人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||
一
「いまの、あの 婦人 ( ふじん ) が 抱 ( だ ) いて 居 ( ゐ ) た 嬰兒 ( あかんぼ ) ですが、 鯉 ( こひ ) か、 鼈 ( すつぽん ) ででも 有 ( あ ) りさうでならないんですがね。」
「…………」
私 ( わたし ) は、 默 ( だま ) つて 工學士 ( こうがくし ) の 其 ( そ ) の 顏 ( かほ ) を 視 ( み ) た。
「まさかとは 思 ( おも ) ひますが。」
赤坂 ( あかさか ) の 見附 ( みつけ ) に 近 ( ちか ) い、 唯 ( と ) ある 珈琲店 ( コオヒイてん ) の 端近 ( はしぢか ) な 卓子 ( テエブル ) で、 工學士 ( こうがくし ) は 麥酒 ( ビイル ) の 硝子杯 ( コツプ ) を 控 ( ひか ) へて 云 ( い ) つた。
私 ( わたし ) は 卷莨 ( まきたばこ ) を 點 ( つ ) けながら、
「あゝ、 結構 ( けつこう ) 。 私 ( わたし ) は、それが 石地藏 ( いしぢざう ) で、 今 ( いま ) のが 姑護鳥 ( うぶめ ) でも 構 ( かま ) ひません。けれども、それぢや、 貴方 ( あなた ) が 世間 ( せけん ) へ 濟 ( す ) まないでせう。」
六 月 ( ぐわつ ) の 末 ( すゑ ) であつた。 府下 ( ふか ) 澁谷 ( しぶや ) 邊 ( へん ) に 或 ( ある ) 茶話會 ( さわくわい ) があつて、 斯 ( こ ) の 工學士 ( こうがくし ) が 其 ( そ ) の 席 ( せき ) に 臨 ( のぞ ) むのに、 私 ( わたし ) は 誘 ( さそ ) はれて 一日 ( あるひ ) 出向 ( でむ ) いた。
談話 ( はなし ) の 聽人 ( きゝて ) は 皆 ( みな ) 婦人 ( ふじん ) で、 綺麗 ( きれい ) な 人 ( ひと ) が 大分 ( だいぶ ) 見 ( み ) えた、と 云 ( い ) ふ 質 ( たち ) のであるから、 羊羹 ( やうかん ) 、 苺 ( いちご ) 、 念入 ( ねんいり ) に 紫 ( むらさき ) 袱紗 ( ふくさ ) で 薄茶 ( うすちや ) の 饗應 ( もてなし ) まであつたが―― 辛抱 ( しんばう ) をなさい―― 酒 ( さけ ) と 云 ( い ) ふものは 全然 ( まるで ) ない。が、 豫 ( かね ) ての 覺悟 ( かくご ) である。それがために 意地汚 ( いぢきたな ) く、 歸途 ( かへり ) に 恁 ( か ) うした 場所 ( ばしよ ) へ 立寄 ( たちよ ) つた 次第 ( しだい ) ではない。
本來 ( ほんらい ) なら 其 ( そ ) の 席 ( せき ) で、 工學士 ( こうがくし ) が 話 ( はな ) した 或種 ( あるしゆ ) の 講述 ( かうじゆつ ) を、こゝに 筆記 ( ひつき ) でもした 方 ( はう ) が、 讀 ( よ ) まるゝ 方々 ( かた/″\ ) の 利益 ( りえき ) なのであらうけれども、それは 殊更 ( ことさら ) に 御海容 ( ごかいよう ) を 願 ( ねが ) ふとして 置 ( お ) く。
實 ( じつ ) は 往路 ( いき ) にも 同伴立 ( つれだ ) つた。
指 ( さ ) す 方 ( かた ) へ、 煉瓦塀 ( れんぐわべい ) 板塀 ( いたべい ) 續 ( つゞ ) きの 細 ( ほそ ) い 路 ( みち ) を 通 ( とほ ) る、とやがて 其 ( そ ) の 會場 ( くわいぢやう ) に 當 ( あた ) る 家 ( いへ ) の 生垣 ( いけがき ) で、 其處 ( そこ ) で 三 ( み ) つの 外圍 ( そとがこひ ) が 三方 ( さんぱう ) へ 岐 ( わか ) れて 三辻 ( みつつじ ) に 成 ( な ) る…… 曲角 ( まがりかど ) の 窪地 ( くぼち ) で、 日蔭 ( ひかげ ) の 泥濘 ( ぬかるみ ) の 處 ( ところ ) が―― 空 ( そら ) は 曇 ( くも ) つて 居 ( ゐ ) た―― 殘 ( のこ ) ンの 雪 ( ゆき ) かと 思 ( おも ) ふ、 散敷 ( ちりし ) いた 花 ( はな ) で 眞白 ( まつしろ ) であつた。
下 ( した ) へ 行 ( ゆ ) くと 學士 ( がくし ) の 背廣 ( せびろ ) が 明 ( あかる ) いくらゐ、 今 ( いま ) を 盛 ( さかり ) と 空 ( そら ) に 咲 ( さ ) く。 枝 ( えだ ) も 梢 ( こずゑ ) も 撓 ( たわゝ ) に 滿 ( み ) ちて、 仰向 ( あをむ ) いて 見上 ( みあ ) げると 屋根 ( やね ) よりは 丈 ( たけ ) 伸 ( の ) びた 樹 ( き ) が、 對 ( つゐ ) に 並 ( なら ) んで 二株 ( ふたかぶ ) あつた。 李 ( すもゝ ) の 時節 ( じせつ ) でなし、 卯木 ( うつぎ ) に 非 ( あら ) ず。そして、 木犀 ( もくせい ) のやうな 甘 ( あま ) い 匂 ( にほひ ) が、 燻 ( いぶ ) したやうに 薫 ( かを ) る。 楕圓形 ( だゑんけい ) の 葉 ( は ) は、 羽状複葉 ( うじやうふくえふ ) と 云 ( い ) ふのが 眞蒼 ( まつさを ) に 上 ( うへ ) から 可愛 ( かはい ) い 花 ( はな ) をはら/\と 包 ( つゝ ) んで、 鷺 ( さぎ ) が 緑 ( みどり ) なす 蓑 ( みの ) を 被 ( かつ ) いで、 彳 ( たゝず ) みつゝ、 颯 ( さつ ) と 開 ( ひら ) いて、 雙方 ( さうはう ) から 翼 ( つばさ ) を 交 ( かは ) した、 比翼連理 ( ひよくれんり ) の 風情 ( ふぜい ) がある。
私 ( わたし ) は 固 ( もと ) よりである。…… 學士 ( がくし ) にも、 此 ( こ ) の 香木 ( かうぼく ) の 名 ( な ) が 分 ( わか ) らなかつた。
當日 ( たうじつ ) 、 席 ( せき ) でも 聞合 ( きゝあは ) せたが、 居合 ( ゐあ ) はせた 婦人連 ( ふじんれん ) が 亦 ( また ) 誰 ( たれ ) も 知 ( し ) らぬ。 其 ( そ ) の 癖 ( くせ ) 、 佳薫 ( いゝかをり ) のする 花 ( はな ) だと 云 ( い ) つて、 小 ( ちひ ) さな 枝 ( えだ ) ながら 硝子杯 ( コツプ ) に 插 ( さ ) して 居 ( ゐ ) たのがあつた。 九州 ( きうしう ) の 猿 ( さる ) が 狙 ( ねら ) ふやうな 褄 ( つま ) の 媚 ( なまめ ) かしい 姿 ( すがた ) をしても、 下枝 ( したえだ ) までも 屆 ( とゞ ) くまい。 小鳥 ( ことり ) の 啄 ( ついば ) んで 落 ( おと ) したのを 通 ( とほ ) りがかりに 拾 ( ひろ ) つて 來 ( き ) たものであらう。
「お 乳 ( ちゝ ) のやうですわ。」
一人 ( ひとり ) の 處女 ( しよぢよ ) が 然 ( さ ) う 云 ( い ) つた。
成程 ( なるほど ) 、 近々 ( ちか/″\ ) と 見 ( み ) ると、 白 ( しろ ) い 小 ( ちひ ) さな 花 ( はな ) の、 薄 ( うつす ) りと 色着 ( いろづ ) いたのが 一 ( ひと ) ツ 一 ( ひと ) ツ、 美 ( うつくし ) い 乳首 ( ちゝくび ) のやうな 形 ( かたち ) に 見 ( み ) えた。
却説 ( さて ) 、 日 ( ひ ) が 暮 ( く ) れて、 其 ( そ ) の 歸途 ( かへり ) である。
私 ( わたし ) たちは 七丁目 ( なゝちやうめ ) の 終點 ( しうてん ) から 乘 ( の ) つて 赤坂 ( あかさか ) の 方 ( はう ) へ 歸 ( かへ ) つて 來 ( き ) た……あの 間 ( あひだ ) の 電車 ( でんしや ) は 然 ( さ ) して 込合 ( こみあ ) ふ 程 ( ほど ) では 無 ( な ) いのに、 空 ( そら ) 怪 ( あや ) しく 雲脚 ( くもあし ) が 低 ( ひく ) く 下 ( さが ) つて、 今 ( いま ) にも 一降 ( ひとふり ) 來 ( き ) さうだつたので、 人通 ( ひとどほ ) りが 慌 ( あわたゞ ) しく、 一町場 ( ひとちやうば ) 二町場 ( ふたちやうば ) 、 近處 ( きんじよ ) へ 用 ( よう ) たしの 分 ( ぶん ) も 便 ( たよ ) つたらしい、 停留場 ( ていりうぢやう ) 毎 ( ごと ) に 乘人 ( のりて ) の 數 ( かず ) が 多 ( おほ ) かつた。
で、 何時 ( いつ ) 何處 ( どこ ) から 乘組 ( のりく ) んだか、つい、それは 知 ( し ) らなかつたが、 丁 ( ちやう ) ど 私 ( わたし ) たちの 並 ( なら ) んで 掛 ( か ) けた 向 ( むか ) う 側 ( がは ) ―― 墓地 ( ぼち ) とは 反對 ( はんたい ) ――の 處 ( ところ ) に、二十三四の 色 ( いろ ) の 白 ( しろ ) い 婦人 ( ふじん ) が 居 ( ゐ ) る……
先 ( ま ) づ、 色 ( いろ ) の 白 ( しろ ) い 婦 ( をんな ) と 云 ( い ) はう、が、 雪 ( ゆき ) なす 白 ( しろ ) さ、 冷 ( つめた ) さではない。 薄櫻 ( うすざくら ) の 影 ( かげ ) がさす、 朧 ( おぼろ ) に 香 ( にほ ) ふ 裝 ( よそほひ ) である。……こんなのこそ、 膚 ( はだへ ) と 云 ( い ) ふより、 不躾 ( ぶしつけ ) ながら 肉 ( にく ) と 言 ( い ) はう。 其 ( その ) 胸 ( むね ) は、 合歡 ( ねむ ) の 花 ( はな ) が 雫 ( しづく ) しさうにほんのりと 露 ( あらは ) である。
藍地 ( あゐぢ ) に 紺 ( こん ) の 立絞 ( たてしぼり ) の 浴衣 ( ゆかた ) を 唯 ( たゞ ) 一重 ( ひとへ ) 、 絲 ( いと ) ばかりの 紅 ( くれなゐ ) も 見 ( み ) せず 素膚 ( すはだ ) に 着 ( き ) た。 襟 ( えり ) をなぞへに 膨 ( ふつく ) りと 乳 ( ちゝ ) を 劃 ( くぎ ) つて、 衣 ( きぬ ) が 青 ( あを ) い。 青 ( あを ) いのが 葉 ( は ) に 見 ( み ) えて、 先刻 ( さつき ) の 白 ( しろ ) い 花 ( はな ) が 俤立 ( おもかげだ ) つ…… 撫肩 ( なでがた ) をたゆげに 落 ( おと ) して、すらりと 長 ( なが ) く 膝 ( ひざ ) の 上 ( うへ ) へ、 和々 ( やは/\ ) と 重量 ( おもみ ) を 持 ( も ) たして、 二 ( に ) の 腕 ( うで ) を 撓 ( しな ) やかに 抱 ( だ ) いたのが、 其 ( それ ) が 嬰兒 ( あかんぼ ) で、 仰向 ( あをむ ) けに 寢 ( ね ) た 顏 ( かほ ) へ、 白 ( しろ ) い 帽子 ( ばうし ) を 掛 ( か ) けてある。 寢顏 ( ねがほ ) に 電燈 ( でんとう ) を 厭 ( いと ) つたものであらう。 嬰兒 ( あかんぼ ) の 顏 ( かほ ) は 見 ( み ) えなかつた、だけ 其 ( それ ) だけ、 懸念 ( けねん ) と 云 ( い ) へば 懸念 ( けねん ) なので、 工學士 ( こうがくし ) が―― 鯉 ( こひ ) か 鼈 ( すつぽん ) か、と 云 ( い ) つたのは 此 ( これ ) であるが……
此 ( こ ) の 媚 ( なま ) めいた 胸 ( むね ) のぬしは、 顏立 ( かほだ ) ちも 際立 ( きはだ ) つて 美 ( うつく ) しかつた。 鼻筋 ( はなすぢ ) の 象牙彫 ( ざうげぼり ) のやうにつんとしたのが 難 ( なん ) を 言 ( い ) へば 強過 ( つよす ) ぎる……かはりには 目 ( め ) を 恍惚 ( うつとり ) と、 何 ( なに ) か 物思 ( ものおも ) ふ 體 ( てい ) に 仰向 ( あをむ ) いた、 細面 ( ほそおも ) が 引緊 ( ひきしま ) つて、 口許 ( くちもと ) とともに 人品 ( じんぴん ) を 崩 ( くづ ) さないで 且 ( か ) つ 威 ( ゐ ) がある…… 其 ( そ ) の 顏 ( かほ ) だちが 帶 ( おび ) よりも、きりゝと 細腰 ( ほそごし ) を 緊 ( し ) めて 居 ( ゐ ) た。 面 ( おもて ) で 緊 ( し ) めた 姿 ( すがた ) である。 皓齒 ( しらは ) の 一 ( ひと ) つも 莞爾 ( につこり ) と 綻 ( ほころ ) びたら、はらりと 解 ( と ) けて、 帶 ( おび ) も 浴衣 ( ゆかた ) も 其 ( そ ) のまゝ 消 ( き ) えて、 膚 ( はだ ) の 白 ( しろ ) い 色 ( いろ ) が 颯 ( さつ ) と 簇 ( むらが ) つて 咲 ( さ ) かう。 霞 ( かすみ ) は 花 ( はな ) を 包 ( つゝ ) むと 云 ( い ) ふが、 此 ( こ ) の 婦 ( をんな ) は 花 ( はな ) が 霞 ( かすみ ) を 包 ( つゝ ) むのである。 膚 ( はだへ ) が 衣 ( きぬ ) を 消 ( け ) すばかり、 其 ( そ ) の 浴衣 ( ゆかた ) の 青 ( あを ) いのにも、 胸襟 ( むねえり ) のほのめく 色 ( いろ ) はうつろはぬ、 然 ( しか ) も 湯上 ( ゆあが ) りかと 思 ( おも ) ふ 温 ( あたゝか ) さを 全身 ( ぜんしん ) に 漲 ( みなぎ ) らして、 髮 ( かみ ) の 艶 ( つや ) さへ 滴 ( したゝ ) るばかり 濡々 ( ぬれ/\ ) として、 其 ( それ ) がそよいで、 硝子窓 ( がらすまど ) の 風 ( かぜ ) に 額 ( ひたひ ) に 絡 ( まつ ) はる、 汗 ( あせ ) ばんでさへ 居 ( ゐ ) たらしい。
ふと 明 ( あ ) いた 窓 ( まど ) へ 横向 ( よこむ ) きに 成 ( な ) つて、ほつれ 毛 ( げ ) を 白々 ( しろ/″\ ) とした 指 ( ゆび ) で 掻 ( か ) くと、あの 花 ( はな ) の 香 ( か ) が 強 ( つよ ) く 薫 ( かを ) つた、と 思 ( おも ) ふと 緑 ( みどり ) の 黒髮 ( くろかみ ) に、 同 ( おな ) じ 白 ( しろ ) い 花 ( はな ) の 小枝 ( こえだ ) を 活 ( い ) きたる 蕚 ( うてな ) 、 湧立 ( わきた ) つ 蕊 ( しべ ) を 搖 ( ゆる ) がして、 鬢 ( びんづら ) に 插 ( さ ) して 居 ( ゐ ) たのである。
唯 ( と ) 、 見 ( み ) た 時 ( とき ) 、 工學士 ( こうがくし ) の 手 ( て ) が、 確 ( しか ) と 私 ( わたし ) の 手 ( て ) を 握 ( にぎ ) つた。
「 下 ( お ) りませう。 是非 ( ぜひ ) 、 談話 ( はなし ) があります。」
立 ( た ) つて 見送 ( みおく ) れば、 其 ( そ ) の 婦 ( をんな ) を 乘 ( の ) せた 電車 ( でんしや ) は、 見附 ( みつけ ) の 谷 ( たに ) の 窪 ( くぼ ) んだ 廣場 ( ひろば ) へ、すら/\と 降 ( お ) りて、 一度 ( いちど ) 暗 ( くら ) く 成 ( な ) つて 停 ( と ) まつたが、 忽 ( たちま ) ち 風 ( かぜ ) に 乘 ( の ) つたやうに 地盤 ( ぢばん ) を 空 ( そら ) ざまに 颯 ( さつ ) と 坂 ( さか ) へ 辷 ( すべ ) つて、 青 ( あを ) い 火花 ( ひばな ) がちらちらと、 櫻 ( さくら ) の 街樹 ( なみき ) に 搦 ( から ) んだなり、 暗夜 ( くらがり ) の 梢 ( こずゑ ) に 消 ( き ) えた。
小雨 ( こさめ ) がしと/\と 町 ( まち ) へかゝつた。
其處 ( そこ ) で 珈琲店 ( コオヒイてん ) へ 連立 ( つれだ ) つて 入 ( はひ ) つたのである。
こゝに、 一寸 ( ちよつと ) 斷 ( ことわ ) つておくのは、 工學士 ( こうがくし ) は 嘗 ( かつ ) て 苦學生 ( くがくせい ) で、 其 ( その ) 當時 ( たうじ ) は、 近縣 ( きんけん ) に 賣藥 ( ばいやく ) の 行商 ( ぎやうしやう ) をした 事 ( こと ) である。
人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||