人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||
四
「 私 ( わたし ) の 目 ( め ) か 眩 ( くら ) んだんでせうか、 婦 ( をんな ) は 瞬 ( またゝき ) をしません。五 分 ( ふん ) か 一時 ( いつとき ) と、 此方 ( こつち ) が 呼吸 ( いき ) をも 詰 ( つ ) めて 見 ( み ) ます 間 ( あひだ ) ――で、 餘 ( あま ) り 調 ( そろ ) つた 顏容 ( かほだち ) といひ、 果 ( はた ) して 此 ( これ ) は 白像彩塑 ( はくざうさいそ ) で、 何 ( ど ) う 云 ( い ) ふ 事 ( こと ) か、 仔細 ( しさい ) あつて、 此 ( こ ) の 廟 ( べう ) の 本尊 ( ほんぞん ) なのであらう、と 思 ( おも ) つたのです。
床 ( ゆか ) の 下 ( した ) …… 板縁 ( いたえん ) の 裏 ( うら ) の 處 ( ところ ) で、がさ/\がさ/\と 音 ( おと ) が 發出 ( しだ ) した…… 彼方 ( あつち ) へ、 此方 ( こつち ) へ、 鼠 ( ねずみ ) が、ものでも 引摺 ( ひきず ) るやうで、 床 ( ゆか ) へ 響 ( ひゞ ) く、と 其 ( そ ) の 音 ( おと ) が、 變 ( へん ) に、 恁 ( か ) う 上 ( うへ ) に 立 ( た ) つてる 私 ( わたし ) の 足 ( あし ) の 裏 ( うら ) を 擽 ( くすぐ ) ると 云 ( い ) つた 形 ( かたち ) で、むづ 痒 ( がゆ ) くつて 堪 ( たま ) らないので、もさ/\ 身體 ( からだ ) を 搖 ( ゆす ) りました。―― 本尊 ( ほんぞん ) は、まだ 瞬 ( またゝき ) もしなかつた。―― 其 ( そ ) の 内 ( うち ) に、 右 ( みぎ ) の 音 ( おと ) が、 壁 ( かべ ) でも 攀 ( よ ) ぢるか、 這上 ( はひあが ) つたらしく 思 ( おも ) ふと、 寢臺 ( ねだい ) の 脚 ( あし ) の 片隅 ( かたすみ ) に 羽目 ( はめ ) の 破 ( やぶ ) れた 處 ( ところ ) がある。 其 ( そ ) の 透間 ( すきま ) へ 鼬 ( いたち ) がちよろりと 覗 ( のぞ ) くやうに、 茶色 ( ちやいろ ) の 偏平 ( ひらつた ) い 顏 ( つら ) を 出 ( だ ) したと 窺 ( うかゞ ) はれるのが、もぞり、がさりと 少 ( すこ ) しづゝ 入 ( はひ ) つて、ばさ/\と 出 ( で ) る、と 大 ( おほ ) きさやがて 三俵法師 ( さんだらぼふし ) 、 形 ( かたち ) も 似 ( に ) たもの、 毛 ( け ) だらけの 凝團 ( かたまり ) 、 足 ( あし ) も、 顏 ( かほ ) も 有 ( あ ) るのぢやない。 成程 ( なるほど ) 、 鼠 ( ねずみ ) でも 中 ( なか ) に 潛 ( もぐ ) つて 居 ( ゐ ) るのでせう。
其奴 ( そいつ ) が、がさ/\と 寢臺 ( ねだい ) の 下 ( した ) へ 入 ( はひ ) つて、 床 ( ゆか ) の 上 ( うへ ) をずる/\と 引摺 ( ひきず ) つたと 見 ( み ) ると、 婦 ( をんな ) が 掻卷 ( かいまき ) から 二 ( に ) の 腕 ( うで ) を 白 ( しろ ) く 拔 ( ぬ ) いて、 私 ( わたし ) の 居 ( ゐ ) る 方 ( はう ) へぐたりと 投 ( な ) げた。 寢亂 ( ねみだ ) れて 乳 ( ちゝ ) も 見 ( み ) える。 其 ( それ ) を 片手 ( かたて ) で 祕 ( かく ) したけれども、 足 ( あし ) のあたりを 震 ( ふる ) はすと、あゝ、と 云 ( い ) つて 其 ( そ ) の 手 ( て ) も 兩方 ( りやうはう ) 、 空 ( くう ) を 掴 ( つか ) むと 裙 ( すそ ) を 上 ( あ ) げて、 弓形 ( ゆみなり ) に 身 ( み ) を 反 ( そ ) らして、 掻卷 ( かいまき ) を 蹴 ( け ) て、 轉 ( ころ ) がるやうに 衾 ( ふすま ) を 拔 ( ぬ ) けた。……
私 ( わたし ) は 飛出 ( とびだ ) した……
壇 ( だん ) を 落 ( お ) ちるやうに 下 ( お ) りた 時 ( とき ) 、 黒 ( くろ ) い 狐格子 ( きつねがうし ) を 背後 ( うしろ ) にして、 婦 ( をんな ) は 斜違 ( はすつかひ ) に 其處 ( そこ ) に 立 ( た ) つたが、 呀 ( あ ) 、 足許 ( あしもと ) に、 早 ( は ) やあの 毛 ( け ) むくぢやらの 三俵法師 ( さんだらぼふし ) だ。
白 ( しろ ) い 踵 ( くびす ) を 揚 ( あ ) げました、 階段 ( かいだん ) を 辷 ( すべ ) り 下 ( お ) りる、と、 後 ( あと ) から、ころ/\と 轉 ( ころ ) げて 附着 ( くツつ ) く。さあ、それからは、 宛然 ( さながら ) 人魂 ( ひとだま ) の 憑 ( つき ) ものがしたやうに、 毛 ( け ) が 赫 ( かつ ) と 赤 ( あか ) く 成 ( な ) つて、 草 ( くさ ) の 中 ( なか ) を 彼方 ( あつち ) へ、 此方 ( こつち ) へ、たゞ、 伊達卷 ( だてまき ) で 身 ( み ) についたばかりのしどけない 媚 ( なまめ ) かしい 寢着 ( ねまき ) の 婦 ( をんな ) を 追※ ( おひまは )
す。 婦 ( をんな ) はあとびつしやりをする、 脊筋 ( せすぢ ) を 捩 ( よぢ ) らす。 三俵法師 ( さんだらぼふし ) は、 裳 ( もすそ ) にまつはる、 踵 ( かゝと ) を 嘗 ( な ) める、 刎上 ( はねあが ) る、 身震 ( みぶるひ ) する。やがて、 沼 ( ぬま ) の 縁 ( ふち ) へ 追迫 ( おひせま ) られる、と 足 ( あし ) の 甲 ( かふ ) へ 這上 ( はひあが ) る 三俵法師 ( さんだらぼふし ) に、わな/\ 身悶 ( みもだえ ) する 白 ( しろ ) い 足 ( あし ) が、あの、 釣竿 ( つりざを ) を 持 ( も ) つた三 人 ( にん ) の 手 ( て ) のやうに、ちら/\と 宙 ( ちう ) に 浮 ( う ) いたが、するりと 音 ( おと ) して、 帶 ( おび ) が 辷 ( すべ ) ると、 衣 ( き ) ものが 脱 ( ぬ ) げて 草 ( くさ ) に 落 ( お ) ちた。
「 沈 ( しづ ) んだ 船 ( ふね ) ――」と、 思 ( おも ) はず 私 ( わたし ) が 聲 ( こゑ ) を 掛 ( か ) けた。 隙 ( ひま ) も 無 ( な ) しに、 陰氣 ( いんき ) な 水音 ( みづおと ) が、だぶん、と 響 ( ひゞ ) いた……
しかし、 綺麗 ( きれい ) に 泳 ( およ ) いで 行 ( ゆ ) く。 美 ( うつくし ) い 肉 ( にく ) の 脊筋 ( せすぢ ) を 掛 ( か ) けて 左右 ( さいう ) へ 開 ( ひら ) く 水 ( みづ ) の 姿 ( すがた ) は、 輕 ( かる ) い 羅 ( うすもの ) を 捌 ( さば ) くやうです。 其 ( そ ) の 膚 ( はだ ) の 白 ( しろ ) い 事 ( こと ) 、あの 合歡花 ( ねむのはな ) をぼかした 色 ( いろ ) なのは、 豫 ( かね ) て 此 ( こ ) の 時 ( とき ) のために 用意 ( ようい ) されたのかと 思 ( おも ) ふほどでした。
動止 ( うごきや ) んだ 赤茶 ( あかちや ) けた 三俵法師 ( さんだらぼふし ) が、 私 ( わたし ) の 目 ( め ) の 前 ( まへ ) に、 惰力 ( だりよく ) で、 毛筋 ( けすぢ ) を、ざわ/\とざわつかせて、うツぷうツぷ 喘 ( あへ ) いで 居 ( ゐ ) る。
見 ( み ) ると 驚 ( おどろ ) いた。ものは 棕櫚 ( しゆろ ) の 毛 ( け ) を 引束 ( ひツつか ) ねたに 相違 ( さうゐ ) はありません。が、 人 ( ひと ) が 寄 ( よ ) る 途端 ( とたん ) に、ぱちぱち 豆 ( まめ ) を 燒 ( や ) く 音 ( おと ) がして、ばら/\と 飛着 ( とびつ ) いた、 棕櫚 ( しゆろ ) の 赤 ( あか ) いのは、 幾千萬 ( いくせんまん ) とも 數 ( かず ) の 知 ( し ) れない 蚤 ( のみ ) の 集團 ( かたまり ) であつたのです。
早 ( は ) や、 兩脚 ( りやうあし ) が、むづ/\、 脊筋 ( せすぢ ) がぴち/\、 頸首 ( えりくび ) へぴちんと 來 ( く ) る、 私 ( わたし ) は 七顛八倒 ( しつてんはつたう ) して 身體 ( からだ ) を 振 ( ふ ) つて 振飛 ( ふりと ) ばした。
唯 ( と ) 、 何 ( なん ) と、 其 ( そ ) の 棕櫚 ( しゆろ ) の 毛 ( け ) の 蚤 ( のみ ) の 巣 ( す ) の 處 ( ところ ) に、 一人 ( ひとり ) 、 頭 ( づ ) の 小 ( ちひ ) さい、 眦 ( めじり ) と 頬 ( ほゝ ) の 垂下 ( たれさが ) つた、 青膨 ( あをぶく ) れの、 土袋 ( どぶつ ) で、 肥張 ( でつぷり ) な 五十 ( ごじふ ) 恰好 ( かつかう ) の、 頤鬚 ( あごひげ ) を 生 ( はや ) した、 漢 ( をとこ ) が 立 ( た ) つて 居 ( ゐ ) るぢやありませんか。 何 ( なに ) ものとも 知 ( し ) れない。 越中褌 ( ゑつちうふんどし ) と 云 ( い ) ふ……あいつ 一 ( ひと ) つで、 眞裸 ( まつぱだか ) で 汚 ( きたな ) い 尻 ( けつ ) です。
婦 ( をんな ) は 沼 ( ぬま ) の 洲 ( す ) へ 泳 ( およ ) ぎ 着 ( つ ) いて、 卯 ( う ) の 花 ( はな ) の 茂 ( しげり ) にかくれました。
が、 其 ( そ ) の 姿 ( すがた ) が、 水 ( みづ ) に 流 ( なが ) れて、 柳 ( やなぎ ) を 翠 ( みどり ) の 姿見 ( すがたみ ) にして、ぽつと 映 ( うつ ) つたやうに、 人 ( ひと ) の 影 ( かげ ) らしいものが、 水 ( みづ ) の 向 ( むか ) うに、 岸 ( きし ) の 其 ( そ ) の 柳 ( やなぎ ) の 根 ( ね ) に 薄墨色 ( うすずみいろ ) に 立 ( た ) つて 居 ( ゐ ) る…… 或 ( あるひ ) は 又 ( また ) …… 此處 ( こゝ ) の 土袋 ( どぶつ ) と 同一 ( おなじ ) やうな 男 ( をとこ ) が、 其處 ( そこ ) へも 出 ( で ) て 來 ( き ) て、 白身 ( はくしん ) の 婦人 ( をんな ) を 見 ( み ) て 居 ( ゐ ) るのかも 知 ( し ) れません。
私 ( わたし ) も 其 ( そ ) の 一人 ( ひとり ) でせうね……
(や、 待 ( ま ) てい。)
青膨 ( あをぶく ) れが、 痰 ( たん ) の 搦 ( から ) んだ、ぶやけた 聲 ( こゑ ) して、 早 ( は ) や 行掛 ( ゆきかゝ ) つた 私 ( わたし ) を 留 ( と ) めた……
( 見 ( み ) て 貰 ( もれ ) えたいものがあるで、 最 ( も ) う 直 ( ぢき ) ぢやぞ。)と、 首 ( くび ) をぐたりと 遣 ( や ) りながら、 横柄 ( わうへい ) に 言 ( い ) ふ。…… 何 ( なん ) と、 其 ( そ ) の 兩足 ( りやうあし ) から、 下腹 ( したばら ) へ 掛 ( か ) けて、 棕櫚 ( しゆろ ) の 毛 ( け ) の 蚤 ( のみ ) が、うよ/\ぞろ/\…… 赤蟻 ( あかあり ) の 列 ( れつ ) を 造 ( つく ) つてる…… 私 ( わたし ) は 立窘 ( たちすく ) みました。
ひら/\、と 夕空 ( ゆふぞら ) の 雲 ( くも ) を 泳 ( およ ) ぐやうに 柳 ( やなぎ ) の 根 ( ね ) から 舞上 ( まひあが ) つた、あゝ、 其 ( それ ) は 五位鷺 ( ごゐさぎ ) です。 中島 ( なかじま ) の 上 ( うへ ) へ 舞上 ( まひあが ) つた、と 見 ( み ) ると 輪 ( わ ) を 掛 ( か ) けて 颯 ( さつ ) と 落 ( おと ) した。
(ひい。)と 引 ( ひ ) く 婦 ( をんな ) の 聲 ( こゑ ) 。 鷺 ( さぎ ) は 舞上 ( まひあが ) りました。 翼 ( つばさ ) の 風 ( かぜ ) に、 卯 ( う ) の 花 ( はな ) のさら/\と 亂 ( みだ ) るゝのが、 婦 ( をんな ) が 手足 ( てあし ) を 畝 ( うね ) らして、 身 ( み ) を ※ ( もが )
くに 宛然 ( さながら ) である。今 ( いま ) 考 ( かんが ) へると、それが 矢張 ( やつぱ ) り、あの 先刻 ( さつき ) の 樹 ( き ) だつたかも 知 ( し ) れません。 同 ( おな ) じ 薫 ( かをり ) が 風 ( かぜ ) のやうに 吹亂 ( ふきみだ ) れた 花 ( はな ) の 中 ( なか ) へ、 雪 ( ゆき ) の 姿 ( すがた ) が 素直 ( まつすぐ ) に 立 ( た ) つた。が、 滑 ( なめら ) かな 胸 ( むね ) の 衝 ( つ ) と 張 ( は ) る 乳 ( ちゝ ) の 下 ( した ) に、 星 ( ほし ) の 血 ( ち ) なるが 如 ( ごと ) き 一雫 ( ひとしづく ) の 鮮紅 ( からくれなゐ ) 。 絲 ( いと ) を 亂 ( みだ ) して、 卯 ( う ) の 花 ( はな ) が 眞赤 ( まつか ) に 散 ( ち ) る、と 其 ( そ ) の 淡紅 ( うすべに ) の 波 ( なみ ) の 中 ( なか ) へ、 白 ( しろ ) く 眞倒 ( まつさかさま ) に 成 ( な ) つて 沼 ( ぬま ) に 沈 ( しづ ) んだ。 汀 ( みぎは ) を 廣 ( ひろ ) くするらしい 寂 ( しづ ) かな 水 ( みづ ) の 輪 ( わ ) が 浮 ( う ) いて、 血汐 ( ちしほ ) の 綿 ( わた ) がすら/\と 碧 ( みどり ) を 曳 ( ひ ) いて 漾 ( たゞよ ) ひ 流 ( なが ) れる……
(あれを 見 ( み ) い、 血 ( ち ) の 形 ( かたち ) が 字 ( じ ) ぢやらうが、 何 ( なん ) と 讀 ( よ ) むかい。)
―― 私 ( わたし ) が 息 ( いき ) を 切 ( き ) つて、 頭 ( かぶり ) を 掉 ( ふ ) ると、
( 分 ( わか ) らんかい、 白痴 ( たはけ ) めが。)と、ドンと 胸 ( むね ) を 突 ( つ ) いて、 突倒 ( つきたふ ) す。 重 ( おも ) い 力 ( ちから ) は、 磐石 ( ばんじやく ) であつた。
( 又 ( また ) …… 遣直 ( やりなほ ) しぢや。)と 呟 ( つぶや ) きながら、 其 ( そ ) の 蚤 ( のみ ) の 巣 ( す ) をぶら 下 ( さ ) げると、 私 ( わたし ) が 茫然 ( ばうぜん ) とした 間 ( あひだ ) に、のそのそ、と 越中褌 ( ゑつちうふんどし ) の 灸 ( きう ) のあとの 有 ( あ ) る 尻 ( しり ) を 見 ( み ) せて、そして、やがて、 及腰 ( およびごし ) の 祠 ( ほこら ) の 狐格子 ( きつねがうし ) を 覗 ( のぞ ) くのが 見 ( み ) えた。
( 奧 ( おく ) さんや、 奧 ( おく ) さんや―― 蚤 ( のみ ) が、 蚤 ( のみ ) が――)
と 腹 ( はら ) をだぶ/\、 身悶 ( みもだ ) えをしつゝ、 後退 ( あとじさ ) りに 成 ( な ) つた。 唯 ( と ) 、どしん、と 尻餅 ( しりもち ) をついた。が、 其 ( そ ) の 頭 ( あたま ) へ、 棕櫚 ( しゆろ ) の 毛 ( け ) をずぼりと 被 ( かぶ ) る、と 梟 ( ふくろふ ) が 化 ( ば ) けたやうな 形 ( かたち ) に 成 ( な ) つて、 其 ( そ ) のまゝ、べた/\と 草 ( くさ ) を 這 ( は ) つて、 縁 ( えん ) の 下 ( した ) へ 這込 ( はひこ ) んだ。――
蝙蝠傘 ( かうもりがさ ) を 杖 ( つゑ ) にして、 私 ( わたし ) がひよろ/\として 立去 ( たちさ ) る 時 ( とき ) 、 沼 ( ぬま ) は 暗 ( くら ) うございました。そして 生 ( なま ) ぬるい 雨 ( あめ ) が 降出 ( ふりだ ) した……
( 奧 ( おく ) さんや、 奧 ( おく ) さんや。)
と 云 ( い ) つたが、 其 ( そ ) の 土袋 ( どぶつ ) の 細君 ( さいくん ) ださうです。 土地 ( とち ) の 豪農 ( がうのう ) 何某 ( なにがし ) が、 内證 ( ないしよう ) の 逼迫 ( ひつぱく ) した 華族 ( くわぞく ) の 令孃 ( れいぢやう ) を 金子 ( かね ) にかへて 娶 ( めと ) つたと 言 ( い ) ひます。 御殿 ( ごてん ) づくりでかしづいた、が、 其 ( そ ) の 姫君 ( ひめぎみ ) は 可恐 ( おそろし ) い 蚤 ( のみ ) 嫌 ( ぎら ) ひで、 唯 ( たゞ ) 一 匹 ( ぴき ) にも、 夜 ( よる ) も 晝 ( ひる ) も 悲鳴 ( ひめい ) を 上 ( あ ) げる。 其 ( そ ) の 悲 ( かな ) しさに、 別室 ( べつしつ ) の 閨 ( ねや ) を 造 ( つく ) つて 防 ( ふせ ) いだけれども、 防 ( ふせ ) ぎ 切 ( き ) れない。で、 果 ( はて ) は 亭主 ( ていしゆ ) が、 蚤 ( のみ ) を 除 ( よ ) けるための 蚤 ( のみ ) の 巣 ( す ) に 成 ( な ) つて、 棕櫚 ( しゆろ ) の 毛 ( け ) を 全身 ( ぜんしん ) に 纏 ( まと ) つて、 素裸 ( すつぱだか ) で、 寢室 ( しんしつ ) の 縁 ( えん ) の 下 ( した ) へ 潛 ( もぐ ) り 潛 ( もぐ ) り、 一夏 ( ひとなつ ) のうちに 狂死 ( くるひじに ) をした。――
(まだ、 迷 ( まよ ) つて 居 ( ゐ ) さつしやるかなう、 二人 ( ふたり ) とも―― 旅 ( たび ) の 人 ( ひと ) がの、あの 忘 ( わす ) れ 沼 ( ぬま ) では、 同 ( おな ) じ 事 ( こと ) を 度々 ( たび/\ ) 見 ( み ) ます。)
旅籠屋 ( はたごや ) での 談話 ( はなし ) であつた。」
工學士 ( こうがくし ) は 附 ( つ ) けたして、
「…… 祠 ( ほこら ) の 其 ( そ ) の 縁 ( えん ) の 下 ( した ) を 見 ( み ) ましたがね、…… 御存 ( ごぞん ) じですか…… 異類 ( いるゐ ) 異形 ( いぎやう ) な 石 ( いし ) がね。」
日 ( ひ ) を 經 ( へ ) て 工學士 ( こうがくし ) から 音信 ( おとづれ ) して、あれは、 乳香 ( にうかう ) の 樹 ( き ) であらうと 言 ( い ) ふ。
人魚の祠
泉鏡太郎 (Ningyo no hokora) | ||