人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||
二
「 利根川 ( とねがは ) の 流 ( ながれ ) が 汎濫 ( はんらん ) して、 田 ( た ) に、 畠 ( はたけ ) に、 村里 ( むらざと ) に、 其 ( そ ) の 水 ( みづ ) が 引殘 ( ひきのこ ) つて、 月 ( つき ) を 經 ( へ ) 、 年 ( とし ) を 過 ( す ) ぎても 涸 ( か ) れないで、 其 ( そ ) のまゝ 溜水 ( たまりみづ ) に 成 ( な ) つたのがあります。……
小 ( ちひ ) さなのは、 河骨 ( かうほね ) の 點々 ( ぽつ/\ ) 黄色 ( きいろ ) に 咲 ( さ ) いた 花 ( はな ) の 中 ( なか ) を、 小兒 ( こども ) が 徒 ( いたづら ) に 猫 ( ねこ ) を 乘 ( の ) せて 盥 ( たらひ ) を 漕 ( こ ) いで 居 ( ゐ ) る。 大 ( おほ ) きなのは 汀 ( みぎは ) の 蘆 ( あし ) を 積 ( つ ) んだ 船 ( ふね ) が、 棹 ( さを ) さして 波 ( なみ ) を 分 ( わ ) けるのがある。 千葉 ( ちば ) 、 埼玉 ( さいたま ) 、あの 大河 ( たいが ) の 流域 ( りうゐき ) を 辿 ( たど ) る 旅人 ( たびびと ) は、 時々 ( とき/″\ ) 、 否 ( いや ) 、 毎日 ( まいにち ) 一 ( ひと ) ツ 二 ( ふた ) ツは 度々 ( たび/″\ ) 此 ( こ ) の 水 ( みづ ) に 出會 ( でつくは ) します。 此 ( これ ) を 利根 ( とね ) の 忘 ( わす ) れ 沼 ( ぬま ) 、 忘 ( わす ) れ 水 ( みづ ) と 呼 ( よ ) んで 居 ( ゐ ) る。
中 ( なか ) には 又 ( また ) 、あの 流 ( ながれ ) を 邸内 ( ていない ) へ 引 ( ひ ) いて、 用水 ( ようすゐ ) ぐるみ 庭 ( には ) の 池 ( いけ ) にして、 筑波 ( つくば ) の 影 ( かげ ) を 矜 ( ほこ ) りとする、 豪農 ( がうのう ) 、 大百姓 ( おほびやくしやう ) などがあるのです。
唯今 ( たゞいま ) お 話 ( はなし ) をする、…… 私 ( わたし ) が 出會 ( であ ) ひましたのは、 何 ( ど ) うも 庭 ( には ) に 造 ( つく ) つた 大池 ( おほいけ ) で 有 ( あ ) つたらしい。 尤 ( もつと ) も、 居周圍 ( ゐまはり ) に 柱 ( はしら ) の 跡 ( あと ) らしい 礎 ( いしずゑ ) も 見當 ( みあた ) りません。が、 其 ( それ ) とても 埋 ( うも ) れたのかも 知 ( し ) れません。 一面 ( いちめん ) に 草 ( くさ ) が 茂 ( しげ ) つて、 曠野 ( あらの ) と 云 ( い ) つた 場所 ( ばしよ ) で、 何故 ( なぜ ) に 一度 ( いちど ) は 人家 ( じんか ) の 庭 ( には ) だつたか、と 思 ( おも ) はれたと 云 ( い ) ふのに、 其 ( そ ) の 沼 ( ぬま ) の 眞中 ( まんなか ) に 拵 ( こしら ) へたやうな 中島 ( なかじま ) の 洲 ( す ) が 一 ( ひと ) つ 有 ( あ ) つたからです。
で、 此 ( こ ) の 沼 ( ぬま ) は、 話 ( はなし ) を 聞 ( き ) いて、お 考 ( かんが ) へに 成 ( な ) るほど 大 ( おほき ) なものではないのです。 然 ( さ ) うかと 云 ( い ) つて、 向 ( むか ) う 岸 ( ぎし ) とさし 向 ( むか ) つて 聲 ( こゑ ) が 屆 ( とゞ ) くほどは 小 ( ちひ ) さくない。それぢや 餘程 ( よほど ) 廣 ( ひろ ) いのか、と 云 ( い ) ふのに、 又 ( また ) 然 ( さ ) うでもない、ものの十四五 分 ( ふん ) も 歩行 ( ある ) いたら、 容易 ( たやす ) く 一周 ( ひとまは ) り 出來 ( でき ) さうなんです。 但 ( たゞ ) し十四五 分 ( ふん ) で 一周 ( ひとまはり ) と 云 ( い ) つて、すぐに 思 ( おも ) ふほど、 狹 ( せま ) いのでもないのです。
と、 恁 ( か ) う 言 ( い ) ひます 内 ( うち ) にも、 其 ( そ ) の 沼 ( ぬま ) が 伸 ( の ) びたり 縮 ( ちゞ ) んだり、すぼまつたり、 擴 ( ひろ ) がつたり、 動 ( うご ) いて 居 ( ゐ ) るやうでせう。―― 居 ( ゐ ) ますか、 結構 ( けつこう ) です―― 其 ( そ ) のつもりでお 聞 ( き ) き 下 ( くだ ) さい。
一體 ( いつたい ) 、 水 ( みづ ) と 云 ( い ) ふものは、 一雫 ( ひとしづく ) の 中 ( なか ) にも 河童 ( かつぱ ) が 一個 ( ひとつ ) 居 ( ゐ ) て 住 ( す ) むと 云 ( い ) ふ 國 ( くに ) が 有 ( あ ) りますくらゐ、 氣心 ( きごころ ) の 知 ( し ) れないものです。 分 ( わ ) けて 底 ( そこ ) 澄 ( ず ) んで 少 ( すこ ) し 白味 ( しろみ ) を 帶 ( お ) びて、とろ/\と 然 ( しか ) も 岸 ( きし ) とすれ/″\に 滿々 ( まん/\ ) と 湛 ( たゝ ) へた 古沼 ( ふるぬま ) ですもの。 丁 ( ちやう ) ど、 其 ( そ ) の 日 ( ひ ) の 空模樣 ( そらもやう ) 、 雲 ( くも ) と 同一 ( おなじ ) に 淀 ( どんよ ) りとして、 雲 ( くも ) の 動 ( うご ) く 方 ( はう ) へ、 一所 ( いつしよ ) に 動 ( うご ) いて、 時々 ( とき/″\ ) 、てら/\と 天 ( てん ) に 薄日 ( うすび ) が 映 ( さ ) すと、 其 ( そ ) の 光 ( ひかり ) を 受 ( う ) けて、 晃々 ( きら/\ ) と 光 ( ひか ) るのが、 沼 ( ぬま ) の 面 ( おもて ) に 眼 ( まなこ ) があつて、 薄目 ( うすめ ) に 白 ( しろ ) く 人 ( ひと ) を 窺 ( うかゞ ) ふやうでした。
此 ( これ ) では、 其 ( そ ) の 沼 ( ぬま ) が、 何 ( なん ) だか 不氣味 ( ぶきみ ) なやうですが、 何 ( なに ) 、 一寸 ( ちよつと ) の 間 ( ま ) の 事 ( こと ) で、――四 時 ( じ ) 下 ( さが ) り、五 時 ( じ ) 前 ( まへ ) と 云 ( い ) ふ 時刻 ( じこく ) ―― 暑 ( あつ ) い 日 ( ひ ) で、 大層 ( たいそう ) 疲 ( つか ) れて、 汀 ( みぎは ) にぐつたりと 成 ( な ) つて 一息 ( ひといき ) 吐 ( つ ) いて 居 ( ゐ ) る 中 ( うち ) には、 雲 ( くも ) が、なだらかに 流 ( なが ) れて、 薄 ( うす ) いけれども 平 ( たひら ) に 日 ( ひ ) を 包 ( つゝ ) むと、 沼 ( ぬま ) の 水 ( みづ ) は 靜 ( しづか ) に 成 ( な ) つて、そして、 少 ( すこ ) し 薄暗 ( うすぐら ) い 影 ( かげ ) が 渡 ( わた ) りました。
風 ( かぜ ) はそよりともない。が、 濡 ( ぬ ) れない 袖 ( そで ) も 何 ( なん ) となく 冷 ( つめた ) いのです。
風情 ( ふぜい ) は 一段 ( いちだん ) で、 汀 ( みぎは ) には、 所々 ( ところ/″\ ) 、 丈 ( たけ ) の 低 ( ひく ) い 燕子花 ( かきつばた ) の、 紫 ( むらさき ) の 花 ( はな ) に 交 ( まじ ) つて、あち 此方 ( こち ) に 又 ( また ) 一 輪 ( りん ) づゝ、 言交 ( いひか ) はしたやうに、 白 ( しろ ) い 花 ( はな ) が 交 ( まじ ) つて 咲 ( さ ) く……
あの 中島 ( なかじま ) は、 簇 ( むらが ) つた 卯 ( う ) の 花 ( はな ) で 雪 ( ゆき ) を 被 ( かつ ) いで 居 ( ゐ ) るのです。 岸 ( きし ) に、 葉 ( は ) と 花 ( はな ) の 影 ( かげ ) の 映 ( うつ ) る 處 ( ところ ) は、 松葉 ( まつば ) が 流 ( なが ) れるやうに、ちら/\と 水 ( みづ ) が 搖 ( ゆ ) れます。 小魚 ( こうを ) が 泳 ( およ ) ぐのでせう。
差渡 ( さしわた ) し、 池 ( いけ ) の 最 ( もつと ) も 廣 ( ひろ ) い、 向 ( むか ) うの 汀 ( みぎは ) に、こんもりと一 本 ( ぽん ) の 柳 ( やなぎ ) が 茂 ( しげ ) つて、 其 ( そ ) の 緑 ( みどり ) の 色 ( いろ ) を 際立 ( きはだ ) てて、 背後 ( うしろ ) に 一叢 ( ひとむら ) の 森 ( もり ) がある、 中 ( なか ) へ 横雲 ( よこぐも ) を 白 ( しろ ) くたなびかせて、もう 一叢 ( ひとむら ) 、 一段 ( いちだん ) 高 ( たか ) く 森 ( もり ) が 見 ( み ) える。うしろは、 遠里 ( とほざと ) の 淡 ( あは ) い 靄 ( もや ) を 曳 ( ひ ) いた、なだらかな 山 ( やま ) なんです。―― 柳 ( やなぎ ) の 奧 ( おく ) に、 葉 ( は ) を 掛 ( か ) けて、 小 ( ちひ ) さな 葭簀張 ( よしずばり ) の 茶店 ( ちやみせ ) が 見 ( み ) えて、 横 ( よこ ) が 街道 ( かいだう ) 、すぐに 水田 ( みづた ) で、 水田 ( みづた ) のへりの 流 ( ながれ ) にも、はら/\ 燕子花 ( かきつばた ) が 咲 ( さ ) いて 居 ( ゐ ) ます。 此 ( こ ) の 方 ( はう ) は、 薄碧 ( うすあを ) い、 眉毛 ( まゆげ ) のやうな 遠山 ( とほやま ) でした。
唯 ( と ) 、 沼 ( ぬま ) が 呼吸 ( いき ) を 吐 ( つ ) くやうに、 柳 ( やなぎ ) の 根 ( ね ) から 森 ( もり ) の 裾 ( すそ ) 、 紫 ( むらさき ) の 花 ( はな ) の 上 ( うへ ) かけて、 霞 ( かすみ ) の 如 ( ごと ) き 夕靄 ( ゆふもや ) がまはりへ 一面 ( いちめん ) に 白 ( しろ ) く 渡 ( わた ) つて 來 ( く ) ると、 同 ( おな ) じ 雲 ( くも ) が 空 ( そら ) から 捲 ( ま ) き 下 ( おろ ) して、 汀 ( みぎは ) に 濃 ( こ ) く、 梢 ( こずゑ ) に 淡 ( あは ) く、 中 ( なか ) ほどの 枝 ( えだ ) を 透 ( す ) かして 靡 ( なび ) きました。
私 ( わたし ) の 居 ( ゐ ) た、 草 ( くさ ) にも、しつとりと 其 ( そ ) の 靄 ( もや ) が 這 ( は ) ふやうでしたが、 袖 ( そで ) には 掛 ( かゝ ) らず、 肩 ( かた ) にも 卷 ( ま ) かず、 目 ( め ) なんぞは 水晶 ( すゐしやう ) を 透 ( とほ ) して 見 ( み ) るやうに 透明 ( とうめい ) で。 詰 ( つま ) り、 上下 ( うへした ) が 白 ( しろ ) く 曇 ( くも ) つて、五六 尺 ( しやく ) 水 ( みづ ) の 上 ( うへ ) が、 却 ( かへ ) つて 透通 ( すきとほ ) る 程 ( ほど ) なので……
あゝ、あの 柳 ( やなぎ ) に、 美 ( うつくし ) い 虹 ( にじ ) が 渡 ( わた ) る、と 見 ( み ) ると、 薄靄 ( うすもや ) に、 中 ( なか ) が 分 ( わか ) れて、 三 ( みつ ) つに 切 ( き ) れて、 友染 ( いうぜん ) に、 鹿 ( か ) の 子 ( こ ) 絞 ( しぼり ) の 菖蒲 ( あやめ ) を 被 ( か ) けた、 派手 ( はで ) に 涼 ( すゞ ) しい 裝 ( よそほひ ) の 婦 ( をんな ) が三 人 ( にん ) 。
白 ( しろ ) い 手 ( て ) が、ちら/\と 動 ( うご ) いた、と 思 ( おも ) ふと、 鉛 ( なまり ) を 曳 ( ひ ) いた 絲 ( いと ) が 三條 ( みすぢ ) 、 三處 ( みところ ) へ 棹 ( さを ) が 下 ( お ) りた。
(あゝ、 鯉 ( こひ ) が 居 ( ゐ ) る……)
一 尺 ( しやく ) 、 金鱗 ( きんりん ) を 重 ( おも ) く 輝 ( かゞや ) かして、 水 ( みづ ) の 上 ( うへ ) へ 飜然 ( ひらり ) と 飛 ( と ) ぶ。」
人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||