ) れば、 ( ) ( をんな ) ( ) せた 電車 ( でんしや ) は、 見附 ( みつけ ) ( たに ) ( くぼ ) んだ 廣場 ( ひろば ) へ、すら/\と ( ) りて、 一度 ( いちど ) ( くら ) ( ) つて ( ) まつたが、 ( たちま ) ( かぜ ) ( ) つたやうに 地盤 ( ぢばん ) ( そら ) ざまに ( さつ ) ( さか ) ( すべ ) つて、 ( あを ) 火花 ( ひばな ) がちらちらと、 ( さくら ) 街樹 ( なみき ) ( から ) んだなり、 暗夜 ( くらがり ) ( こずゑ ) ( ) えた。

  小雨 ( こさめ ) がしと/\と ( まち ) へかゝつた。

  其處 ( そこ ) 珈琲店 ( コオヒイてん ) 連立 ( つれだ ) つて ( はひ ) つたのである。

 こゝに、 一寸 ( ちよつと ) ( ことわ ) つておくのは、 工學士 ( こうがくし ) ( かつ ) 苦學生 ( くがくせい ) で、 ( その ) 當時 ( たうじ ) は、 近縣 ( きんけん ) 賣藥 ( ばいやく ) 行商 ( ぎやうしやう ) をした ( こと ) である。